▼ 16 鎮静と訪問
屋敷の外は、地面を激しく打ち付ける大雨だった。
フードも被らず金髪をびっしょりと濡らし、シグリエルは茂みを掻き分けていく。
「ディーエ、真実を答えろ、追跡はされてるか」
「いいや、魔法の類はかけられてねえ」
その言葉を信じ、すぐに立ち止まったシグリエルはその場から転移をした。満身創痍の顔つきで自宅の外に降り立つ。
「……アディル! アディル!」
玄関扉から乱暴に入ってきた兄に、ちょうど居間にいた弟は飛び上がった。こちらへ駆け寄ってくる。
「おい、あんたこんな深夜にどこ行ってたんだよ。すげえびしょ濡れだし。……あ、あのさ。クリームありがとな。背中が自分で出来ねえから手伝ってーー」
台詞の途中でシグリエルは全身を使って弟を抱きしめた。離してもらえないほど力のこもった抱擁は初めてで、アディルは唖然とする。
「なっ、どうした。大丈夫か」
顔を確認したかったが、兄の体は動こうとしない。
耳元から絞り出すような声が聞こえた。
「屋敷にはもう行くな。あいつらには近づくな、頼む、アディル」
堰を切ったように告げると、弟はさすがに異変を感じて、近くの椅子で兄を落ち着かせようとした。
シグリエルは従ったが、頭を大きくうなだれて座り、青ざめている。
「何があったんだよ、兄貴は屋敷に行ったのか? どうして俺に黙ってそんなこと」
「あいつを探りに行った。サウレスだ。あいつは……死霊を消滅させた。お前のことも気づいていた、不死者として俺が蘇らせたと」
まだ動転している兄に対し、アディルは言葉を失う。
けれど、正直に言えば兄ほど致命的な問題だとはすぐに捉えられなかった。
「そうだったのか。あの男はかなりの熟練者なんだよ。でもそこまで心配することもないと思うぞ。俺は平気だ」
「平気だと? お前に会わせろと言っていた、そんなことはさせない!」
冷静さを失い声を荒げると、アディルは反応に躊躇する。
シグリエルは自身の情けなさすらどうでもよくなるほど、恐怖に慄いていた。なぜならサウレスは、弟が呪詛にかけられていたことを見抜いていたのだ。
もしそれを明かされたら、今まで隠してきたことが全て無意味になる。
父が間接的にアディルを殺したことを、知ってしまったら。
「兄貴。聞いてくれ。俺はこれでも二年間あの組織で荒波に揉まれてきた。サウレスにも散々酷い目にあったよ。でもな、あの男は俺の主人を、ラノウを盾にすれば何もしてこない。飄々と気取っているが基準が当主なんだよ。長い付き合いらしいが。だから俺は安全だ。ちょっと情けねえけど」
頬をかいてアディルが明かす。シグリエルはゆっくりと頭を上げた。隈も深い、ひどい顔だ。
自分のために懸命になってくれている兄を、アディルは心配げに見つめて肩をさすった。
シグリエルは弟の言葉を信じたいと思ったが、サウレスは当主の妻と不倫をしていた。魔術師の倫理など当てにならないとはいえ、あの加虐的な白髪の男は理解出来ない。
「なあ、俺は大丈夫だよ。そんな顔するなって、兄貴」
弟の優しい声が全身を包んでいく。
ようやく、取り乱したことへの恥を認識して顔をこすり上げた。
「……悪かった、アディル。お前のことになると、俺は理性を失う。……クリームだな、つけてやろう」
立ち上がったシグリエルは、外套を脱いでシャツのボタンも外し、服を楽にした。ソファに乗り上げ、正面にアディルを座らせる。
ほっとした弟も従ったが、上半身を裸にすると兄の視線を背中に感じて緊張が走った。
「アディル……」
「な、なんだよ。早くやってくれよ。さみいから」
「……寒い? 肌は少し温かみがあるぞ」
「うそだよっ」
そう明かしても中々兄は始めようとしない。この機会にまた観察されているようだ。
そわそわしていると、シグリエルはアディルの耳にそっと触れた。
「少し赤い。感じるか…?」
「……ッ」
囁かれてびくりと肩が跳ねる。すると落ち着かせるように両肩に手を置き、そっと撫でるように腕まで滑らせた。
「あんた何やってんだ!? 早く塗れって!」
「……ああ。分かっている。……俺が触れるのは嫌か?」
嫌なのは触られることではなくその囁き声ともどかしい触れ方だと、アディルは声を大にして言いたいけれど気力がない。
シグリエルは家を出る前は反省し、みだりに弟に触れてはならないと考えていたはずだが、またも耐えられなかった。
耳と頬に優しくキスを落とすと、弟は黙って体を震わせ、しばらく兄に後ろから抱きしめさせた。
◆
考えることは山程ある。だがシグリエルは当初からこの時期に、あることを予定していた。
