▼ 18 襲来
肉体を部屋に置き、シグリエルの意識は屋敷をさまよう。幽体は厳密には魂と同一ではなく、魂の殻のような存在だ。人が視えざる世界を自由に行き来し、知覚することが出来る。
皆が寝静まった薄暗い屋敷には、昼間よりも亡霊が活発にうごめいている。
しかし力の差からシグリエルに近づいてくるものはいなかった。
目的は引き続き屋敷の調査だ。以前妨害してきたサウレスの周辺には行かず、当主ラノウの企みや例の襲撃の件など、霊たちに聞き込みをするつもりだった。
建物の一階から二階、そして三階に到達した頃。シグリエルは血の匂いを感じ取る。
過去の血痕かと思いその部屋に近づいていくと、男が扉からはみ出た形で倒れていた。大男のロニーだ。
(…………!)
シグリエルは異常を察知し、うつ伏せのロニーを見下ろす。喉を掻っ切られていて大量の鮮血が流れ出ていた。
死んでいる。すぐに意識を集中させ、シグリエルは弟の部屋に戻った。
(アディル!)
壁を通り抜け呼びかけるが、部屋はもぬけの殻だ。焦りを浮かべて自室に向かった。
そこには眠る自分の隣に寝そべるアディルがいた。
幽体を肉体に戻し、ゆっくりと目を開ける。すると弟の「あ!」という声が届いた。
「おい兄貴、起きたのか? あんた全く目覚まさなかったぞ。怖がらせんなよ」
「アディル。ロニーが死んでいた。屋敷で異常が起きている。そばを離れるな」
「……はっ!?」
立ち上がり服を整え、武器を携帯する兄にアディルは呆然となる。
たった今見てきたことを説明すると、弟の顔つきはみるみるうちに険しくなった。
「なんであいつが……敵が侵入したのか?」
「分からない。おそらくな。もしかしたら、お前を襲った連中かもしれない」
身内の犯行もありえるが、魔術師サウレスがいる時に決行するとは考えにくい。
それに今日は自分達が訪れている。狙いはこちらだとしたほうが自然だ。
二人は警戒しながら部屋を出て、一階へ向かった。アディルが居間の隠し装置を押し、各部屋に警報を伝える。
するとすぐに気配が近づいてきた。ローブを羽織った白髪のサウレスが不機嫌な顔で立っている。
「おい。侵入者だ。僕の睡眠を邪魔しやがって……」
「サウレス! 大変だ、ロニーがやられた! ラノウは無事か!?」
「無事だ。もうすぐここに来る。奴の家族と子供は側近と避難させた。兵隊を集めろ」
迅速な魔術師の対応にアディルは安心したが、仲間の死にまるで興味を示さない冷たさには眉を顰める。
一階には男達が続々と下りてきた。屈強な警護の三人、そして夕食時にやり合ったハンガー兄弟の兄、エルキだ。だが彼の顔には焦りが広がっていた。
「ヘンスがいないんだ、誰か姿を見たか?」
別室で寝ていたはずの弟を探したというが、仲間は皆行方を知らなかった。
その時だった。屋敷の外から青年の叫び声が聞こえてきた。異常なまでの金切り声に一斉に注意を引かれる。
「今のはヘンスの声だ! ……クソッ!」
駆け出したエルキは玄関扉から外へ飛び出た。男達も後を追っていく。
続くアディルの腕をシグリエルは掴んだ。
「行くな、夜の森は危険だ」
「そんなわけにいくか! 助けねえと!」
振り払われ、すぐに走り出した弟をシグリエルは舌打ちとともに追いかける。
あの青年の悲鳴。それには覚えがある。
迫りくる嫌な予感を全身にまといながら、屋敷の外を囲む深い森へと誘き出されていった。
大型のナイフや剣を持った男達は、焦燥の顔つきで森を進む。松明の火は燃えているが、ヘンスの影は映らない。
「……ぅ、くッ……」
痛みを感じないはずのアディルは森に入った途端、つらそうに呻いた。無理もないとシグリエルは体を支える。夜の森は、昼とはわけが違う。水を得た魚のごとく亡霊たちは闇のエネルギーに満ち、二人のように別の世界との狭間に生きる者らにとっては、心身に急激な圧がのしかかる。
それでも捜索を続けていると、今度はエルキの悲鳴がこだました。
急いでその場に向かう。発見したのは、樹木を背に座るヘンスと、それに覆いかぶさるように泣き叫ぶ兄の姿だった。
「ヘンス! 起きろ! 死ぬな、馬鹿野郎ッ!」
アディルはその光景を前に立ち尽くした。
ーーどうして。仲間が二人も死んだ。それに、あの表情は。
ヘンスの顔つきは目の焦点が合っておらず、口は不自然に開いたまま固まり抜け殻のようだった。あの時、死霊に侵されて死んだ同僚みたいに。
