▼ 17 弟の気持ち T (回想4)
その日は実家を訪れた兄アルベールに捕まり、散々遊んでもらうことになった。
夜は疲れて寝てしまったが、急に目が覚めた俺は喉がカラカラだった。
寝間着のまま一人こっそり台所へ向かう。
足元の照明をたよりに階段を降りていくと、近くのリビングから声が聞こえてきた。
扉に耳を寄せると、二人の兄の声が響いてくる。
「シグリット、お前もうすぐ入寮試験だろ。ちゃんと準備してんのかよ。うちの寮の教官は厳しいぞ?」
「え、本当かよ。稽古はやってるけどさ……」
からかうようにアルベールが問いかけると、兄の声のトーンが落ちた。
うちの寮、という長男の言葉に、まだ小さかった俺は首を傾げた。
「なんだ、お前やっぱり、まだセラウェに言ってないんだろ。もうすぐ家出ること」
「……うん、そうなんだよな。言いづらくてさ」
ーー家を出ていく?
そこでやっと俺は、二人が何を話しているのか理解したのだった。
当時七歳だった俺の頭がすぐに真っ白になってしまうほど、大きな衝撃が走った。
「気持ちは分かるけどさ、早めに伝えて徐々に受け入れさせたほうがいいよ。お前が辛いなら、俺から言ってやろうか」
「いや、いいよ。大事なことだから、自分で言いたいんだ……」
二人は真剣な様子だった。
話の中心が自分になっていることに気づき、俺は言い様のない不安を覚えた。
「まあ、セラウェのやつお前に凄い懐いてるもんな。クレッドは知らないけど。……やっぱ寂しいよなぁ、あいつらから離れるの。俺もよく分かるよ」
「……そりゃ寂しいよ。ああ、やっぱ無理だわ俺。どうしよ……」
兄が落ち込んだ声音でぽつりと呟くのを聞いて、俺はそっと扉を離れた。
一階に降りてきた理由も忘れて、音を出さないように、階段を早足で上っていく。
嘘だ。
兄がもうすぐ家を出てくなんて。
学校のせいで忙しく、あまり遊ぶ時間はなかったけれど、毎日顔を合わせることが出来たのに。
子供ながらに、兄二人の真剣な会話から俺はその話が真実なのだと分かり、泣きたくなるほどの気持ちが襲っていた。
それから毎日、俺の気分は沈んでいた。
表向きは、兄の様子は変わらない。けれど時折俺の顔をじっと見て、何も言わず微笑みだけで頭を撫でることがあった。
聞きたいことはあったが、反対に知りたくなくて、そんな時は急に兄に抱きついたりもした。
「うわ。どうしたセラウェ。また遊んでほしいの?」
「……ううん。違うよ」
そういう気分じゃなかった。
もやもやと心が晴れないまま、兄の顔を見るとちょっと辛くなる。でもこうしてたくさん甘えたい気持ちもある。
段々苦しさが募っていき、自分ではどうしようも出来ないまま落ち込んでいった。
クレッドはそんな俺の様子に気が付いたみたいだった。
子供部屋で二人、床に座って絵本を読んでいた時のこと。
考え事をして手が止まった俺のことを、下から覗き込んできた。
「お兄ちゃん。眠たいの?」
「えっ。ううん。違うよ」
「でも、元気じゃないみたい」
「……そ、そんなことないよ。元気だよ」
驚いた俺は、どぎまぎしながら取り繕った。
弟は訝しんだ様子で、困ったような、納得してない顔を向けてくる。
「ねえクレッド。僕が家からいなくなったらどうする?」
何気なく口から出た言葉は、一瞬固まってしまった弟の顔を、みるみるちうちに泣き顔へと変化させた。
「お兄ちゃんいなくなるの? どうして?」
途端に不安いっぱいといった感じで、服を強く掴んできた。
俺は慌てて弟の頭を優しく撫でる。
「いなくなんないよ、嘘だよ、ごめんね」
「……ほんとうに?」
「うん。本当だよ。ずっとクレッドと一緒にいるよ」
弟はまだ薄っすら涙が滲んでいたが、俺の言葉にちょっとだけ安心したのか、笑みを作ろうとしていた。
自分が言った言葉を、兄も言ってくれたらいいのにな。
