▼ 119 最終話 弟vs師匠
「クレッド……大丈夫か? さっきからぼうっとしてるし、顔も赤いぞ。まさかお前、やっぱり酔っぱらっちゃったんじゃーー」
隣の兄がおろおろしながら、俺のことを心配してくれている。
宿敵メルエアデの棲み家におびき寄せられ、俺はある程度の覚悟をもって奴との対峙を待ち受けていた。
不自然な待遇の良さになにか裏があるだろうとは思っていたし、なんなら酒の異常なまでの度数の強さも目視していた。
しかし俺は引かなかった。決して引いてはならない闘いが男には存在するのだ。
「ぜ、ぜんぜん……だいじょうぶ。……きしがよっぱらうなんて……そんなぶざまなことが…あるわけない……よ」
なんとか絞り出した声に、兄貴が目を丸くする。
「えっ? お前全然呂律まわってねーぞ! やべえよ、完全に酔っぱらっちゃってんじゃねえか!」
まずい、余計に兄を心配・動揺させてしまっている。確かに異様に体が熱く目の前はぐるぐるして視点は定まっていないが、自分は酒に飲まれたことなどないのだ。
というか兄貴はいつもこんな危険な状態だったのか?
これからは更に気を付けて見守らなければ…と心配がさらに輪をかけて目眩が抑えられない。
いや、きちんと話さなければ。
俺はまだ、目の前でニタつく生涯の敵にあのことを表明していないのだ。
そもそもそれが今回やって来た、自分の目的なのだから。
「ハハハッ! いつもの威勢はどうした若造。お前セラウェよりグダグダじゃねえかよ、そんなんじゃ守れねえなぁ聖騎士、今俺がお前のこと襲ったらどうすんだ? ウーン?」
向かいの椅子から、偉そうに腕を組む奴の嘲りが飛ぶ。
俺は奴を睨み付け、ぐぐっと拳を握った。クソ、男の不愉快な顔つきが三重に見えてくる。
……馬鹿な、自分がこんな弱い人間だったとは。そんなことがあってたまるかッーー
「うるせえ師匠! あんたが卑怯な真似してきたんだろうが! こいつは俺が守るから心配いらねーんだよ、バーカ!!」
そう言って隣の兄が俺のことをぎゅっと抱き締めてきた。
途端に力が抜けていく。
同時に温かくも力強い言葉が体に浸透し、目がうるんでくる。
「あ、あにき……ありがとう……ごめんこんな……かっこわるいおれ……」
「何言ってんだよ、お前今ちょっと可愛いよ! お前も普通の人間だったんだなってぶっちゃけ安心ーーいや、違う違う。とにかく俺に任せろ、いつも助けてもらってばっかりじゃ兄貴のメンツがたたねえからな!」
奮起した笑顔で告げられて、俺は感動に心が掴まれ、ときめいてしまった。
やっぱり兄貴はやさしい。そして弟の俺にとっては、誰よりも強い人なんだ。
ああ、大好きだ……
「……あにき……すき……」
呟いた俺は我慢出来なくなり、近くに他人がいようがどうでもよくなり、兄貴に身を寄せた。
そして頬を手で覆うと、唇をそっと重ねた。びくっと兄の肩が跳ね上がったのが分かった。
「なっ何やってんだてめえ! 調子乗んなバカ、人前だぞッッ」
やっぱり怒られた。
真っ赤に変化した顔が迫り、両肩を掴まれてぐわんぐわんと揺さぶられる。
「ご、ごめ……だってがまんが……あ、ちょっと……やめてそれ……もっと、やばい……」
更に酔いがまわり正気が保てなくなりそうだ。
しかしそんな和やかな空気の中でも、不気味に静まる男の殺気じみた気配は感じていた。
兄貴も同じだったのか、ゆっくり正面を見て額に汗を溜めているが、俺は反対に警戒を強め、兄貴を腕の中に閉じ込めた。
メルエアデの人を殺すような鋭い視線にも負けない。
「なんだ……なんかもんくあるか。……ここでするつもりはなかったが、おまえのまいたたねだろ……」
自分の不利を察しながら、それでも大事な人を渡すものかと牽制する。
しかし奴はとうとう気でも狂ったのか、やがて口元をつり上げた。