アディルの体が安定してきたため、妖術師エルゲと不死者の恋人イリスに挨拶したかったのだ。
浜辺から近い木造平屋の戸を叩くと、中から柔らかな表情の老人が出てきた。
「やあ、やっと会えたな。さあ上がってくれ。君がアディルか。話はよく聞いているよ」
こまめに連絡を取り合っている死霊術の師の存在は、シグリエルにとって大切なものだ。彼はアディルの覚醒を喜び、快く兄弟を迎え入れた。
入ってすぐのこじんまりした居間で、食卓の椅子に並ぶ。
茶を出してくれたエルゲは、寝室からイリスを呼んだ。長いゆるやかな金髪を肩に乗せ、顔立ちは無表情だが可愛らしい娘だ。
それを見たアディルは一瞬言葉に詰まるも、すぐに「どうも」と頭を下げた。
自分と同じ不死者を見るのは初めてで、なんとも言えない特殊な感情に包まれる。
「俺はアディルだ。あんたはイリス、だったな。はじめまして。……え? そんな年なのか? 見えないな。って当たり前か。……そうそう、兄貴がうまくやってくれてさ。おっ、あんたの瞳は戻ったのか、じゃあ俺も期待できるかな」
ほどなくして打ち解けたように話す弟に、老人とシグリエルは目を見張る。
何が起きてるのか瞬時には分からなかった。
「おい、お前ひとりで何を言っている?」
「えっ? なにって……。あっ本当だ、この人喋れないのか。でも頭の中に声が聞こえてきてーー」
全員が愕然とする。非業の死を遂げたイリスは魂の修復が出来ず、感情もなく話すことのない不完全な不死者という認識だった。
しかし不死者同士ゆえか意思疎通をしたアディルに、エルゲはすがるように尋ねる。
「本当か? 君は、彼女の言ったことが分かったのか?」
「ああ。今も喋ってるよ。……やっと私の言葉が分かる人が現れてよかった、って。あんたとたくさん話したいだってさ、エルゲ」
そう告げると、老人は涙を流し、イリスに向き合った。
彼女をきつく腕の中に抱きしめ、肩に顔を埋めて嗚咽している。
シグリエルとアディルはその様子に言葉を失い、ただしばらく見守っていた。
エルゲは涙を拭き、恋人の手をしっかり握ったまま、兄弟の前に座る。
「すまない。本当に嬉しくてね。……まさかこんな事が叶うとは。やっぱり君には感情があったんだ。私の力が及ばず、外に表現させてやれなかった。許しておくれ」
隣のイリスに伝えると、彼女は依然として前を向いて黙ったままだが、アディルには声が聞こえていた。
「ええと、自分のせいだから気にするなって。私も謝りたいって言ってる。でも、今はすごく嬉しいって。ありがとう、俺? って、はは。いいって別に。こんな俺でも役に立てるんだって分かってよかったぜ。な、兄貴」
弟に笑顔でふられたシグリエルだが、いるだけでお前には価値があるのだと、言いそうにはなっても頷いた。
「そうだ。通訳してやるよ。……なになに? エルゲにもっとちゃんと食事をして自分のことにも気を遣ってってさ。健康が心配だから。……あと、ひとつだけお願いがあるらしい。自分はエルゲの命令がないと動けないから、もっと動かしてって言ってる。……そんなことあんのか。……彼女は自分からもあんたに触れたりしたいみたいだよ」
若干恥ずかしそうに言う弟に、シグリエルも納得した。
「確かにそうだな……。エルゲ、例えば彼女に自分を抱きしめるように言ってみたらどうだ? これからはしてあげるだけでなく、色々なことをさせてあげるんだ。……イリスは頭がはっきりしている。きっと喜ぶだろう」
「……ああ。そう思うが、中々気恥ずかしいものだな。……イリス、僕を抱きしめてくれ」
そう言うと、金髪の娘は両手を伸ばし、彼のことを抱擁した。
またエルゲの顔がくしゃりとシワを生み、泣いている。彼女の心は空っぽだと思い込んでいたから、気持ちが通じ合った今、深い愛情を直に感じ取ったのだった。
「ありがとう、イリス。……三十八年目にして、ようやく君の優しい気持ちが分かったよ。……皆もありがとう。シグリエル、君がアディルをこの世に戻してくれたから、私は今になってこんな風にさらに幸せをもらった。本当に、ありがとう……」
師の言葉にシグリエルは首を振った。彼のおかげで、自分は弟に再会できたのだ。
兄弟は二人とも、この数奇な恋人達との出会いを大切なものとして、胸に深く刻み込んだ。
その後は四人とも和やかな雰囲気で、家の中で過ごした。
アディルはイリスがあまりにも饒舌なため、紙を取り出して書き留めることにした。
二人だけで話したいこともあるだろうし、エルゲも見返せて嬉しいだろう。
