▼ 113 透明な弟
黒光りの豪華客船サン・レフィアス号に戻った俺たちは、レセプションで担当の執事ゼベインさんに迎えられた。
魔界の長い夜にも関わらず、朝と同じくばっちりスーツに身を固めた、白髪の紳士がお辞儀する。
「お帰りなさいませ。トリアンの祭典はお楽しみになられましたでしょうか。……おや、ハイデル様でいらっしゃいますよね?」
「あー、はは。そうなんすよ。ちょっと仮装のほうが気合い入りすぎて戻らなくなっちゃって。……あ、そうだ! ここVIPルームだし、もしかして術の解除が出来る魔術師とかいませんか?」
一縷の望みをかけて、俺は彼に事の経緯を話した。
猫耳獣人の俺と闇ローブを羽織った透明人間の弟を、ゼベインさんが興味深そうに調べる。
「申し訳ございません。魔族による呪いならば私でも解呪可能な場合が多いのですが、この秘術は獣族特有の刻印が用いられており、他者の手出しが出来ないようです」
「そうっすか…仕方ないですね。ていうかこれ呪いレベルなのかよ。じゃあ明日まで我慢するか…。おやすみなさーい」
残念に思いつつ礼を言って去ろうとすると、弟にフードを掴まれ引き留められた。
「待って兄貴。夜ご飯ルームサービスにしてもいいか? 俺、この姿で食べてたらおかしいかも……」
控えめな声で告げられ、俺もすぐに納得する。
「あっそうだよな。俺もこんな格好でレストラン恥ずかしいし、部屋で食べようぜ。んじゃお願いします」
「ーーかしこまりました。それでは遅くなりましたがセラウェ様、クレッド様。この度はコンテスト優勝誠におめでとうございます。ベストカップルのお二人を祝しまして、特別なディナーをご用意させて頂き、のちほどお届けに参りますね」
……え!?
なんで何も言ってないのにその情報知ってんだと目が点になる。
もしや魔界中に知れ渡ってないよなと背筋が凍りながら、俺たちは笑顔の執事に見送られるのだった。
◇
最上階デッキにある純白スイートルームに戻ると、とりあえず汗ばんだ体を綺麗にしたくて、風呂に入ることにした。
広い居間を抜け寝室のクローゼットに向かったクレッドが、素早く装備を外していく。
「ああ、暑かった。やっと全部脱げるよ」
俺はじっと弟の様子を見ていた。
当然だが黒い仮面の下は何もなく、目の前から忽然とクレッドが消えてしまった。
胸がちくっと痛む中、突然自分の体が浮き上がった。
「うわ! ちょ、怖え! 高いって!」
「ごめん。ほら俺に、ちゃんと掴まって」
透明だから浮いているように見える。必死に首に手を回すと、弟の熱い肌に触れた。こいつ、どうやらもう裸になっている。
脱衣場に連れて行かれ、俺も服を脱がされてしまった。
この猫の手足じゃうまくボタンが外せないから、少し助かったが……。思ったとおり、クレッドの暴走が始まった。
「もうお前何やってんだよぉっ」
「兄貴、自分じゃ洗えないだろ。俺が隅々までやってあげるから、じっとしてて」
「んあぁっやだあっ尻尾やめろ!」
姿はまるで見えないが、後ろに張り付かれている。
いつもより高いところから腕が伸びてきて、髪の毛やら耳やら、太ももの間まで丁寧に泡立てられた。
「ほら、気持ちよくない?」
「……んん……っ……もういい…」
まるで子供にやるみたいに、お湯を流される。
それから抱き締められて、首筋に弟の唇が這う。吸い付くように甘噛みされた。
「なあ……兄貴とまだキスしてない」
誘うように告げ、ぴたりと唇を塞いできた。
舌を重ね合わせる、優しいじっくりとした口づけだ。
薄く目を開けると、弟の姿が見えなくて、なんだか切なくなる。
クレッドの手が腰にまわり、腹を撫でる。滑らかな手の動きに反応してしまう。
「ここもしようか」
「……ん、やぁ……だめ……いいから……」
「どうして?」
「出したら…眠くなる……まだ食べてないのに」
ふらつく体を預けて白状すると、後ろからふっと笑う声が聞こえた。
「それは……困るな。まだ寝てほしくないけど、兄貴がイクとこ可愛いから、見たい。……ちょっと我慢してくれる?」
また勝手なことを言い出して、こいつは俺の体を好きにする。
優しい手に導かれて結局いつも気持ち良くされるんだ。
「んっ、ああぁっ、出るっ」
腰が数度震えて達する。
