▼ 34 好きな人
弟の縁談の場に俺も出席すると啖呵をきったものの、実際にその日がやってくると、心臓がきりきりと痛み始めた。
相手は弟が古くから世話になっている上司の娘、メイアだからだ。
休日の昼下がり。
食事会に招かれた俺とクレッドは、互いにびしっとしたスーツに身を包み、会場となる高級レストランの個室で彼らの到着を待っていた。
弟は一人がけの椅子に腰を深く落とし、凛とした顔つきで思案している。
横顔をじっと見ると、俺に気づいたクレッドは少し翳りのある笑みを向けてきた。
「兄貴。大丈夫か? 悪いな、こんな場所に連れてきて」
「いや、俺が来たいって言ったんだからさ。お前こそ怖くないのかよ、上司が来るんだぞ」
「俺は平気だ。むしろこの機会を待っていたからな」
「え?」
急に眼力を強め、弟が確固たる意思をもって言い放った。
「俺に任せて。兄貴は何も心配しないで、隣に座っていてくれればいい」
こいつ……何をするつもりだ?
いざとなったら俺がこの縁談をめちゃくちゃにブチ壊してやろうという覚悟だったが、弟の場合は何を考えているか分からない。
段々怖くなり無言でいると、しばらくして問題の三人が到着した。
係の者に案内され扉から入ってきたのは、同じくスーツ姿で立派な体躯をした二人の男、そして清楚なドレスをまとった黒髪ロングの美女、メイアだった。
「ハイデル、待たせてすまない。娘の支度に時間がかかってね」
「いえ、慣れてますので。お気になさらず」
「ふっ、相変わらずはっきりしてる男だな。セラウェ君もよく来てくれたね」
「……あっはい。ご招待頂きありがとうございます」
よく通る声で司教が近づいてきて、弟と俺はすぐに立ち上がり、挨拶を述べ握手を交わした。
男の背の後ろに控えている女性に気づき、ぎくりとする。
「クレッド君。会えて嬉しいわ。普段と違う服装も素敵ね」
「褒めて頂き恐縮です、メイアさん。さあ、そちらへどうぞ」
ぽわんとした目で弟を見つめるメイアは、俺に笑みを向けた後、当然のように弟の前に座った。
ああ、胸が痛い。
やっぱりこんなとこにノコノコ出てくるなんて、馬鹿だったかもしれない。
いや、開始早々何を弱気になってんだ。
脳内で己を叱咤激励し奮い立たせていると、俺の前にいつの間にか、彼女の弟である騎士ジャレッドが腰を下ろした。
「セラウェさん。付き合わせて申し訳ないです。後で二人で抜け出しませんか?」
「は? お前な……空気読めよ。行かねえよ俺は」
身を乗り出し楽しそうに笑う騎士に、小声で投げやりに返事をする。
するとぐいっと肩を引っ張られた。弟が怖い顔をしている。
「そうだ。今日は大事な話があるからな。兄貴にも居てもらう必要がある」
力強い意思がにじむその言葉は、俺と騎士だけでなく皆の注目を集めた。
メイアはうっとりと夢見心地の顔をし、司教もどことなく満足そうな笑みを浮かべている。
大事な話って、なんだよ。
また胸が苦しくなりながら、俺はその場をやり過ごした。
二組の家族が他愛のない会話を交わし、運ばれた食事に舌鼓をうつ。
お酒も入り上機嫌の司教は、クレッドがまだ若く初々しかった当時の様子を懐かしげに語った。
今よりも荒削りで尖った所のある少年だったが、何事にも物怖じしない果敢な性質は昔から兼ね備えていたと、弟を褒めそやしていた。
娘のメイアも呼応するように、俺のよく分からない思い出話を繰り返した。
正直言って、あまり耳に入ってこなかった。
俺は今のクレッドしか知らない。
こいつらの話題には、居場所がない。
しかし口をつぐみ、どんよりと落ち込んだ俺のもとに、恐れていた司教の言葉が続く。
「まあ、二人とも最初の出会いからもう随分経っただろう。どうだ、ハイデル。君も私の娘とのこと、そろそろ考えてみてはくれないだろうか」
「お父様、そんなはっきりと……恥ずかしいですよ」
