▼ 14 恋患い
なぜベルンホーンは自分にしつこく「愛」などというものを説くのか。シスタにはずっと理解出来なかったが、次第に胸の底にもやもやとした気持ちが吹き溜まるようになった。
「……ここは……私の寝室……じゃない?」
ぼんやりした頭を抱え、青年は起き上がる。隣にはベルンホーンの背中がむき出しで、広い肩はクッションを抱き込み眠っていた。
癖っ毛の銀髪と同じ色の長いまつ毛。若く美しいこの男は、眠っているとまるで怖さを感じない。
「ベルンホーン」
なぜ自分がここにいるのか聞きたかったが、悪魔は深い眠りに落ちていた。
昨夜の痴態を思い天井を仰ぐ。鏡に映った自分は液にまみれていたはずなのに、体は綺麗だ。いつもどおり、彼が綺麗にしたのだと想像した。
シスタは落ち着かないながらも、いい機会と捉えベルンホーンを見下ろす。
この悪魔は自身の生存の術だ。冥界で何も持たないシスタにとって、命綱である。
けれど親友を見つけるという目的がこんなにも早く果たされた今、なんとなく彼との関係が宙ぶらりんな気がした。
これからは、おそらく自分がベルンホーンに恩を返すべきだろう。
だが、何をすべきなのかということは、具体的に分かっていなかった。
考えていると、遠くの白い壁がぼわっと紫色に照らされた。
机に置いてある何かが光り続けたため、悪魔を起こそうとした。
「起きろ、ベルンホーン」
肩にそっと触れただけで、死んだように寝ていた男の瞳が突然開いた。
緑の宝石のような鮮やかな眼は、ぎょろりと斜め上にいるシスタを捕らえ、一瞬で恐れを抱かせる。
「…………シスタ」
「あ、ああ。……悪い。起こさないほうがよかったか」
普段の明るさはなく、冷たい顔つきで起き上がった悪魔を警戒して見つめる。
ベルンホーンは顔をこすり、下を向いたままじっとしていた。
シスタはすぐに、自分がここにいることの非を感じた。
「すまなかったな。私はもう戻ろう」
裸のまま立ち上がろうとすると、手首を掴まれる。
「待て、行くな。……はあ。悪いな。俺は寝起きがとてつもなく良くない」
彼は体が重そうな仕草であぐらをかき、髪をかき上げて整えようとする。
シスタは躊躇いがちに腰を落とし、様子を伺った。
「だから私は、いつも自分の部屋に返されていたのか? それとも、ただ一人で眠りたかったか」
「…………どちらも違う。一度眠ると、俺はささやかな物音では起きないんだ。眠りが深くてな、無防備になるのが好きじゃない。……もちろん強敵が現れれば別だぞ」
そう説明すると、段々頭が冴えてきたのかベルンホーンはとても大きなあくびをし、腕と背をのばして一息ついた。
「ああ、おはよう。シスタ。……お前は朝から可愛いな。いつから起きていた?」
「ついさっきだ。……あそこにある何かが、ずっと点滅しているぞ」
青年の目線を追った悪魔は、すぐに嫌そうな顔をする。
「くそ、兄上だ。昨日挨拶せずに帰ったからまた説教だろうな」
彼が立ち上がり、シスタはその見とれるような裸体から目をそらす。
しかし連絡装置である魔石を取らずに、悪魔はなんとそのまま煙草をもってバルコニーに出ようとした。
「ま、待て、これを着ろ」
自分も急いでガウンを羽織り、尻を向ける長身の男に差し出した。
すると艶めかしい笑顔を見せられる。
「ふふっ。ここは俺の家だ。気にしなくていいのに。待ってろよ、まだ行くな。シスタ」
部屋にいろと言われ、悪魔の日課が済むまで青年は言う通りにした。
変な状況だ。
いつもは夜のあの淫靡な時間は夢みたいに切り取られていたが、翌日にも安穏とした続きがあったかのようで。
帰ってきたすっきり顔の男に、シスタはベッドに座ったまま質問した。
「どうして私の前で無防備になったんだ?」
「…………お前は結構直球なところがあるな。なったらまずいのか?」
