▼ 6
二日後、俺はまたフェリーで港町へ向かい、客の男と約束をしたホテルに行った。
シーガとのやり取りが、未だ尾を引いている。
俺は、どうしたいのか。
あいつとの出会いによって、今まで考えようとしてこなかった事が、ずっと突きつけられている気分だった。
「ザック、こっちだ」
高級ホテルの玄関を抜け、バーつきのラウンジに入る。そこにはすでにスーツ姿の男が待っていた。
足を組み、ゆったりと腰をかけるソファの背もたれに、俺も遠慮なく体を預ける。
「ほら、忘れ物だ。この間は悪かったな」
「ああ。別にいーよ。もう忘れたから」
鞄を受け取り、反対側の脇にしっかりと置いた。
真正面を向いたまま、離れたカウンターで酒を作るバーテンや、くつろぐ客達を眺める。
男が体をこちらに向けて、会話を試みようとしてきた。
「まだ帰らないだろう? この間は機嫌を損ねてしまったからな。今日はお前の望み通りに抱くつもりだ」
甘ったるく寒い言葉はいつものことだが、今日は特に反吐が出そうになる。
この男は年上の大人の男で、外見もよく金払いがいい。
だが俺にとっては、その事実以外何も思うところはなかった。自信過剰でたまに無理な要求をすることに目をつむれば、これからも利益になりえる上客のはずではあったが。
「なあ、あんたさ。もう俺が会うのやめるって言ったらどうする?」
ほぼ無感情で問いかける。実際はこいつの意思などどうでもいいが、この問いは自分に対しての確認のような意味をこめていた。
男は俺の期待を裏切らなかった。
「ああ、そうか……なるほどな。だからお前、様子がおかしかったんだな。俺よりも良い条件の男が見つかったか? どんな奴だ」
楽しそうな声音で問う反面、男の苛立ちのようなものがわずかに見え隠れするのが分かる。
奴の反応には自分でも驚きがない。
これが俺そのものの本質を表しているとも思う。
会話を続けようと考えたとき、予期せぬことが起きた。
一瞬にして冷静さが消え去る出来事だ。
目線を落としていた俺の視界に、見覚えのあるジーンズとスニーカーが映った。
恐る恐る顔を上げると、間隔のある真向かいの椅子に、短い黒髪の大柄な若者が腰を下ろしていた。
シーガだ。
奴は俺達をまっすぐ視界に入れ、堂々とした様子で見つめている。
……ああ、こいつやっぱり、ストーカー気質なんじゃないか?
片隅で考えるも、なぜここにいるのか、俺をつけてきたのか等と頭が混乱したのは確かで、背中には汗をかき始めていた。
「ーーなあ、会うのを止めるなんて言うな、お前が気に入ってるんだよ。そうだ、家を用意しよう。お前のことは全て面倒を見てやるから。これからは俺専用の愛人になってくれ、ザック」
好き勝手に話す男の不愉快極まりない台詞が耳に入るが、俺は固い表情で穴が開きそうなくらい見つめてくるシーガから、視線を逸らせなかった。
「馬鹿言うんじゃねえ。俺はあんたの世話になるつもりなんか毛頭ねえんだよ。やめてくれ」
吐き捨てるように言うと、シーガの瞳がぎろりと隣の男に向かった。
男は納得せず、まだご託を並べて俺を引き留めようとしてくる。そういえば体の相性はわりと良くても、こいつと話が通じたことはなかったな。
ぼんやり考えていると、男は身を寄せてきた。
人目もあるというのに、俺の肩を抱いて耳に口元を持ってくる。
「本気じゃないだろう? いつもの我儘なら、付き合ってやる。ほら、部屋に行こう。明日になれば、俺と別れようなんてもう思わないはずだ」
勘違いをしたような台詞に思わず笑いそうになったのだが、気づくと目の前に激怒した様子のシーガが立っていた。
「ザックから離れろよ」
奴は俺の膝に触れていた男の腕を掴み上げ、そう言い放った。
唖然とする俺と男だったが、やがて男が口を開く。
「なんだ? 誰だ君は、いきなりーー」
しかし俺を見て合点がいったように、にやりと口角を上げる。
「そういうことか、分かったぞ。お前がザックの相手か、随分若いのを連れてきたな。……俺達を間近で見ていたとは……そういうプレイだったのか?」
