▼ 60 ある騎士の思惑
ユトナの朝は早い。
昨夜散々運動したというのに、日課である朝五時のランニングの為、起きてすぐ外出の準備をする。
カーテンを開け放ち日の光で部屋を満たすと、ベッドの中から男のか細い声が聞こえた。
「んー……ユトナ…? もう起きたの?」
「ああ、起こしちゃったか。ごめんね。俺今から出かけるんだ。トレーニングしに」
そう言ってベッドの端に腰掛け、手に持ったグラスの水を青年に渡す。
しかし彼は少し考えた後、首を横に振った。
「飲ませて……僕に」
顔を赤らめさせて懇願され、ユトナは一瞬思案した。
青年の黒髪に映える緑の目が、まるで恋い焦がれるように揺らめいて、自分だけを見つめている。
「僕、じゃないだろう。『俺』だ。間違えないで」
「あっ……ごめんなさい。……俺に、飲ませて、ユトナ」
仕切り直した青年の顎を掴み、自ら口に含ませた水を飲ませてやる。
ごくりと飲み込んだ彼の唇は柔らかく、そのまま吸い付かれるように何度か味わう。
「んぅ……おいしい、よぉ……」
頭にしがみつかれながら、やっぱり違うな、と考える。
似ている人間を何人か試してみたが、どれもしっくりこない。
もう少し強気なタイプのほうがいいのだろうか。
従来のユトナならば、いくら熱い関係を持った人間でも翌朝になれば容赦なく切り捨てていたのだが、彼に似た者を探すようになってからは、だいぶ態度も丸くなっていた。
その日も結局「またね。気をつけて帰るんだよ」と優しく告げて途中まで青年を送り別れた。だがおそらく次はないだろう。今回も乾いた心は満たされなかったからだ。
*
聖騎士団に所属する第ニ小隊隊長のアティア・ユトナは、団の周辺にある街の高級アパートメントに暮らしている。
騎士団領内には騎士用のかなり豪華な宿舎も建てられているが、興味がなかった。領内に住めば行動を制限され、夜遊びに支障が出るからだ。
今日は任務の予定がない為、平常通り隊の訓練や幹部会議、自らの剣の鍛錬などに時間を割り当てていた。
食堂で隊の騎士達と昼食を取り、外の空気を吸いに庭園に足を踏み入れたときだった。
ユトナの髪色と同じ淡い茶色の瞳が、ある人物を映し出す。
教会に所属する魔導師、セラウェだ。
そして、自分の友人兼上司でもある団長の兄。
失礼だが兄という風格のまるでない彼は、一人で両手をぷらぷらとさせ散歩していた。
「セラウェーー」
目下お気に入りの人物を見かけ声をかけようかと思ったが、寸前で考えを改める。
しばらく後をつけてみよう。彼の素の行動が見られるかもしれない。そうすれば自分の中で新たな情報が加わり、想像にも役立つ。
魔導師は草葉の茂みの中に入っていった。
いつもは決まったベンチで休んでいる彼なのに、と怪訝に思う。
そして葉が多く傘のようについた大木の下に辿り着き、周りをきょろきょろと見回した。
まさか……ハイデルと逢引の約束でもしているのだろうか。
興奮に喉を鳴らすユトナが見守る中、セラウェは突然しゃがみこんだ。
ポケットから袋を取り出し、中からナッツ類のようなものを周囲に投げている。
するとどこからか、茶色い小さなリス達が集まりだした。木から駆け下りてくるものがセラウェの肩に乗り、「ぅわっ落ち着けよお前〜」と楽しそうにはしゃいでいる。
なんだ。動物好きの彼は餌やりをしに来たに過ぎなかったようだ。
肩透かしを食らいつつ足を踏み入れようとした時、反対側から人影が現れた。
制服を着た金髪の、長身の騎士だ。
男は、立ち上がって伸びをするもののまだ気づいていないセラウェの背後に周った。
そして突然その背中を上から抱きすくめる。
「んああっ」
「兄貴、待った? ごめん遅くなって」
「ちょ、いきなりびっくりすんだろ! 離せってば!」
ユトナの目が大きく見開かれ、さっと木陰に身を潜めた。
まさか本当にここで逢瀬をーー?