「いや……そうは言っていないが。私など、お前をどうこうすることも出来ないしな。……ただ、気になっただけだ」
ベルンホーンは床に敷かれたラグの上に跪き、シスタの両手を握る。
「お前は頭は良さそうなのに、鈍感な男だな、シスタ。だがそんなところも可愛いぞ」
「ごまかすな。私のどこが……まあいい。それと、もうひとつ聞きたい。首輪がないようだが」
奴隷の青年は昨夜のパーティーのときと同様に、まだ首に何も嵌められていないことが変に感じた。
しかしベルンホーンは優しく目を細めて微笑む。
「それか、もうつけてなくていい」
「……えっ? なぜだ。必要だろう?」
怪訝に思っても悪魔は首を振る。
ますます、シスタには分からないことが増えていった。
◇
そうやって二週間ほどが過ぎ、いつもの毎日が戻ってきたはずだった。
しかし白いローブ姿の青年は、悪魔にある時こう告げた。
「ベルンホーン。頼みがあるんだ。実は今日、エハルドが非番らしく、出来たら会おうと思っている。まだ話が尽きなくてな。済んだらすぐに帰るが、許してもらえるか?」
「……ふうん。そうか。まあ、いいが……」
悪魔は青年に自然と上目遣いで願われると、却下出来なかった。しかも心配なため仕方なくその場所まで送りにいってやるというサービスつきだ。
街中に到着するとシスタは感謝を示して自分のもとを離れた。
ベルンホーンは青年に連絡役の魔法鳥を飛ばすことを許可し、男との約束についても口うるさく言っていない。
けれどどうしても、ストレスは増幅する。
「まったく、何が楽しい? こんな堅物そうな男と喋って」
純白の石造りの広間にベルンホーンはいた。
ソファに長い脚を投げ出して占領し、片手にはグラスを握っている。
彼の前には低いテーブルがあり、そこに大きな縦長の魔石が浮かんでいた。
透明な石には親友の騎士、トロイエの顔がアップで映っている。鎧姿だが仮面は外し、硬派な金髪男の笑顔や頷く様子が絶え間ない。
これはシスタ目線でいわば監視している映像だった。
「くそっ、ずっとこいつの腹立たしい顔で胸焼けがしてくる。俺はシスタが見たいんだ。こんなことならこの騎士の瞳に魔法をかけてやればよかった。きっと魔界に来てから羽目を外し、裏でえげつない事をしてるに違いない」
興奮したベルンホーンは、そうすればシスタも幻滅してこの男を嫌うのではないかなどと夢想した。
「ブルード。酒が足りないぞ。早くしろ」
「はい。……珍しいですね、ベルンホーン様。あなたはいつもスタイルをキープするために節制しているのかと思っていましたが」
「はっ! 別にそんなことはしていない。いい男というのはな、たいした努力をせずともいい男なんだ。生まれ持った才なのさ」
生まれという言葉を嫌うはずの主人に、グレイの髪色の老執事は多くを言わず頷いて酒を注ぐ。
「本当に忌々しい男だ。どうやって始末してやろうか。ブルード、お前ならどうする」
「そうですね……私なら、必然の中で殺します。騎士ならば戦場で」
「ははは、いい案だ!」
酒が進む主人を執事は横目で見やる。
「しかしベルンホーン様。身分はこの際無視するとしても、彼はシスタ様の友人です。取り返しのつかないことになりますよ」
そんなことは分かっていると悪魔は舌打ちする。
シスタの悲しむ顔など見たくない。なによりその原因があの男であることも許せない。
だからこうして思考の悪循環に陥っているのだ。
「ふん……じゃあ俺はどうすればいい。シスタを俺に夢中にさせるには、なにが足りないーー」
視線を再び魔石に向けた。
すると街中で話していた二人はいつの間にか移動し、人々で賑わう市場にいた。
鎧の騎士が野菜などを手に取りながら、和気あいあいとシスタと話している。
「ぐっ……なんなんだ、二人で買物を楽しんで、一緒に夕飯でも食べるつもりか? 俺は一体何を見ている?」
怒りの手が宙を振り払い、監視魔法を消した。