「……くっくっく。俺もおかしいがお前も相当おかしいぞ。どうやらここで人生終わりにしたいらしいなぁ? セラウェが兄貴だったことを恨むんだな、俺みたいな男を師に持ったせいで、お前は一生目の敵にされんだからよ」
そう言って立ち上がった男に、俺と驚いた兄貴の視線が注がれる。
今だ。今しかない。
覚悟した俺は、兄貴の体からゆっくりと腕を離し、代わりにその手を上から握った。
兄の「おいお前何火に油を注ぐようなことをしてんだ」という驚愕の眼差しにも気づいていたが、覚悟は出来ている。
全神経を集中させ、全力を出すべき時なのだ。
「兄貴と兄弟であることを、俺が恨むわけがない。……確かにお前みたいに面倒くさい男がたくさん周りにいたことは想定外だったが、俺も人のことは言えないしな。……とにかく、お前に言いたいことがある」
落ち着いて話し始めると、奴が目の色を変えた。
「……なんだてめえ、急にハキハキ喋りやがって。……あれか? 俺を油断させようとしてたのか、曲者な野郎だな」
別にそんなことはしていない。俺も必死に戦っているのだ。
「メルエアデ。俺と兄貴はもうすぐ同じ家で、一緒に住み始めるんだ。……だからお前にどうこうというわけではないが、また妨害されたら面倒なんでな。一応報告しに来た」
冷静に伝えると、隣の兄貴がばっと振り向いた。
急にこいつに伝えたことを、もしかしたら咎められるかもしれないと思っていた。
しかしハネムーンを終え、自分なりに気持ちも覚悟も高まり、今しかないと考えていた。
別にこんなやつの許可などいらないが、兄貴にとってはある種大事だと思える人間なのだということも、少しは理解していたからだ。
兄貴は俺の予想に反して、意思をこめるように手を握り返してくれた。
「そうなんだ、師匠。実は俺たち、一緒に暮らそうと思ってる。今のままより、そっちのほうが良いなってずっと考えてて……。師匠には呪いのことも含めて、今までいっぱい世話になってるから、最初に話したほうがいいよなって思ってたんだけどさ。認めてくんねえかな…?」
真剣な兄の横顔に目が奪われ、胸がじんわりと熱くなってくる。
やっぱり話してみて良かった。同じ気持ちなのだと、そのとき再認識した。
二人で見つめ合い、しっかりと頷く。
壁となる男に向き合うと、奴は無表情だった。特に聞きたくもないニュースだったとは思うが、怒るでもなく脅すでもなく、俺に視線を向けたあと、兄貴のことをじっと見つめている。
「……えっ。師匠、今の話聞いてた? あっ、別に興味なかったからスルーしてくれていいんだけど。ていうか反対されるよりそのほうがいいかも。アハハ」
焦った兄貴が腰を浮かした瞬間、再びメルエアデの目元がいやらしく細められる。
俺はすぐに異変を感じ取った。
やはりな。こいつが無反応な訳がない。
何より兄貴を大事に思い、他の男を目の敵にしているのだから。ーー全く違うが、俺と同じだ。
「そうか。なるほどねえ。いいじゃねえかよ、セラウェ。なんで俺が反対するんだよ。俺はお前の一番の理解者である師匠だろうが、バカ弟子」
「……そ、そうだっけ? でも本当に? すげえやったあ」
「ああ頑張れよ、やれるもんならな」
「ーーえっ?」
一瞬ほっとした兄貴の目が大きく見開かれる。
対してメルエアデは笑みを崩さなかった。
「でもよ、お前の家はどうするつもりだ? あ、ちげえな。俺たちの家、だったわ。だって一緒に購入したんだもんなぁ、あの森の中の立派な一軒家をよ。懐かしいぜ、あーだこーだいいながら一緒に作ったっけなぁ。もちろん名義は俺だけど」
足を組み、葉巻をふかしながら突如感慨深く告げられた台詞に、俺は度肝を抜かれた。
遅すぎるほどのスピードで兄を見やると、何かを思い出したかのように、顔面蒼白だった。
嘘だろう、今の話、事実なのか?