恐る恐るシグリエルを振り返る。
兄はアディル以上に、言葉を失っていた。
「兄貴……あんたの他にも、こういう事が出来るやつがいるのか……?」
シグリエルは答えられなかった。
拳を握ろうにも、思考が飛び体が動かない。
だが、エルキを見ていると自分に重なった。死んだ弟を抱きしめて、嗚咽する姿が。
だからそのままにはしておけなかった。
「屋敷に帰るぞ、さらに被害者が出る前に」
仲間たちはエルキを抱え、弟の亡骸も抱き上げて森から引き返した。
これで終わるはずがない。むしろ始まりなのだと、誰しもが思いながら。
居間にはサウレスと当主のラノウがいた。
二人目の犠牲者の名を聞き、ラノウは近くの椅子を蹴り上げて怒号を放った。
「クソッッッ! 誰がやりがったッ! ぶッ殺してやる! 出てこいこの野郎ッ!」
茶髪を振り乱し武器を持った手で暴れるが、床にうずくまりヘンスを抱えるエルキを見やると、そばにいく。
「絶対に仇は討ってやる、忘れるな、エルキ」
「うっ……ううっ……ラノウ……俺が、殺す、……やった奴を……絶対に……ッ」
皆、その光景を胸が苦しみながら見つめていた。
ロニーの遺体も共に並べられ、男達は静かに死を悼む。
だが思慮深く様子を見ていたサウレスが、ふと天井を見上げた。白い、染みひとつない材質に黒い点が浮かび上がり、だんだんとそれがインクのように広がっていく。
「お前ら、離れろーー」
そう発した瞬間、サウレスの動きがびたりと封じられる。声が出ず、目玉だけを離れたとこにいるシグリエルに向けた。すると彼もまた驚きの形相で上を見ていた。
広がる黒い穴から、人間が逆さまに出てくる。
フードから金髪と青い瞳が覗く、真っ白な肌をした男だ。
「…………ッ!」
咄嗟にシグリエルは、アディルに腕を伸ばす。だが遅かった。
弟の体は浮かび上がり、地上にまっすぐ立った金髪の男の外套の方へ引っ張られる。
「う、あっ……!」
異常に気付いたアディルと仲間たちは、同時にその方向を見た。
「……久しぶりだな、アディル。不死者になったのか。……お前が生きていた頃はなんの愛情も湧かなかったが、今は違うようだ。不思議と愛おしく思えるよ」
地の底から這うようなざらついた声質がシグリエルの挙動を完全に奪う。
時が止まったかのごとく、何も考えられなくなった。
父の声が、この現実世界に響いた時から。
「なっ、誰だてめえ! お前がやりたがったのか、ふざけるんじゃねえ、そいつを離せ!」
「うるさい虫けらが。お前もそこの魔術師と同じように、金縛りにでもあっていろ。すぐには殺さないさ。私の息子達と親しい人間のようだからな。……ああ、でも他の奴らは死ね」
金髪の男は黒い外套から伸びた手を掲げ、振り下ろした。すると長い鉄の矢が数本落ちてきて、警護三人の男達の口から突き刺し、皆ものを言う前に命が尽きた。
ラノウは体をビクビクと痙攣させながらその場に留まっている。
マルグスは離れたところで尻餅をつき、震えているエルキを見やった。
愉悦を浮かべた顔で話しかける。
「弟を亡くしたか。ははっ。お前も殺すのは今度にしよう。格別な苦しみを味わうが良い」
茫然とする兄を尻目に、マルグスは不死者の息子に歩み寄る。
アディルはやっとのことで声を絞り出した。
「……どうして殺した……息子…? あんた、まさか……俺達の……」
「そうだ。思い出したか? 姿は違うが、私はお前たちの父親だ。アディル」
「…………やめろ……」
シグリエルの体が小刻みに震える。目の前が塞がれていくが、弟を再び奪おうとするマルグスの姿は、確かにそこにあった。
「なぜ……お前は、俺が殺した……あの時、殺したんだッ!!」
「ふふっ。ああ、そうだな。まさかお前ごときにやられるとは。相当憎しみが詰まっていたのか、他の体に転生しても首の傷跡だけは消えなくてな。本当に煩わしい存在だ、お前は。シグリエル」
マルグスはフードを取り、自身の首元をなぞり見せつけた。
男は知らない顔で、金髪は短く刈られ、青い瞳は父と同じ侮蔑の眼差しを放っていた。
体の力が抜け思考も渦巻き、シグリエルは今度こそ自分というものを全て黒く塗りつぶされ、消えそうな感覚に陥った。
「……ハア、ハアッ、ハアッ……どうして、どうして……」
「ははは! 情けない姿を晒すな、お前の大事な弟が見ているぞ? ……ああ、不憫なアディル。不出来な兄を持つと苦労するな? 瞳も白いままでーー」