「……はぁっ? あんたな、そんな恥ずかしいこと俺に書けって……おい、じいさんにあんまりそういう……もう年なんだから……ああ、分かった分かったよ、口に出して悪かったって!」
楽しそうに見える不死者の二人を遠くから眺めていたシグリエルだが、ふとエルゲに外に行こうと言われ後を追った。
近くのウッドデッキで久々に二人きりで話をする。
「シグリエル。礼を言おう。私もこれでもっと生きる気力が湧いたよ。君のおかげだ」
「やめてくれよ、エルゲ。俺はあなたのおかげで今ここに立っている。弟も一緒に」
妖術師のエルゲは穏やかな顔つきで微笑み、兄弟のことをまっすぐ喜んだ。
「死者覚醒もうまくいったようだな。手紙で聞いてはいたが、アディルは実に素晴らしい状態だ。私の予想以上だよ」
「本当か? 肌の具合もよくなっていってるんだ。出来るだけアディルの希望を叶えてやりたい。あんな風にしたのは、俺の勝手だから」
そう話すシグリエルには、手放しの喜びだけでなく陰りもあることをエルゲは見破る。
「君の気持ちは分かるよ。大切な人が不死者になっても、それで終わりじゃない。迷いや不安、罪の意識は一生つきまとう。それ以上に幸福を感じるときがあったとしてもね……。でも見てごらん、あの二人を。君の弟も、あんな風に笑顔を向けてくれている。だから信じよう、恐れずに」
エルゲの視線の先に、窓の中でまるで生前と同じように表情を変える弟と、佇んでいるイリスがいる。
こみあげるものがあったが、シグリエルは信じようとした。自分一人じゃないのだと言い聞かせて。
また、エルゲには今回屋敷で起きたことも話した。
シグリエルの不安は自分の奥にひそむものだけでなく、今や対外的にも広がっている。
「……そうか。その魔術師は死霊術を……。ひょっとしたら、私と同じ妖術を嗜んでいるのかもしれない。……しかし、アディルの話を聞いてみると、かえって距離を取るのは得策でない可能性もある。彼の力量ならば、アディルを奪い返すのが本意だとしたらもう行っているだろう。やはりその当主の意に沿って動いているのだと思うよ。……本来魔術師というのは、理性的な者のほうが少ないからね。……私はそれよりも、君に言っておきたいことがある」
真剣に話を聞いていたシグリエルが、師に向き直る。エルゲは彼の斜め後ろをちらりと覗いて、こう言った。
「悪魔を信じるな。そこにいるのだろうが、私の前では現れないようだから、はっきりと言おう。奴らには我々と違って心がない。君は自分自身やアディルのこと、そして周りのことに気を取られすぎないようにしなさい」
思いも寄らぬ助言に言葉に詰まる。
彼には何か見えているのだろうか。もしそうなら教えてほしいが、エルゲは自分はもう現役を退いたただの老人だと言い、力がないことを悔やんだ。
「なに、契約者には手出しは出来ないよ。それは安心していい。だが味方につけたなどと思わないことだ。……ああ、私が若ければ、君をもっと支えてあげられるのだが」
きっと彼はシグリエルが悪魔に取り込まれることを心配しているのだろうと、切に感じた。
「あなたはもう俺のことをずっと支えてくれている。この何年も。ありがとう、エルゲ。……大丈夫だよ。本当は今日は、どうしたらいいのか教えを乞おうと思っていた。俺は、いつまでたっても、失敗ばかりしているから。……でも、少し勇気が出た。悪魔にも屈服はしない。心配しないでくれ」
シグリエルは珍しく、師を安心させるために微笑みを浮かべる。
彼には全てを話してきた。父のことも、こうなった経緯も、悪魔と契約をしたことも。
同じ道をたどった者同士だから話せたことだ。
でもそんな彼にも、弟への特別な感情だけは、言えなかった。
それこそが最も自分が裁かれるべき罪だと分かっていても。
「一人で抱え込むんじゃないぞ。君の弟は、かなりしっかりしている。まだ若くて粗削りな面もあると思うが、心の優しい子じゃないか。兄だからと遠慮せずに、頼ってもいいと思うよ」
「……そうか? 確かにアディルは、俺なんかよりよっぽど大人だ。頼るのは恥ずかしいが」
二人は海風に揺られ会話を続けた。
非日常を生きる者達にとっても、日常は愛おしく、尊いものであると心から感じながら。
アディルが積極的に申し出てくれたことにより、定期的に二人を訪れることも決めた。
大人びて見えても、不死者となった弟にはきっと、己にしか分からない孤独がある。
そんな気持ちを少しでも和らげたいと、シグリエルは願っていた。
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