▼ 49 長い日々
二人は転移魔法によりエーベン地方の隠れ家へと帰ってきた。
シグリエルを抱えて煉瓦造りの住居に入ると、居間のソファにはイリスが座っていた。
ゆるやかな金髪の娘は無言で正面を見ていたが、以前とはオーラが違うように感じた。
『アディル。おかえりなさい』
「イリス! ここにいたのか」
『ええ。魔法であなたと遠くでも会話出来るようにしたの。……大変だったわね。アディル。ひとりでつらかったでしょう』
「……ありがとう、二人のおかげで俺達…っ」
『いいえ、遅くなってしまってごめんなさいね。でももう大丈夫よ。ほら、泣くのはシグリエルが目覚めてからにしなさい』
温かい言葉をかけられ、アディルは固く頷いてエルゲとともに地下の研究室に向かった。
初めて入るそこは窓がないが広く、壁一面の蔵書や専門器具がならぶ作業台などに埋め尽くされていた。
真ん中の寝台にシグリエルを寝かせ、さっそく施術に取り掛かるエルゲを見守る。
「アディル、なるべく彼から離れないようにしてくれ。術で魔力は保持しているが、近くにしばらくいないと君の魔力が切れてしまうんだ」
「ああ、わかった。絶対そばにいるから大丈夫だぜ」
約束するアディルは、兄の師に「つらいだろうから後ろを向いていて構わない」と気遣われたが、全てを目に映す決意があった。
それは自分の責任であり、兄への強い愛情でもある。
そばの椅子に座り、エルゲの手慣れた処置を緊張しながら見やる。
全裸のシグリエルはまず体の傷を丁寧に直され、保存魔法を施されていた。
綺麗に保たれる遺体へ、魔術師は手のひらを切りつけ血の文字を体の重要な箇所へ刻んでいく。
兄がアディルに魔力を与えるときに呪文をかける場所と一緒だ。
こうして最初の段階を終え、シグリエルは二人によって住居の裏にある墓に埋葬された。
まだ深い夜の中。木の箱に入れられた兄は蓋を閉じられ、一人きりで地中に眠る。
兄から聞いていたように、死者が手厚く葬られることは覚醒のために重要だと知っている。
けれど墓石に師が兄の名を彫っている時、アディルは必死に泣くのをこらえた。
「兄貴。どんな気持ちで、あんた俺のこと見ててくれてたんだよ……」
誰にも聞こえない声で話しかけ、土の中にいるシグリエルに思いを馳せる。
死者を蘇らせるという禁忌の行いは、そういうことなのだとアディルは初めて理解したのだった。
翌朝になっても、アディルは兄のそばを離れることはなく、外の墓の前に座っていた。
うまくいくのかと、ずっと正常な精神状態ではいられなかったが、反面こうして兄といられることは安らぎにも繋がった。
エルゲは他にもやることがあり忙しい様子だったが、時折アディルを見に来てくれた。
その時、ようやくこの事について話すことが出来た。
「じいさん、あんたに言わなきゃいけないことがある。ゾークのことだ。じいさんの甥っ子なんだろう? ……俺達を、ずっと助けてくれた。たくさん迷惑かけたのに、俺と兄貴に優しくしてくれてさ……」
エルゲは瞳に動揺を見せたが、アディルの隣にしゃがみこみ肩を抱いた。
「そうか。……私が頼んだんだ。代わりに君達のそばに、ついていて欲しかった。……何かあっても、君達のせいではない」
そう告げられ、顔を見やる。一番つらいのは身内を思うエルゲだと分かる。
「あいつは死んでいないと思う。ゾークはきっと帰ってくるさ。……昔はよく、魔術を教えていた私に反抗して家出することも多かった。……でも、必ず甘えた顔で帰ってくるんだ、手土産を持って。おじさん、悪かった。また教えてくれよ。ってあどけない顔つきでね」
懐かしそうに語ったエルゲは、アディルの肩をぽんと叩きまた立ち上がった。
二人は家族ながら師弟のような間柄だったのだと想像する。
「さあ、私達はいま出来ることをしよう。心の準備はいいかい、アディル」
「……ああ!」
彼の言葉を信じることにしたアディルは、いっそうの思いを持つことを決めたのだった。
そして二日目の夜が来る。
アディルは兄の師とともに墓を掘り起こした。棺を開け、シグリエルを見た瞬間に大きく目を見張る。