離せ離せと身をよじるセラウェの頬は赤らんでいて、まったく嫌がっているようには見えない。
再びごくりと喉を鳴らし、期待に胸が高鳴っていく。
「もう、やめ、クレッド……っ」
言いながら頬を緩ませる彼の体を、団長のハイデルが腕の中で反転させ、二人は自然に抱き合う形となった。
セラウェはぽうっとした顔で弟のまっすぐな眼差しを見つめている。
熱のこもったその表情を見て思い出す。昨夜抱いたばかりの青年の視線に似ている。
「クレッド……? キスは?」
予想していなかった言葉が聞こえてきて、ユトナは思わず目を見張った。
ハイデルは微笑みを崩さないが、瞳にぎらついたものを浮かばせている。
「したいの? 兄貴……こんなところで」
「……っ、別に、そんなこと」
「俺はしたいよ。でも、どうしようかなって思ってる」
自分の兄を抱きしめ、胸に顔を埋めさせた騎士の口元がわずかに上がる。
ハイデルは突然、こちらを見た。
ふっ、と不敵な笑みを浮かべる騎士と目が合ったユトナは、意外と落ち着いていた。
やはり気が付かれていたか。相手は団長で格上なのだから当然といえば当然だ。
お返しとばかりに微笑みを返すと、今度は強く睨まれた。
「クレッド、誰か来たらまずいから」
「ん……? でもさっきは兄貴、もっと凄いことしてって言ってたよな」
「……そ、それはもういいから、してくれないなら、別に……っ」
無理やり腕の中から逃れようともぞつくセラウェが、しばらくして諦めたのか、再び物欲しそうな顔で騎士を見上げる。
騎士の大きな手が彼の頬を覆った。
彼はうっとりした顔つきで目を閉じる。顔を傾けたハイデルの手に覆われ、口づけははっきりと見えなかった。
しかしこの男は、部下である自分の前で、明らかに見せつけるようにキスをしたのだ。
「んんっ……」
セラウェの熱い吐息が漏れる。
ぞくり、とユトナの体を何かが走り抜けた。誰かを抱いている時よりも、さらに強い興奮を感じる。
団長は正気なのかと訝しむ気持ちと、拍手を贈り褒め称えたい気持ちが、ユトナの中で複雑に絡み合っていく。
「気持ちいい、クレッド……」
彼は弟の腕に包まれ甘えるような声を出した。
ハイデルもそれに答え「可愛い、兄貴」「好きだよ」などと普段はおくびにも出さない愛の言葉を囁いていた。
しばらく世界を作り上げていた二人は気が済んだのだろうか、やがて魔導師は団長の手に引かれてその場を去った。
ユトナは一人木陰にたたずみ、腕を組みながら思案する。
自分が考えているよりも、セラウェは大胆なのかもしれない。
団長の前ではあんな風にキスをねだったりするのかと、些か衝撃を受けた。
二人きりの任務で自分をハイデルと間違えた時も、彼が淫らに誘ってきたのを覚えている。
どうしてあの時ほんの少しでも手を出さなかったのかと、今でも正直悔やむことがある。
もちろんそうしていれば、ハイデルとの友情は完全に無くなっていただろうが。
ユトナは熱を持て余していた。
素直に団長が羨ましいと思う。あんなに一途で可愛い恋人が職場にいるのだ。
友人でさえなければ奪い取ってしまいたいと感じるほど、彼は魅力的に思えた。
だがしばらくは他の手で飢えを凌ぐしかない。
抱いたことのない感情を昇華するには、そんな歪んだ方法しか思い浮かばなかったのである。
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