隣人設定


AM02:00


 大学へは最寄りの駅から二駅分で着く。都会過ぎず、かと言って特別不便に感じる事もなくて、少し歩けばすぐコンビニがあるし、スーパーもファミレスも書店もある程度揃っている。夜、人通りが煩いと感じる事もなければ、車や電車の音も気にならない。一人で暮らすには丁度良い広さの部屋に払うのが苦に感じる事がない程の家賃。
 最高の立地条件の下に建てられたやや新しめのマンションに住み始めたのは約半年前の事だ。大学進学にあたって何処かいい物件はないかと探していた所に丁度このマンションを見つけ、即入居を決めたのはまだ記憶に新しい。
 住み始めてからも特に不便を感じる事もなく今まで過ごして来たし、この部屋に決めて良かったとも思う。要するに、骸はこのマンション、この部屋を酷く気に入っていたのだ。
 しかしその平穏はここ数日で、いとも簡単に崩れ去ってしまっていた。

(毎日よく飽きませんね)

 そんな言葉がふと脳裏に浮かんで消える。
 深夜2時。普通なら大体の人間が寝静まっているであろうこの時間、骸は眠れずただ目を開けて寝室の壁を睨んでいた。
 壁越しに大音量で流れ込んでくる音、音、音。
 骸はこのマナーのなっていない顔も知らない隣人のせいで毎晩悩まされていた。
 少しでも気を紛らわせようと布団を頭まで被り、音を遮断しようと試みながら骸はここ最近の事を思い返した。
 数日前、ずっと空き部屋だったはずの隣の部屋に入居者が入った。別にそれはいい。何の問題もない。仮にも隣同士になったのだから挨拶にくらい来るかと思ったが隣人は一向に姿を見せず、男なのか女なのかさえも不明のままである。別にそれだって大した問題ではないのだ。最近では珍しくも無いだろう。
 問題なのはマナーの悪さである。連日、毎晩毎晩スピーカーから発せられる異常なまでの爆音。それは夜中に流すには酷く不釣り合いで、ようやく眠気が襲ってきたと思ってもその音のせいで眠れない、なんて事はザラにあった。
 唯一安眠できるのは隣人が夜中に出掛けて家を留守にしている時のみだ。
 しかし毎日外出をする訳もなく殆ど家にいる為、結果毎日のようにこの大音量で流れる訳の分からない歌を聞く羽目になっているのだ。
 最初こそ我慢してはいたが、最近ではそれも限界が来そうだ。
 眉間に寄るシワが徐々に増えていくのが自分でも分かったが、それを止められる訳もなくシーツを握る手に力にが籠もる。

(もう我慢の限界だ……)

 骸は勢いよく起き上がりベットから降りた。早急に玄関へと向かい、乱暴に扉を開き外へ足を踏み出した。
 冬の深夜の外気はとても冷たく、上下スウェットというラフな格好だった事も手伝って体が震えたが、そんな事は気にならない程に骸は怒っていた。
 ドンドンドン――
 インターホンを鳴らすという事さえも面倒に感じ、鉄で出来た扉を思い切り叩く。
 数十秒の後、ゆっくりと扉が開かれると同時に部屋の中から大音量の音楽が漏れ出した。

「……何? こんな時間に」
「それは此方の台詞だ」

 中から出てきた男は、何故骸が訪ねて来たのか全く分からないとでも言うような表情を浮かべてそう呟いた。
 骸はそんな男に更に苛立ちを覚え、不機嫌な態度を隠す事もせずに言葉を続けた。

「毎晩毎晩煩いんですよ。夜中にそんなに大きな音で、非常識にも程があります。眠れない此方の身にもなれ! だいたい貴方ね、マナーがなってないんですよ。貴方だけの家じゃ無いんです、周りの迷惑も考えなさい!」

 まくし立てるように溜まっていた鬱憤を全て口にすると幾分か苛立ちは収まった。まだ言い足りないが、骸は一旦そこで切り上げ、男の様子を伺う。

「えっと……ごめん……?」
「何故疑問系なんですか」
「いやー……実はさ」

 防音だと思ってたんだよね。男から発せられた言葉は俄に信じがたいものだったが、男の表情からして嘘をついているようには見えなかった。
 予想外の返答に拍子抜けしてしまい、思わず間抜けな声をあげてしまった。

「ふざけてるんですか、貴方」
「いやいや、至って真面目だよ」
「普通に考えて下さい。こんな一般的なマンションの壁が防音構造な訳がないでしょう」

 マナーがなっていないこの男には常識というものすら欠落していると言うのか。
 この男を見ていると、何だか戦意や怒気を削ぎ落とされる。
 そんなことを考えながら骸は深くため息を吐き、次からは気をつけて下さいと言うだけに留まった。

「うん、ごめんね」

 正直に、今度は本当に申しなさそうな表情を見せ、男は謝罪を口にした。

 ふと何気なしに、今まで怒りであまりよく見ていなかった男の顔に目を向ける。
 飛び込んで来たのは白だった。
 色々な方向にハネている髪の色は白く、長い前髪がかかる瞳は紫水晶のようだ。その下にはタトゥーがあり、それは目立つと同時に男に酷く似合っていた。自分も随分目立つ容姿をしていると思っていたが、この男も相当である。

「ねえ、名前何て言うの?」

 男の問いかけに、しばらくの間無言で視線を送っていた事に気づき、慌てて目を逸らす。

「六道です。六道骸」
「骸クンね」

 骸クン、再度呟きながら伸ばされて来た手が頭に置かれた。

「寝癖ついてる」

 言いながら、ゆっくりとした手つきで髪を梳かれる。暖かい手の体温と触れる感覚が心地よく感じ、自然に瞼が下がっていく。
 ふと、骸は思う。

(何だ、この状況は)

 何か可笑しくはないか。自分は確かこの非常識な男に文句を言ってやろうと怒りを露わにして此処に来た筈だ。
 なのに何故自分は髪を梳かれ、頭を撫でられているのだろうか。
 しかもそれを心地いいとまで感じている。
 瞬間、外気に晒されて冷え切っているはずの体が熱くなるのが分かった。何故だか顔も赤く染まっている自覚がある。それからの行動は素早かった。

「おやすみ、なさい……!」

 頭に置かれている手を振り払うようにして退け、骸は脱兎の如く隣にある自分の部屋へと駆け込んだ。
 後ろから驚いたような声で「おやすみ」と言われた気がしたが、それを確かめている余裕は無かった。
 一体何だったんだ、あの行動は。初対面の相手に髪を撫でられ赤面するなど、不可解極まりない。しかも相手は同性である。最早笑えもしない。

 そう言えば結局名前を聞きそびれてしまったなと見当違いな事を考えながら、未だに鳴り止まない心臓を落ち着けようと必死で深呼吸を繰り返す。
 眠気は当分、やってきそうに無かった。




20110202
20110302 誤字修正





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