マルグスがアディルの保護眼鏡を取り、瞳に手を這わせた。
シグリエルは叫ぶ。あの時の記憶と重なり、絶望が目の前に立ちはだかる。
また弟を奪うのか。死よりも深い苦しみを、与えようとするのか。
「やめろッ」
シグリエルは叫び指で古代文字を形成する。素早く詠唱し複数の影を作り出した。中から現れた黒い怪物は大きな口を開け鋭い牙でマルグスめがけ噛みついた。
手応えは確かにあったが、マルグスの一方の手が振り払う動作で砂のように崩れていく。
「少しは見れるものを生成できるようになったじゃないか。だがな、それは私が教えたものだ」
後ろから弟を抱き、父が呪文を唱えると、アディルはやがて顔を解放された。
息を止めるシグリエルの前で、弟の白い瞳はもとの金色の輝きを放っていた。
そしてゆっくり、体が父の腕から離される。
アディルの足元はふらつき、その場に膝をついた。しかし明るい金の瞳は、心の底からの憎しみを浮かべ父を見上げた。
「……あんた、なんなんだ……。兄貴をこんな体にして、俺の仲間を殺して。……兄貴に殺されたっていうのは、本当なのか。だから今、復讐しに来たのか」
「くくくっ。復讐だと。そんなくだらない概念に捉えられるのは心外だが、どうでもいい。……アディル。そんな事より、お前落ち着いているんだな。私がお前を殺したというのに」
「……え?」
「ああ、やはり知らされてなかったか。まったく、相変わらず甘い奴だ、シグリエル。だから今もこんな地獄のような状況を招いてしまうんだよ。全てお前のせいでな」
父の口撃の矛先がシグリエルに向かった。
「まだ弟を悪いものから全て守ろうと思っているのか? そんなことは無理なのに。お前のせいで弟は死に、こんな腐敗する体になった」
「……お前のせいだ、全部お前のせいだ……ッ」
「いいや、お前が弱かったせいだ。現実を見ろ。ほうら、皆が不幸になっている。ふふふ……。仕方がないか。お前には苦しみの因果がある。安心しろ、最後に殺してやるよ。それが一番お前には堪えるだろうけどな」
這いつくばるシグリエルは、真っ赤な瞳で隣のアディルを見つめた。放心状態の弟は、ゆっくりとマルグスを瞳に入れる。
「……お前が殺した。母さんも、俺のことも、兄貴のこともこんな風にした……。許さない……殺してやる、絶対に殺してやるッ!!」
大声で叫ぶアディルは父に向かおうとするが、シグリエルは力を振り絞って引き留める。
この惨状を見れば悟る。今この男に敵うものは、誰もいないと。
弟を失いたくない。その思いだけで生きてきた。
また奪われるのは、もうごめんだ。あの苦しみはもう、自分にも、そして弟にも……与えたくない。
「お前が諦めてどうするんだ、馬鹿野郎。このクソ親父を止めろ!」
耳に届いたのは、サウレスの声だった。
眉間に皺をよせた父は目をやる。魔術師は拘束を解き、ゆらゆらと立ち上がり、並んだ躯めがけて手を掲げた。
しかしマルグスは囁きだけでサウレスの腕をぐにゃりと折る。苦痛の悲鳴を上げるも退かず、古代言語を口で唱えた。
シグリエルは意図を掴み、同様に指文字と詠唱を開始した。
躯の魂を、いますぐ消滅させるために。
父は二人の企みに気づき顔を歪ませる。
サウレスの腕を完全にへし折り、根本から切断させた。血を吹き出し後ろに倒れるのを見たシグリエルだが、満身創痍で全ての躯から魂を完全に消し去る。
「…………小賢しい真似を!」
マルグスは不死者だ。その上魔力を豊富に蓄わえたアンデッドである。自身と関係性のある魂を喰らい、養分とすることが出来ることを、二人は知っていた。
だからそれを阻止したのだ。
「貴様、どこで死霊術を学んだ? あいつよりも素質がある。……まあ私には敵わないがな」
そう言うとマルグスは目の前でサウレスの失った腕を踏みつけた。
魔術師は虚ろな黒目でまだ動くほうの腕をあげようとする。
父はそれを無視し、シグリエルの前にやってきた。
アディルを抱き睨みつける兄の頭を掴み、腹いせのように衝撃を与えた。
「お前達に関わる者は皆殺しにしてやる。私を殺したお前には、最大の苦しみを与えてやろう、シグリエル」
宣告されたシグリエルは、その時に意識を失った。
片耳に途切れて聞こえたのは、弟の叫び声だった。
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