▼ 100 魔界にハネムーン
ぎゅっと瞑った目を、恐る恐る開けた先に飛び込んできたのは、薄紫色をした空だった。
そして真下に広がる、鮮やかすぎるほど真っ青な海。
俺たち兄弟は、遠くに小船が並ぶ、港らしき場所に降り立っていた。
どこからか鳥の鳴く声も聞こえ、色彩以外は人間界と変わらないように映る。
しかし一番の驚きは、静かな波間に、ひときわ巨大な一隻の船が停泊していたことだった。
黒光りの外観はまるで海賊船のような雰囲気に見えたが、甲板には高層住居のごとく窓ガラスの階層が作られ、船の煙突部分にはストライプ型の印が目立つ。
「クレッド。ここ……どこ? ……いや、港なのは分かるけど、なんか馬鹿でかい船があるぞ。大丈夫なのか? まさかしょっぱなから俺たち、魔族に捕まって誘拐されるんじゃ……」
血の気が引きながら、俺は震える声で隣の弟の袖を引っ張った。
弟が俺の肩を抱いて、微笑みを浮かべた顔を寄せてくる。
「違うよ。心配しないで兄貴。ほら、あの客船の名前読める?」
「……客船? あれ、なんでだ。読めるけど……サン・レフィアス号……って書いてある」
なぜか見知らぬ魔界の文字が、頭にすうっと入ってきた。弟も同じらしい。
これもアルメアによる特別な加護の効果なのか?
クレッドを見つめると、奴はこくりと頷いた。
「そうだよ。実は俺たち、今回この船で魔界クルーズするんだ」
弟の口から発せられた耳慣れない単語に、俺は目をしばたたかせる。
なにその、おしゃれなのに物騒な雰囲気ありありの不思議ワードは。
クルーズってことは、つまり今回の旅行は……船旅なのか?
「まじかよ、すげえ……。俺の想像のはるか違うとこをいってんぞ。さすがだなお前」
「……そうか? 兄貴、前に船乗ったことあるって聞いたから、大丈夫だと思ったんだけど」
確かにあるが、そんなの修行中に師匠と行った密漁紛いの経験ぐらいだ。
これほど大規模な豪華客船には、もちろん乗ったことない。
「こんなの初めてだよ、なんかワクワクしてきた…! なぁ、お前は船乗ったことあるのか?」
「うん、あるよ。こういうのじゃなくて、任務中の騎士団保有の船舶だけど。……あ、そろそろ乗船の時間だ。じゃあ行こうか」
優しく俺に手を差し出す弟に、どきっとしながらも従う。
しかし乗船というわりに、他に誰も姿が見えないんだが。なんだか静けさも相まって、謎めいている。
俺たちは二人、用心深く波止場を歩いていた。
そうして船の中央入り口に繋がる、桟橋を渡った。
扉は開かれているが、中はなぜか黒い霞のようなものがかかっていて、よく見えない。
ごくりと喉を鳴らす俺をよそに、クレッドが何の躊躇もなく普通に足を踏み入れた。
すると途端に霧が晴れ、ぼわっと燭台の光があちこちに灯り始める。
一人身構えていると、まっすぐ敷かれた黒いカーペットに沿って、制服を着た見目麗しい男女らが姿勢正しく、一斉に頭を下げてきた。
「……えっ、あのぅ……どうもおじゃましまーー」
「ようこそお越しくださいました。お名前をフルネームでお伺いしても?」
突然背後からスーツ姿の男が現れ、俺は「ああッ!!」と大声をあげてしまった。
白髪で小洒落た口ひげを携えた長身の男に、にこりと笑まれる。
透けるような白い肌に、俺のを遥かに上回る魔力量。あのアルメアに似た禍々しいオーラをひしと感じる。
姿形は人と変わらないが、明らかに魔族のおじさんだろう。
「彼はセラウェ・ハイデル、私はクレッド・ハイデルです」
「ーー畏まりました。地上からのお客様ですね。この度はサン・レフィアス号のご利用誠にありがとうございます。当艦のご説明をさせて頂きますので、こちらへどうぞ」
俺たちはそのまま受付のロビーへと案内された。