「なんだ? 今更照れることもないだろう。なあハイデル、どう思っているのか、率直に聞かせてほしい」
急に真剣なトーンで、司教の青い目がまっすぐと弟に向く。
俺はうるさく鳴る鼓動を抑え、弟の横顔を見上げた。
クレッドは俺には視線を向けず、真っ向から司教を捕らえている。
けれどその時、膝をにぎりしめた俺の手の上に、大きな手が重ねられた。
布がかかった広いテーブルの下で、弟に手をぎゅっと握られている。
何を、してんだ、こいつ……。
「そうですね。俺も今日は自分の気持ちをはっきり伝えたくて、ここへ来たんです。……メイアさん、俺はーー」
心臓の音が全身を支配する。
皆の視線が、至極冷静な様子の弟に注がれていた。
「俺には、愛する人がいるんです。自分の将来は、その人以外に考えられない。そう決めています」
弟の澄んだ声が、しんとした部屋の中に鳴り響いた。
俺は目の奥が熱くなるのを感じながら、密かに弟の手を強く握り返した。
「……な、なに何言ってるの、クレッド君。愛する人……? その人って、私じゃないの……?」
「いえ、違います」
「どうして……誰よ、そんな話聞いたことないわ……あなた何も、言わなかったじゃない!」
メイアは勢い余って立ち上がり、机をドンッと両手で叩いた。
顔をくしゃっとさせて、大きな黒目にこぼれ落ちそうな涙を浮かべている。
「ちょっと待ってくれ、ハイデル。君はメイアと付き合っているんじゃないのか?」
「司教。俺は彼女とは、友人以上のお付き合いはしていません。今までもこれからも、そのつもりですが」
二人の男が決して視線を逸らさず、漂う空気が途端にひりついてくる。
「本当なのか、メイア。私に言っていた事と違うじゃないか。どういうことだ」
「だってそれは、……彼が私を大事にしてくれているから、距離を取っているのだと思って……」
途端に自信をなくしたように瞳を伏せたメイアは、しばらくして弟に怒りの眼差しを向けた。
「クレッド君、その人はどんな人なの? いつから、付き合っているのよ」
「そうですね……五ヶ月程前からです」
「なによそれ、すごく最近じゃない。どうして、私は何年も前から、あなたのこと思ってたのに……許せないわ……!」
部屋にぐすぐすと彼女の泣き声が広がり、その場にいる者達は皆静かになった。
けれどそれに反して、弟の手の力がぐっと強められる。
「最近……? あなたにも昔、話したことがあったでしょう。俺には好きな人がいるって。俺はずっと、その人を想い続けていたんです。そうしてやっと、自分のものに、なってもらえたんですよ」
冷静だった弟が、熱のこもった声色で告げた。
それは、俺のことを言っているのだと分かり、体の芯が熱くなる。
思わぬ弟の告白に、切ない気持ちが胸をしめつけ、自身を保つのに精一杯になっていく。
見つめていたクレッドの横顔が、すっと俺のほうを向いた。
「なあ、兄貴も知っているだろう? 俺の気持ちを。……ずっとその人だけを、見ていたことを」
せつない表情をした弟に確かめるように尋ねられ、俺はすぐに言葉が出てこなかった。
自分の心を一生懸命落ち着かせる。
「うん。知ってるよ。ちゃんとお前に聞いたから」
震えてしまう声は、弟を不安にすることはなく、まっすぐに受け入れられたようで、安堵したような笑顔を向けられる。
「そんな……嫌よ、嘘でしょう……」
力なく落とされたメイアの肩は震えていた。
重苦しい空気の中で、一人の男の大きなため息が吐かれた。
「なんだ。全然駄目じゃないか。これほど勝算がないとは思わなかったぞ、メイア」
「……お父様は黙ってて!」
「ヒステリーを起こすんじゃない。仕方がないだろう、こうまではっきりとハイデルに断言されては、打つ手がない」
司教はぐっと腕組みをし、鋭い視線を弟へ向けた。
どうしよう。
もしかして、ここからが修羅場なんじゃないのか。