兄の体はより人間離れした真っ白い肌に変わっており、生前とは異なる霊気をまとっていた。
エルゲがまぶたを押し上げると、目の色が真っ白になっている。
「あっ……前の俺と同じだ。じいさん、これはーー」
「いい兆候だ。きちんと不死者への段階を踏んでいる。身体も……異常はないな」
調べた後、また彼は昨夜と同じように手足、額、喉、心臓に血文字を刻み、長い詠唱を行った。
処置が済むとまた棺を閉め、土をかけて元通りにしたのだった。
三日目の夜になり、またエルゲが墓にやって来た。
あの日から休まずに作業をしている彼をアディルは心配する。
「じいさん、大丈夫かよ。休まなくていいのは知ってるけどさ、精神的にはあんたもきついだろ」
「ふふ。私は大丈夫さ、アディル。これでも色んな経験をしてきたからね。君の方こそ、よく頑張っているな。もう少しだ、明日の夜には結果が分かる」
魔術師然とした真摯な男の励ましにアディルも頷く。
だが、ずっと気になっていることがあった。
「エルゲ。どうして転生したんだ? 本当に、よかったのか」
自分などが聞くのもおこがましい気はしたが、尋ねずにはいられなかった。
生を手離し不死者として生きることがどういうことか、アディルには痛いほど分かっていたからだ。
「そうだな……シグリエルが起きてから君達には話そうと思ったんだが。この体になろうと思ったのは、本当は君達の父親の問題が起きる前なんだ。自分勝手な話だがね。……君と、彼のおかげでイリスと話せるようになって……私は欲が出てしまった。彼女を前のように、自分の力で動けるようにしてやりたいと、活き活きと生活させてあげたいと、そう考えたんだ。それだけではなくて、そんな彼女を近くでずっと、見守りたいと思ってしまった」
エルゲは悲し気に笑う。アディルは胸がしめつけられる思いがした。
「そんな風に研究を再び始めたところで、悪い知らせが飛び込んだ。私はイリスに一方的にだが話をして、すぐに君達を助けようと思った。そのためなら、今言った個人的な願いなど容易に捨てられる。けれど、老人になった私には肝心の力がない。だから結局私は、厳しい賭けに出たんだ。……結果的に、時間が足りなくてこうなってしまったが」
難しい顔で無念を表した魔術師に、アディルは居ても立っても居られなくなった。
「じいさん……そんなことねえよ。あんたが来てくれなかったら、俺達は終わりだった。あいつは、マルグスは……」
「……アディル。詳しいことは、彼が目覚めてから一緒に話そう。大丈夫。今は君も心を落ち着かせないとな。……すまない、自分の話を長々としてしまって。老人の悪い癖だな」
ふっと苦笑したエルゲは、しかしこんな事を言い始めた。
「そうだ。先にこの事を君に伝えたかったんだ。シグリエルの友人のミズカに連絡が取れた。彼は医術師をかき集め、医院で負傷者の治療に当たってくれているという」
「……えっ!? 本当か!」
「ああ。シグリエルのことも伝えたが、互いに峠を越えてから会うことになりそうだ。……アディル。君の当主であるラノウと、魔術師のサウレスも一命を取り留めたそうだよ。身体の状態は正直、ひどいらしいが、命は無事だ」
そう教えた瞬間。アディルは表情が崩れ、大きな声を出してしまった。
安心と、泣きたい気持ちがあふれ、エルゲに肩を抱かれる。
「よかった、よかった……っ。うう、じいさんっ」
涙は落ちないが、アディルは顔をくしゃくしゃにして思いきり目を腕でこする。
不幸なことばかりが続くこの戦いの中で、舞い降りた一報はアディルの心を再び強く照らしたのだった。
◆
そして三日目の夜。墓を暴き、最後の処置を行う。
うまくいけば明日、兄が目覚めるはずなのだが。
棺を閉めたあと、掌を見て何かを考えるエルゲが気になった。
「どうしたんだ。大丈夫か?」
「……ああ、いや……やはりそうか。平気だ。うまくいくぞ、アディル」
そう言われて喜びはしたが、真剣な面持ちで告げた魔術師の様子がアディルは気になり、何かあったのかと尋ねた。
すると信じがたいことが判明する。
「えっ? うそだろ、指が動かなくなったって…!」