船の中とは思えぬほど開放的な空間に、高級感のある黒い大理石が広がり、黄金色のきらびやかな調度品が至る所で存在感を放っている。
二人ならんで分厚いテーブルの前に腰を下ろすと、今度はスーツ姿の美男子がウェルカム・ワインを持ってきて笑顔で差し出してきた。
「あっどうも」と頭を下げた俺は、遠慮なく飲みながら、内心場違い感に焦っていた。
二人ともわりとラフな格好をしているが、大丈夫なのかな。こういうとこって、ドレスコードとかあるんじゃ…。
涼しい顔の弟は何やら男と話し合い、さらさらと署名などを行っている。
それから俺たちは、船室の鍵兼、身分証明ともなる情報が込められた、二人分の黒い魔法石を渡された。
「では改めまして、VIPルーム担当のゼベインルクスと申します。今回、歴史に名高い三つの街に寄港し、魔界の神秘体験を存分に味わっていただくという趣旨のもと、八日間の船旅がお二方の素晴らしい思い出となりますよう、私どもも力を尽くさせて頂きますので、よろしくお願いいたします」
え。初めて知る驚きのハネムーン内容もさることながら、ここVIPルームだったのかよと目をきょろつかせる。
確かにこんなに広いのに個室状態で、他の魔族らしき客の姿がまだ見えないが。
その後も、艦内にある様々な豪華施設の説明を続ける男に、俺は意を決してあることを尋ねることにした。
「あのー、ゼベインさん。お気づきかと思いますが、俺たち人間なんですけども、そのへんセキュリティとか大丈夫ですよねぇ?」
職業柄、魔物や魔族といった事柄に敏感なため、恥を忍んで最初に身の安全を確認したかったのだ。
担当の男は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに俺たち二人にスマートな笑みを向けた。
「ええ、もちろんでございます。当艦は多方面からお越しくださる、多種族のお客様全てに楽しんでいただけるよう、プライバシーと安全管理には細心の注意を払っております。この規模の客船に対しては極めて少数となる、数百名のVIP会員様に絞り、身元もばっちり保証されている方のみの乗船となっていますので、ご心配には及びません」
「ほほう、そうですか。それなら俺たちが標的になることもありませんね、良かったぁ」
がっつり胸を撫で下ろすと、隣に座る弟が熱い視線を投げかけてくる。
「彼の言う通りだよ、兄貴。だからこの船を選んだんだ。可能な限り、二人で安全なハネムーンが出来るようにって。一生に一度の、大切な旅行だからな」
「あ、そうだったのか。……ありがとう、お前がそこまで考えてくれて、俺すっごくうれしーー」
……ってちょっと待てよ、今こいつ、さらっと何かすげえヤバイ事明かさなかったか。赤の他人の前で。
聞かれてませんようにと震えながら担当に向き直ると、彼はまるで笑顔を崩していなかった。
しかしその直後信じられない言葉を浴びせられる。
「なるほど。失礼ながら、お名前からすでにご結婚されていらっしゃるのだと思ってはおりましたが、ご兄弟だったのですね。素晴らしい」
「いえ、それほどでも。まぁ私の兄は素晴らしいですが。ええ」
おいおい、なに異常な会話繰り広げてんだ、この男達は。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。あんま大きな声で言わないでください、つうか魔界的に大丈夫なんですかそれ」
「ああ、地上ではタブーでしたね。この世界ではなんら問題ございません。とはいえ、我々魔族は人族よりも奔放ですので、婚姻に至る者達となるとごくごく希少ですが……」
口をあんぐりと開ける俺だったが、隣の弟はやけに満足げな表情だ。
こいつ、もしかして旅行中俺たちの関係をなるべくオープンにしたいとか、そういう恐ろしい狙いもあったのか…?