そんなこと全く知らなかったんだが。
「そ、そそそそ、師匠。その話今しなくてもいいんじゃないか」
「馬鹿かお前。今しなくていつすんだよ。つーかなにか、お前の隣の弟、すげえびっくりしてるみたいだが、まさか言ってなかったのか? あの家が俺たち二人の共同作業の賜物だったって話」
勝ち誇ったように鼻で笑われ、愕然とした。
きょ、共同作業……大きな一軒家を作るほどの仲……って。
「うるせーぞ師匠! 変な言い方すんな! 確かにあの家は半分…いや三分の二ぐらいはあんたのだよ! だってまだ俺若かったし金なかったんだからしょうがねえだろ! あと内装はあんたが好きにしていいっていうから俺がほとんど決めたじゃねえか、だからほぼ俺の家だろうが!」
興奮しながら兄が自分の師に掴みかかっている。
俺はというと、情けないことにまた頭がぐらつき、まるで傲っていた鼻っぷしを殴られたような状況に陥っていた。
「そ…そうだったのか……いや、だからなんだ。……あにきがこれからどこでくらそうが、……あにきのじゆうだろ……」
「おい聖騎士。お前また呂律おかしくなってんぞ。そんなにショックだったか? ハッ」
「もう師匠黙れよ! ち、ちが、違うからクレッド、信じてくれっ!」
必死な顔をした涙目の兄貴が俺にすがってくる。俺は思わず抱き締め、安心させるように背中を撫でた。
過去のことに俺が文句を言う資格などどこにもない。ただもやもやした敗北感に打ちのめされそうになっていたのは情けない事実だった。
そんな二人を嘲笑うかのように、メルエアデの薄ら笑いが充満する。
「セラウェ。お前今騎士団内に住んでんだろ? そもそも俺たちの家ちゃんと維持してんのかよ」
「俺たちのって言うな! ちゃんと時々帰って様子見てるし、オズも掃除してくれてるよッ」
「へー。それならいいが。まあ俺はここだけじゃなく、家も敷地もたくさん持ってるからなぁ。とはいえあの森は気に入ってるから、手放すつもりはねえし。どうしようかセラウェ?」
にやにや笑いながらさも保護者の面で語りかけている。
この野郎、兄貴を引き止めるためなのか、最後の切り札を取っておいたかのように、ずる賢い性質をここぞとばかりに発揮している。
負けたくない。こいつにだけは、負けられないーー
もう何の勝負なのか自分でも分からないまま、心の中の威勢とは反対に腰の力ががくんと落ちる。
「……く、くそ……ダメージが……あにき……やばい……」
隣にいる兄に倒れこむように、俺はソファの上で脱力してしまった。
下から「うああぁっ大丈夫かクレッド、すまん俺のせいでっーー」という声が聞こえたが、寸でのところでいきなり背中が強い手のひらに掴まれた。
ぐっと上に引き上げられ、俺はメルエアデに捕らえられたのだと知る。
「くっ、はなせ、この……っ」
「ふん、ざまあねえ姿だな。まあ今日のとこは俺の勝ちか。生意気な野郎は定期的に鼻折っとかないとな」
「可哀想なこと言うな師匠! ていうかクレッド、やっぱ休ませないとダメだ、おい師匠、部屋貸してくれよ。ちょっと寝かせとくから」
二人が俺の周りで何か喋っている。
酒さえ飲んでなければ、こんなだらしない姿を見せなくてもすんだのに。
「しょうがねえなぁ。今回だけだぞ、ったく」
メルエアデの腹の立つ台詞を聞きながら、俺は奴の肩に手を回され、引きずられた。
兄も隣で心配そうに見守る中、上階へ向かい、やがて廊下を進んだ先にある静かな部屋へと押し込まれた。
ベッドに乱暴に下ろされ、俺はふらっと尻餅をつく。兄貴に支えてもらって、どうにか頭をはっきりさせようとした。