話によると、死者覚醒の儀式を行った魔術師は代償として、身体機能の一部を失うらしい。
より力の備わった転生者である彼は「麻痺のみなら前ほどひどくない」と明かしたが、昔イリスを覚醒させた時は、内臓の一部を失ったと話した。
「なんだよ、それ……そんなこと知らなかったぞ、大変なことじゃねえかよ!」
「仕方がない。これはそもそもが倫理に反する行いだ。魔術師は皆、覚悟しているよ」
「でも……っ。……あ、じいさん、兄貴ももしかして……」
真っ青になったアディルに対し、エルゲは迷ったが頷いた。
知らなかったのはきっとシグリエルの優しさだろうが、きっと聞きたがるだろうということも理解できた。
「彼は左の聴力を失ったと話してくれた。私もだが、その程度で済んだことは良い事だよ、アディル。君が気にすることではないからね」
暖かく伝えられても、アディルの口元はわなわなと歪む。
何も言わなかった兄に対し、なぜだという思いと、申し訳ない気持ちでいっぱいになっていく。
「兄貴が俺を、どんな犠牲を払っても救おうとしてくれたっていうのは分かってる。でも俺は、何も返せない。皆が頑張ってくれてるのに、俺はいつも助けてもらうだけで、何の力もねえんだ……っ」
「……アディル。亡き者を生き返らせるのは、行った当人のエゴだ。だが、私はイリスがいてくれてよかったと思っている。もちろんつらいこともあったが、彼女の存在にどれほど救われたか。……そしてシグリエルも、君のことをそう思っているはずなんだ」
彼は弟子の思いを伝えたい一心で語る。
「私はシグリエルと一年共に暮らしてね。色んな話をしたよ。彼は君のことを、ずっと悔いている様子だった。……しかし君が戻ってきてから、彼は本当に変わったと思う。愛する人がそばにいると、人は変わるんだ」
感情のこもったその声に顔を上げ、不死者の瞳は揺れる。
「アディル。君にはまだ兄が必要だ。大切な家族が。そしてそれが、永遠に続いても私はいいと思うんだ」
優しく細められる大人の瞳は、これまであまり出会ったことのないものだった。アディルの中で安心感が広がっていく。
「私は君達に長く幸せに生きて欲しい。それが私と、イリスの願いでもあるんだよ」
アディルは何度もこらえた感情が迫り来るのを感じる。だが、エルゲにそっと抱擁をされ、我慢ができなくなった。
背中に腕をまわし、ぎゅっと抱きついて溜めていた思いを溢れさせてしまった。
◆
アディルにとって、今までで一番長く感じた数日間が、ようやく終わりを告げる時が来た。
最後の術式を施し終わり、あとは兄が夜中に目覚めるのを待つのみだった。高鳴る気持ちと同じぐらいの不安が、ずっと胸に渦巻いている。
突然アディルはこんなことを言い出した。
「エルゲ。俺も一緒に棺に入っててもいいか」
「えっ?」
思わぬ提案に兄の師は驚いたが、真剣な弟の希望を聞き入れてくれた。兄が目覚めた時、深い混乱に陥るのを防ぐ効果もあるかもしれない。
「怖くはないか? アディル。空間はあるが、かなりの閉所だ」
「大丈夫だよ。怖くない」
その瞬間に、目覚める兄の恐怖に比べればまったく大したことはない。それに今はもう、片時も離れていたくなかった。
こうしてアディルは墓を暴いたあと兄のそばに寄り添った。
エルゲがまた閉めて、土をかぶせる。午前三時ごろに、再び開く予定だ。
アディルは真っ暗な中に潜んでいた。
兄は冷たく、もちろん息も聞こえてこない。冷たい塊がただ横たわっているだけだ。
ひとりで様々なことを考える。
もしこのまま目覚めなかったら。
それでもこうして毎日一緒にいよう。そうしたいと心から思う。
片時も離れられなくていい。兄と離れたくない。
兄がずっと、一緒にいてくれるのなら。
大事なのはその事実なのだと、目をぎゅっとつむるアディルの決心は固い。
土の上は静かで、深い闇夜が月に照らされていた。
土の下は兄弟がふたり、音もなく埋まっている。
だが、午前三時を過ぎたころ。
地中ではひとりの指が、ぴくりと動いたのだった。
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