恐怖が襲ったその時、ずっと静かに様子を見ていた騎士ジャレッドが口を開いた。
「団長。ずっと想ってた人って……一体どれぐらい長い間、片思いしてたんですか?」
「お前に関係ないだろう」
「興味があるんですよ、教えてください」
騎士は張り詰めていた空気をものとせず、煩わしそうにする弟に迫った。
「……長すぎて分からないな。物心がついた時からだ」
「は!?」
おいこいつ何を言い出してーー。
小声で「おいクレッド」と弟の袖を引っ張ると、何も気にしてないかの如く柔らかい笑顔を返された。
「まじかよ……意味分かんねえ。どんだけ一途なんだ、あんた」
「別にいいだろ。お前に理解される筋合いはない」
「ほう、なるほど。ハイデル、その相手は幼馴染か何かか? 君は他人には素っ気ない男だが、案外純愛のタイプだったんだな」
三人はいつの間にか普通の調子で会話していた。
俺は頭をうつむかせて黙ったままのメイアが恐ろしくなり、息を呑んで様子をうかがっていたが、やはり彼女は怒り狂った形相で立ち上がった。
「……酷すぎよ、あなた達……私が傷ついてるっていうのに、楽しそうに喋りだして……もういいわ、帰るから!」
声を張り上げて出口へ向かう彼女に皆騒然となったが、やがて父親の司教がゆっくりと重い腰を上げた。
「ああ、怒らせてしまったな。この中で彼女を追うのは、私しか……いないか。ハイデル、また二人でゆっくり話そう。今日はすまなかったな」
手短に告げた司教は、予想外にすんなりと部屋を出ていった。
やっと、終わったのか。
はぁと深く息を吐いた俺の心労は、すでに凄まじいとこまで来ていた。
「おい。お前も早く行ったらどうだ。ジャレッド」
「なんですか団長、もう少しぐらい良いでしょう。俺も振られた姉貴の相手するの面倒なんで」
俺はやっとクレッドに真正面から向き直り、やけに落ち着いたその顔をじっと見つめた。
「なあ、大丈夫かお前。……いや、俺が言えることじゃないけど、相手は上司だったし。どうすんだよ、仕事に影響出たら……」
「ああ。……言っただろ、兄貴。俺は平気だって。何かが変わったら、その時考えるよ」
クレッドは優しく笑いかけてきて、俺の頭をぽんぽんと触った。
すごく簡単に言いのける弟に、面食らってしまう。
考え込んでいると、顔を覗き込まれた。
「そんな顔しないで。俺には兄貴以上に大切なものなんて、ないんだよ」
弟は、やけに幼く見えるあどけない笑顔を見せた。
とっさに奴の腕をぎゅっと掴む。
「お、俺にもないよ。……お前が一番、大事だ」
「本当に? 嬉しいな、兄貴……」
二人で見つめ合い、弟の手が俺の頬に伸ばされようとした時。
向かい側からゴホンゴホンと大きな咳払いが聞こえた。
あ、騎士の存在すっかり忘れてた。
振り向くと、ジト目の若い騎士と目が合った。
「あの、正気ですか。俺の姿見えてます? ここで始めるつもりですか」
ジャレッドは盛大に呆れ果てた様子だった。
別に何も始める気なんかないが。
これがいつもの俺たちだからな。
「あ、ごめん。お前まだいたのか。帰っていいぞ」
「セラウェさん。俺は団長ほどじゃないけど、しつこいんですよ? だからまだ諦めてなーー」
「うぜえな! どんな神経してんだお前、もう諦めろよ、俺はクレッドが好きなんだよッ!」
今までの鬱憤を八つ当たりのようにぶつけ、大声で宣言すると、騎士は大げさに肩を落とした。
弟はまた嬉しそうな顔をしている。
そうだ。
俺はこうやって愛おしそうに見つめてくる弟のことが、好きなんだ。
塞がっていた心が、こいつの強い愛情によって、再び息を吹き返す。
単純かもしれないけれど、俺達はそうやって、ずっと一緒に生きていくんだと思う。
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