男は今度こそ心から愉快そうに笑っていた。
頭を抱えたくなった俺とは対照的に、シーガは初めて見せるような険しい表情で奴を見据えていた。
「ザックはもうあんたに会いたくないらしい。手を引いてくれ」
「はっはっは! 頼むから、これ以上笑わせるなよ、坊や」
完全に馬鹿にした体の男を、俺は制止した。
こういう世界の人間は、まだ若く純粋なシーガにとって刺激が強すぎる。そして、いい影響は何もない。
「悪いな、こいつに構わないでくれ。あと仕事の件は本当だ。あんたとはもう寝ねえ」
もう少しスマートに伝えたかったが、下世話なぐらいはっきり言わないと、この手の客には伝わらないのだ。
「もう行こう、ほら」
「待てよ、ザック。本当にこんな男の為に、俺達の関係を終わらせる気か?」
「ちげえよ。俺が決めたことだ」
シーガの腕を引っ張りその場から立ち去ろうとした。
しかし男が未練がましく文句を浴びせようとしてくる。
「おい、お前じゃ無理だ。ザックがどんな人間か知っているか。死ぬまで俺みたいな男が必要なんだ。はっきり言ってやるが、お前の手には負えないさ」
酷い言われように失笑と同時に頭痛が襲ってきたが、俺は無視するつもりだった。
「大丈夫だ。俺はザックがどんな人かよく分かっている。一生大切にするからあんたの心配には及ばないよ」
シーガが言い切り、男を見下ろす。俺の手を繋いで、握ってきた。
公共の場で人の目は気になったが、不思議と気持ちは落ち着いていた。
こいつこそ、俺の手に負えないだろ…そう思いながら、俺は客に向き直った。
「世話になったな。あんたとのセックス結構良かったけど……気持ちは無かったんだ」
率直に述べると、男は初めて瞳を人間らしく揺らした。
ああ、こんなことになるとは。
こんな生活が永遠に続くとは勿論思ってはなかったものの、俺もすんなり焼きが回ってしまった。
シーガという年下の男の懐に、入ってしまったのだ。
「くっそ、売り上げの二割はあいつだったんだぞ。もう後戻り出来ねえじゃねえかよ」
ホテルから出て、俺は開口一番悪態をついた。
さっきまでの恥ずかしい一部始終を忘れようとするが、隣を歩くシーガがそれを許さない。
「あと何人いるの?」
「は?」
ようやく俺は立ち止まる。
夜の繁華街。横断歩道は緑で、俺達以外の人々がたくさん通りすぎていく。
「心配だから俺も行きたいな。全員君から手を引いてもらうんだ」
シーガが眉間に皺を刻ませながら、悔しそうな声で吐き出した。
何を言い出すのかと思い、俺は呆れ混じりに奴の背中を叩く。
「ばーか、舐めんじゃねえ。何年一人でやって来たと思ってんだよ。後始末ぐらい自分で出来るわ」
「……えっ? じゃ、じゃあ……ザック……」
緊張した面持ちで問いただしたそうな奴に、俺は開き直って笑顔を見せた。
こんな顔は、普段金をもらっても誰にも見せたくないものだ。
「ああ、認めるよ。お前は馬鹿で、俺も馬鹿になった。たった数日でな。はっきり言ってお前のせいだ。……つうかな、毎月の小言が二倍に増えるって考えたら、もう面倒くさくなったんだよ」
ぶつぶつ愚痴をこぼしてるうちに、段々言い訳じみていく。
シーガはそんな俺を見て、動きを止めた。またガキのように顔を紅潮させて、自分の手で俺の頬をぴたりと覆った。
「……な、なにすんだよ」
奴は何も言わずに顔を傾け、俺にキスをした。
おいふざけんな。
いくら俺が貞操観念のない男だとしても、出先でこういうのは勘弁してくれと思う。
「ザック、好きだよ。君が好きだ」
「……ああ、はいはい。この前聞いたから」
「毎日言ってもいい?」
「無理だ。俺べたべたすんの嫌いだから」
夢見心地な顔の男に対し、辛辣な言葉を浴びせる。
だが満面の笑顔を見せるシーガは全く堪えてないようだった。
知らないうちに何年も想っていてくれた男は、この程度じゃ引かないのかもしれない。
……俺はもう少し、この変わった男と付き合っていくことになりそうだ。
prev / list / next