「お兄様のために今回のハネムーンを企画され、私どもがその想いに力添えを出来ること、大変光栄に思います。アルメア様にご紹介頂いたご縁に、深く感謝いたしますよ」
そうまとめたゼベインさんは、しばらくして俺たちを船室へと案内してくれた。
着いて早々俺たちの関係を他人に知られたことに、どぎまぎしていた俺だが、寄り添う弟の存在にはやはり、変わらぬ安堵感を得る。
艦内を歩く途中も、内装の豪華さには目が奪われっぱなしだった。
金縁のらせん階段から黒水晶のシャンデリアなど、見るからに値打ちものの美術品を通りすぎる度、段々そわそわしてくる。
後ろを歩いている間、俺はこそっとクレッドに耳打ちした。
「なぁ、ここすっげえお高いんじゃないか? これで足りると思う?」
俺は荷物をごそごそとやりながら、奴に見えるように鞄を覗かせた。
弟がぎょっとした目で、俺が密かにつかんでいた巾着袋を見やる。
「兄貴、なんだそれ、……硬貨か?」
「うん。銀貨だよ。俺のへそくり全部持ってきたんだ」
「……えっ。そうだったのか、だからやけに荷物重かったんだな。何が入ってるのかと思っちゃったよ。……でも、それ俺たちの世界のお金だから、残念だけど使えないぞ」
「げ、確かにそうだよな。どうしよう。だってまさか魔界だと思わなかったからさぁ」
後ろでぼそぼそ喋っていると、急に弟が立ち止まった。
俺をじっと見下ろしてきたかと思えば、伸ばされた腕の中に、しっかりと抱き締められる。
「ちょ、何してんだ。俺の話聞いてたか?」
「……うん。でも兄貴がかわいくって……。けど何も心配しなくていいよ、もう支払いは済んだし、大丈夫だから」
「え! うそだろ、駄目だよそんなの、だって俺兄貴だぞっ」
「そうだよ、俺の大切な兄貴だからだよ。お願いだ、今回は俺に格好つけさせてくれ。な?」
甘い声音で懇願し、俺の反論を奪おうとしてくる。
こいつ、こんな時でも頑固でけっして譲らない。
嬉しいのはそうだが、俺にだって兄としての面子があるのだ。
「で、でも……この指輪だってお前にもらっちゃったし、いつも俺ばっか、悪すぎだろ……あ、そうだ。じゃあ俺たちの新しい家の費用は俺が出す! 稼ぎ的にそんなすげーのは無理かもしんないけど、今から貯めればなんとかーー」
居ても立ってもいられなくなった俺は、どんどん話を飛躍させ、いつのまにか弟に迫っていた。
すると奴の澄んだ蒼目が、とたんにフルフルと潤みだした。
「兄貴、頼む。あんまり愛らしいこと言わないで……俺倒れそうになるだろう……。でも駄目だ。二人の新居の費用も俺が出したい。もう心に決めてるから」
「は、はぁっ? なんだよそれ、勝手に決めんなよ! お前いつもそうやって一人で突っ走って…!」
「だって愛する人のために何でもしたいんだ、しょうがないだろう? 俺の性分なんだよ」
「俺だってお前のこと愛してんだよ、だいたい愛というのは二人で育むものだろ! こっちもお前にあるもの全部与えてやりたいと常日頃思ってッ」
つうか一体何の話をしているんだ。
そうだここ家じゃなくて旅先の船内だぞ、こんなにヒートアップして恥ずかしすぎるーー
我に返って振り向くと、担当のゼベインさんがやたら暖かな笑顔で佇んでいた。
「……あっ。すみません、つい興奮しちゃって、こんなアケスケに……お恥ずかしい。はは」
「いえいえ、お気になさらず。VIPルームですから。……しかし、やはり人の種族の方々は我々とは違い、純粋かつ細やかな感性を持っておられますな。なんとも微笑ましい痴話喧嘩というものを、見させて頂きましたよ」
おい何気に失礼じゃないかこの人。やっぱ魔族だからってナチュラルに上から目線なのか?
いや今のはやっぱやり過ぎたと、俺は内心反省した。
クレッドが俺の様子をうかがいながら、おずおずと手を繋いでくる。
恥ずかしさからの開き直りか、ただ観念しただけなのか、俺も奴の手を握り返し、気を取り直して部屋に向かう。
「ごめん兄貴。やっぱり、納得いかない?」
「ううん。俺の方こそごめん。ハネムーン早々恥ずかしい振る舞いしちゃって……ありがとう、クレッド。お前の気持ちは、ほんとに嬉しいんだ」
繋いだ手をぎゅっと握られる。
隣を見ると、奴はどこか赤らんだ顔をしていた。
「違うよ、俺がわがままだから。弟だけど、甘えてほしいなって思っちゃうんだ。……許してくれてありがとう、兄貴」
そんな奥ゆかしい感じで言われたら、俺は情けなくも兄として、こいつを可愛いとしか思えなくなる。
まぁいつものことだが。
「俺いつもお前に甘えちゃってるけどな。まぁいいや、家のことは俺に任せろよ。ハイ決まり」
「……それは、また今度決めよう。まだ少し、時間あるし」
甘い声でにこっと提案され、俺はまた呆気にとられてしまう。
こいつ……やっぱ頑固な奴だな。俺にも兄貴のプライドあるって、いつかちゃんと分からせてやんないと…。
でも今はしょうがない、なにも特別な旅行のときに突き詰める話題でもないだろう。
今回の旅は弟と同じように、目一杯楽しんで、二人の甘いひとときを満喫するんだ…!
そんな興奮状態で、すでに俺はいっぱいなのだから。
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