脱力感が襲ったあと、腕に掴まりながら振り向いた。
探ってクレッドの体に触れようとしたけど、抱き締められただけだった。
「俺は大丈夫。後でな」
頭をそっと撫でられて妙な胸の高鳴りを感じる。
後で何するんだろう? だってお前のこと、見えないのに。
◇
あんなことをした後で、普通に食事というのも変な話だ。
でも日常になってしまってるのも、恋人だからなのか兄弟だからなのかーーいや、兄弟はしないか普通。
せっかくだから、ルームサービスは夜の海が望めるバルコニーで頂くことにした。
涼しい夜風が通り、薄ぼんやりとした月明かりが幻想的だ。
「わぁ、すげえ! 肉料理に海鮮に、ホールケーキもついてる! 俺達の名前と似顔絵もあるぞ、恥ずかしすぎんだろっ」
「本当だ、この兄貴すごく似てて可愛いすぎる。もったいなくて食べれないよ」
一通りはしゃぎ乾杯をした後、記念にと魔石を使い写真を撮る。
そうだ。せっかくだし二人のも撮るか。
自分が猫耳なのも忘れて思い立ったが、テーブルクロスを挟んだ向かい側に座っているのは、ガウンのみを羽織った透明人間だった。
弟が持っているらしきフォークが宙に浮き、ぱくぱくと料理を口に運び、その瞬間から消えている。
なんて摩訶不思議な光景なんだろう。
「……お、美味しいか? クレッド」
「うん、すごく美味しいよ。兄貴は?」
「俺も……美味しいけど」
正直味が時々分からなくなるほど、動揺していた。
明日までの辛抱なのに、俺は弟の姿が見えないだけで、こんなにも心にダメージを負ってしまうのか。
束の間の透明人間の弟をからかったり、楽しんだりする余裕もないなんて、兄貴のくせに弱すぎだろ。
勝手に沈んでいると、テーブルに置いた手をクレッドに握られた。
俺ははっとなって顔を上げる。
「兄貴……俺のこと怖い?」
「……えっ? ううん。違うよ、寂しいだけ…」
交じらない視線を探しながら、正直にこぼした。
「本当に? こっちおいで」
優しく言われて俺は咄嗟に立ち上がってしまった。ゆっくり近づくと、くるっと反転させられて、奴の膝の間に招かれる。
「おい、食事中に行儀悪いぞっ」
「だってずっと手繋いでるって約束しただろ。破ってごめん」
抱き抱えられて首の後ろに吐息がかかった。
これだけで安心するのだから俺はどうしようもない。
「ずっとは無理だろ…。近くにいるんだから平気だよ」
強がってるのがか細い声に滲んでいる。
きっと旅行で毎日一緒に寝起きしてるから、それが嬉しくて、当たり前に感じてきて、どんどん弟から離れられなくなってるのかもしれない。
俺は振り向いて、弟のガウンの肩に置いた手を、少しずつ顔がある場所に持っていった。
クレッドのほっぺたを傷つけないようになぞり、触れる。
「それ……すごいドキドキするんだけど、兄貴」
「……そうか? じゃあこれは?」
なんとか弟の唇を探り当てた俺は、そこに口を寄せた。
自分からキスをして、ゆっくり離す。
柔らかく程よい厚みがある唇は、クレッドのものだ。反応は分からないけれど、温かみと感触は知っている。
奴はじっとして、俺のキスを受け入れていた。
しばらく経ったあと、ふとある感覚がよぎった。
「ん……? お前目開けてないか」
「なんで分かった?」
「やっぱりな。うっすら感じたし」
「なんだそれ、すごいな兄貴」
くつくつと笑う声が聞こえる。
自分のやったことが急に恥ずかしくなってきて、弟の胸に顔を伏せた。
「兄貴のかわいい顔が見たかったんだ。……でもそんな風に甘えられると、俺我慢できなくなっちゃうな」
ぎゅっと頭を抱いて撫でながら、弟のほうが甘い声で囁いてくる。
なんて言おうか迷った俺だが、結局「別にいいよ…」とこぼしてしまうのだった。
「……ほんとう? 今の俺としてもいいの? 怖くない?」
矢継ぎ早に尋ねるクレッドの顔がなぜか想像できる。
こいつ……何する気だ。やっぱり早まったかな俺。
「怖いことすんなよ……!」
「しないよ。大切な兄貴だぞ。出来ないよそんなこと」
そうして頬にちゅっとキスをした弟の鼻歌が、どこからか聞こえてきそうだった。
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