魔石は静かな冷たい石に戻り、ベルンホーンは虚空を見つめる。
「ブルード」
「はい」
「もっと酒を出せ。強いやつをな」
「かしこまりました。……ですがベルンホーン様、希望はありますよ。騎士はシスタ様にほどよい距離感を保っています。もし恋人だったのなら更に密着しているかとーー」
「そうならば俺はここには居らずもう殺っている」
おかしい。こんなにも心が乱され、破壊衝動に襲われるとは。
魔族など浮気は当たり前で一々気にする者はいない。
一途に愛を誓い合う者同士のほうが異端だ。
それなのに、この心の惨状はまるで恋患いだと、ベルンホーンは顔を手で覆った。
やがて執事は消え、一人で深酒をしながらソファに深くもたれる。
「シスタ……早く帰って来い。なぜ俺ではなくそいつを選ぶんだ……」
「ベルンホーン?」
突如後ろから青年の低く心地よい音色が響き、飛び起きた。
彼は紙袋を抱え、驚いた様子で近くに来る。
「シスタ……? もう帰ってきたのか?」
「ああ。お前は……一人で飲んでいたのか。酒瓶が二つ空じゃないか」
本当は二つどころではないが、魔族は滅多に酔わないため大丈夫だと弁明する。
「お前は本当に一人で何かすることが好きなんだな。私に構わず、自由に過ごしてほしい。飲み過ぎは心配だが」
「何を言ってるんだ。一人で暇だから飲んでいただけさ。とにかくお前が思ったより早く帰ってきたから俺は嬉しいぞ」
ベルンホーンは素直に言い彼を胸板で抱きしめた。
そのとき紙袋が潰れそうになる。よく見ると食材が入っていた。
「あ、これはな。今日は夕食を作ろうと思って。あいつに色々こちらの食べ物を教えてもらって、買ってきたんだ」
「……えっ……? そうだったのか?」
シスタは何故か微動だにしない悪魔の前で頷く。
「うそだろ、俺のことを考えてくれていたなんて……っ。すまないシスタ! お前を疑った俺が馬鹿だった!」
「何の話だ。なぜ私は疑われたんだ」
「いや何でもないよ。さあさあ、何を作ってくれるんだ?」
完全に機嫌を取り戻したベルンホーンは、彼のローブを脱がせ食材を一緒に台所へ運んだ。
もう瞳は優しくうっとりと青年に注がれており、自分のために作業するその可憐な様を眺める。
恋とは、こうも簡単に相手の言動や取り巻く状況で、感情を乱高下させるものなのだと知った。
シスタは料理に慣れていない様子だったが、一時間後、近くの食卓へ二つの皿が並べられる。
ベルンホーンのほうが体格を考えてかかなりの大盛りだ。
悪魔はすぐに全てをすごい速さで平らげた。
途中、まだ火が完全に通っていない野菜のボリボリとした音や他にも骨の妙な音が聞こえたが、皿には何も残っていない。
「うん! 美味い! 最高だシスタ! ありがとうな。俺の胃も心も大満足だよ」
彼は満面の笑みで、まだ食べ始めたばかりのシスタに椅子を寄せ、ぎゅっと抱きしめる。
「本当か? そこまで喜ばれるとは……私も嬉しいよ。食べてくれてありがとう」
微かにだが、青年はほっとした笑みを見せた。
そんなものは見たことのない悪魔は、大きく目を見開いたあと、もはや感涙しそうになる。
しかし自分のを食べ進めた青年を眺めているうち、おかしなことが起きた。
「うっ。全然美味しくないぞ。なんだこれは……歯が壊れるかもしれない。ベルンホーン、なぜこんなものを全て食べた。お前は優しすぎる」
口をナプキンで押さえ、シスタはショックを受けて言う。
「はは。少し硬いだけだ。問題ないよ」
「でも……」
「まあそうだな、あとは味を十倍ほど濃くしてくれたら更に良くなる。でも俺には完璧だ、シスタ。何よりお前の手料理を俺に味わわせてくれたことがこの上ない幸せをもたらしてくれた。最高の気分だ」
ベルンホーンは美しい笑みを浮かべて青年の頬に押し付けるようなキスをした。
シスタはそんな男をじっと見つめた。