「おら、ちょっと横になっとけ。……おい若造、俺の家で妙な真似したらぶっ殺すからな。……まあそんだけ飲んどきゃ勃たねえか」
また腹立たしい笑いと共に低俗な言葉を吐かれ、即座に兄の怒鳴り声が響いた。
やっと去ったメルエアデにほっとしつつ、俺は柔らかいベッドの上に大の字になって寝た。
兄貴は心配そうな顔で隣に寄り添い、見下ろしてくる。
「大丈夫かよお前、悪かったな、こんなに飲ませて。あとさっきのことも……俺がなんとかするから、気にしないでくれよ」
申し訳なさそうに告げる兄の頬を、そっと撫でた。
「……大丈夫だよ、兄貴。俺のほうこそ情けない……ごめん。家のことも、二人でなんとかしよう」
真摯に伝えると、兄は少し驚いたようだったが、こくりと頭を頷けてくれた。
胸にぽすっと頭を預けられ、大切に抱き締めて安心を得る。
あの男の存在はやはりこれからも頭を悩ませるだろうが、俺達ならきっと何とかなる。
兄風に言えばそうなのだろうと、気分を軽くして考えようとした。
ふと辺りを見回す。この部屋は大きめのベッドと机、衣服棚など揃っているがゲストルームなのだろうか。
それにしてはたくさんある部屋の中から、迷わずここに連れてこられたような気がする。
「兄貴。もしかしてここ、前に兄貴が使ってた部屋……なのか?」
尋ねると、どこかぎくりとした表情で見返された。
「えっ。なんで分かったんだ、確かにそうだけど」
目を泳がせて動揺している。俺の反応を気にしたのだろうか、兄貴は若干気まずそうだった。
「……そうか。ここで暮らしてたんだな、ずっと……」
16で兄が家を出てから、6年ほどはあいつと生活していたのだ。
自分が片想い真っ只中の苦しい時期だったが、兄貴は一生懸命ここで魔術の修行をしていた。
一日たりとも考えなかった日も、心配じゃなかった日もないが、お互いに自分の道に向かって頑張っていた時だったのだと、思いを馳せる。
なんだか不思議な感じだ。あの頃、本当にたまにしか兄貴に会えなかったけど、俺は自分のことで精一杯だったけど、それぞれに歩いてきた道があるのだ。
それは確かに大事なもので、大切な人の思い出は、自分も大事にしていかなければならないのだと、強く思う。
「……兄貴、俺兄貴のこと……幸せにしたいな」
ぎゅっと抱き締めながら告げた。
伝えたことのある言葉だったが、もう一度表明したかった。
兄貴はすぐに体を起こし、俺を見つめた。
そしてにこりと優しい笑みを広げる。
「なんだそんなの、簡単だよ。お前がいるだけで、もう完了してんじゃん」
あっけらかんと言われて目を見開く。
それも何度か言われた言葉だったような気がしたが、今日は感じ方が違った。
やっぱり俺はまだ酔っぱらってるのか。
自分ではどうしようも出来ず、目の奥が熱くなっていく。
「……あれ? なんで無反応なの、お前。クレッド? 俺今すごい良いこと言ったぞっ」
天井を見つめ必死に耐える俺の気をよそに、元気な兄貴が顔を覗きこみ、また体を揺さぶってきた。
「や、やめ、兄貴、たれる、垂れるから」
「はっ? 何が? 大丈夫かお前」
俺はこぼれそうなものを堪え、苦し紛れに抱きついた。
そして諦めて目を閉じて、しみじみと思うのだった。
ああ、俺も簡単に幸せになる。この人の声で、笑顔で、言葉で。
その早さだったら、きっと誰にも負けないな。
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