そんなことを思いながら、また悲しさが募ってきた。
何日か経ったある日。
俺は外で洗濯物をしている母に話しかけた。
母は当時から自分に似た雰囲気を持っていて、父よりも話しやすい人だった。
「お母さん。僕、病気かもしれない」
俺の第一声に、母は目を見開いて、すぐにしゃがみこんだ。
「どうしたのセラウェ、どこか痛いの? ……熱はないけど、どうしましょう、気分が悪い?」
いつもおっとりしている母が完全に焦った様子で尋ねてくる。
子供だった俺は心配されて、ちょっと嬉しく感じた。でも悲しい気分はすぐに戻ってくる。
「ずっと元気が出なくて……どうすればいいか分かんない」
兄のことをはっきりと言えない自分が情けなかったが、母は俺の肩に優しく手を乗せた。
自分と同じ緑の瞳にまっすぐ見つめられ、少しほっとする。
「何か心にあるのね。一人で考えすぎないで、お母さんに話してみて。一緒に考えよう?」
途端に安心感が湧いてくる。
母に言われると、本当にその気になってしまいそうだから不思議だった。
「……う、うん。あのね、シグ兄ちゃんのことなんだけど……いつ家から出てっちゃうのかな……?」
途切れ途切れに尋ねると、母は想像以上にびっくりした顔をしていた。
けれどすぐにその視線が、俺の後ろのもっと高い位置に移される。
「シグリット……もう稽古終わったの?」
「え。ああ、そうなんだ。……母さん、俺ちょっと……セラウェと話してもいい?」
恐る恐る振り向くと、緊迫した面持ちの兄が立っていた。
心臓がバクバクと音を立て始める。
どうしよう、母に尋ねたことを聞かれてしまった。いやだ。
「僕もう行く……!」
今すぐにでもその場から逃げだしたくなった。
まだ真正面から兄と向き合う勇気がなかったのだ。
「お、おい待て、セラウェ! ちょっと待てって!」
すぐに兄から肩を掴まれ、引き戻される。俺はジタバタと暴れながら、ひょいっと抱き上げられた。
目線が近くなり、びっくりして動きを止める。
七歳になった頃は、父はともかく兄から抱っこされることは、ほとんど無かったからだ。
「そうね。じゃあ二人でお話したほうがいいわ。お母さん、今からケーキの準備してくるからね」
母は俺たちを見て優しくそう言うと、洗濯物をてきぱきと片付け、屋敷の中へと戻って行った。
兄は黙り込んだ俺を近くの長椅子へと下ろし、隣に座った。
「セラウェ。お前、俺がもうすぐ家出てくこと、知ってたのか。……親父から聞いた?」
俺は顔を俯かせたまま、首を横に振った。
この話題をするのは嫌だったが、もう逃げられそうもない。
覚悟を決めて、話すことにした。
「……ずっと前、シグ兄ちゃんとアルお兄ちゃんが話してるの、聞いちゃったんだ。でも悲しくて、もう一回聞けなかったんだ」
ぽつぽつと告げると、突然長い腕が伸びてきた。
兄の胸が目の前にきて、抱きしめられてることに気づいた。
「ごめんな。……一人で悲しませてたんだな。ちゃんと話せばよかったのに、お前の顔見たら中々言えなかったんだ。……俺のせいだな。馬鹿だった、ごめんセラウェ」
ぎゅっと力が込められ、兄の悲痛な思いを知り、いつもとは違う抱擁に感じた。
自分も聞きたくなかったのは同じだ。
あの夜も兄は辛い気持ちを吐露していた。
俺と同じぐらい悲しんでいるのが伝わってきて、どこかでほっとしながら、もっとやるせない気持ちになった。
「大丈夫だよ、気にしないで、シグ兄ちゃん。僕元気出すから、シグ兄ちゃんも元気出して……」
強がっているのを悟られないように、そっと抱きしめ返して呟いた。
幼かった自分は、兄をさらに悲しませないようにする為に、そうするしかなかったのだ。
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