やはり彼は優しい。自分にだけ特別にそうなのかと、少し想像もする。
「ベルンホーン……私はお前に礼がしたい。何かしたいんだ。これまで多くの願いを叶えてもらった。何が出来る?」
「ああシスタ。お前はなんて健気な男なんだ。お前がそばにいてくれるだけでいいと、何度言えば分かる」
それは悪魔の本心である。今日の前半のような思いさえしなければ、幸福に違いないのだ。
「ではとりあえず俺の膝の上に乗ってくれるか?」
「……なんだと?」
「頼むよ。それで俺は安心できる」
可笑しいほどに一瞬顔を歪めたシスタだったが、前言撤回するつもりはないらしく、男の片方の長い脚の上に座った。
体型はスリムだと思っていたが太ももはしっかり肉付きがよく、座り心地は悪くない。
「ああ……お前の趣味だけは分からない。私はもう28の男だぞ」
「ふふ。俺のほうが遥かに年上だ。それに年は関係ないだろう? 恋人同士ならばこのぐらいのことは普通だよ」
シスタは聞き捨てならなかったのか、難しい顔で見やる。
そんな彼の頬を撫でながら、やはりベルンホーンの脳裏には騎士のあの面がこびりついて離れなかった。
「買物を手伝ってもらったと言ったな。あの男も中々心が広いらしい」
「そうさ。言っただろう、私達はただの友人同士だと。お前に対しても悪い気持ちはない」
「本当か? それは知らなかったな」
言い捨てると青年に懸念の表情で見つめられる。その視線は男を守っているかのように感じられた。あんな男にそんな加護は必要ないとベルンホーンは蔑む。
「トロイエもこの世界に慣れているようじゃないか」
「ああ、色々庶民の生活のようなことも教えてもらったよ。あいつの話はいつも大げさなんだ」
思い出し笑いの仕草を見せるシスタに悪魔は眉をひそめた。
「確かに市場での買い方はこなれていたようだが。あの辺は普通はよそ者に冷たいからな」
「えっ?」
ベルンホーンは顔には出さずしまった、と思った。
「なぜ市場で買ったと知っている?」
「だいたい想像はつくだろう。それにあの、ほら、紙袋」
「お前、珍しく焦った雰囲気だぞ」
じろりと視線が痛い。あれほどいいムードだったのに、また怒らせたかと。
「見ていたのか。私達の様子を」
「待て、行くなシスタ。また俺を一人にするな」
「どうなんだ、答えろ」
「……ああ見ていたさ。話は聞いていない。ただお前の行動が気になって……」
なぜ上級悪魔の自分が魔人の青年によって、ここまで首根を掴まれるほどの心境に陥るのか分からない。
でもそれが真実で、抵抗の余地がなかった。
シスタの反応は予想外だった。
まず、まだ膝から降りていない。そんなにショックだったのだろうか。
「ええと、シスタ? なにか言ってくれ。俺はお前を失ったら生きていけない」
「ベルンホーン……そんなに私が気になるか。お前ほどの、最強の力を持った高位の悪魔が」
「ああ、気になる。地位は関係ない。俺はお前が好きなんだ。自分でも驚くほど、すごく夢中になっているんだよ」
感情を優先させて正直に告げた。
すると青年は、よく表情が見えないまま、顔を寄せてきた。
なぜかシスタはベルンホーンの唇に、そっと自分の口を触れさせた。
短い、だが確かに青年からの初めてのキスだ。
「…………!」
ベルンホーンは電撃を受けたかのごとく、情けない顔つきで固まった。
するりと青年の気持ち良い尻が腿から離れ、彼はどこかへ歩いていく。
悪魔は手を伸ばし、声を発した。
「おい、シスタ! 今のは一体……お前の別れの餞などと言わないでくれよ!?」
「……違う。別に意味などない」
完全に振り返らず、横顔だけではどういう表情なのか分からなかった。
しかしベルンホーンは、最後に爆弾を落とされたかのように顔を赤く染め、呆然としていた。
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