▼ 5
「君の家、記憶と変わらないな。懐かしい感じがする」
「ああ、そーだろ。あんまり帰ることねえから、殺風景だけどな」
大家の家から15分ほど歩いたところにある、古めかしいコンクリの平屋が俺の住居だ。
ぼろい扉を抜け、軋む床板を踏み居間へと奴を連れていく。
四角い木の机や三人がけのソファ、小さいテレビなど必要最低限のものしかないショボい自室だ。シーガの洗練された部屋を見たあとでは乾いた笑いが出る。
浮き足立つ様子で辺りを眺めるシーガをソファに座らせ、俺は向かいの椅子を引っ張ってどさっと腰を下ろした。
金を渡す前にはっきりさせねえとな。気は進まないが……
「お前、さっきの話はマジなのか。俺のためにわざわざ島に越してきたのかよ」
身を乗り出して真面目に尋ねると、奴も俺をまっすぐに見て思慮深く頷いた。
「うん。そうだよザック。いつか君にもう一度会って、自分の思いを伝えたいと思ってたんだ」
目をきらきらさせて夢の世界にいる若者に、俺は再び重い頭を支えられなくなる。
本当にこいつがあんときのガキなのか……立派な男に成長したのは良いことだが。
俺のせいで道を踏み外したなんて、不憫すぎて信じたくもない話だ。
仕事柄頭のおかしい客に接することは珍しくないが、そいつらとは違った方向に頭のネジが緩んでしまってるんじゃねえか。
「シーガ。いいか、はっきり言うけどな、やめておけ。俺なんて、お前に慕われるほど価値のある人間じゃない。まともじゃないんだ」
落ち着いて諭すことにした。あのばあさんじゃないが、今ならまだ間に合う気がする。
「仕事のことか?」
「ああ、知ってんのか。まあそれだけじゃないけどな。育ちも悪いし家族もいない。学もねえ。何にも持ってねえんだよ」
自分で言っていて密かに虚しくなる。他人なら構わないのに、こいつの前ではなぜか傷を負った感覚がする。
「俺と祖母がいる。君のこと大事に思ってる人が、少なくとも二人はいるよ」
目をじっと捕らえられ、断言された。
まただ。何も言えなくなる。
犬みたいな眼差しで見つめてきやがって。耳障りの良い言葉なんて、信用できないんだ。
それなのに。
なぜ俺は、こいつに抱かれた時のように、心が揺らいじまってるんだ。
「……昨日会ったばかりの奴に何が分かるんだよ」
「昨日だけじゃない、二回目だって」
「同じようなもんだろうが」
視線を床に落とし、頭を乱暴に掻いた。
シーガが俺に腕を伸ばす。肩に大きな手が触れられ、そっと撫でられた。
これは、憐れみなのか。そんなもんは、嫌いだ。
いらない。
頭の中で考えても、なぜかいつものように感情のまま口に出せないでいた。
「どうせお前だって俺に幻滅するぜ。それで離れてくよ、絶対」
くそ、弱気な言い方になっているのがダサい。
「離れないよ。君の近くにいたくて来たんだから」
シーガは即答した。
俺のそばに寄り、身をかがめて抱き締められる。
「なに…勝手なことしてんだよ」
「ごめんね。でも、我慢出来ないんだ」
またふわりとした温もりを感じた。
ただ誰かに抱き締められるなんて、何年ぶりのことだろう。
昨日会ったばかりの男に、どうして俺はここまで心を許してるんだ。
分かってるんだ。心が傾き始めている。
優しい奴なんて、いないと思ってるのに。俺を好きでいてくれる奴なんて……
迷いながら背中に腕を回しかけたとき、突然電話が鳴った。
俺達は顔を見合わせる。
だがすぐに事が分かった俺は、携帯を取り出し顔をしかめた。
「くそ、しつけー野郎だ」
「誰?」
「何でもねえ」
曇りがかった現実を思い出す。鞄を取り返さなきゃまずい。
俺は舌打ちをして電話に出た。違う場所に移動しようとすると、真剣な顔のシーガに、手を握られた。
なぜか直ぐにほどくことが出来ず、諦めて近くに腰を下ろした。
「ーーああ、別に怒ってねえから。しつけえな。……そうだよ、中身いじるんじゃねえぞ。……ああ、取りに行くって」
電話の相手は、昨日仕事をする予定だった金持ちの男だ。いつもは強引なくせに、調子よく甘い言葉で収めようとしてきやがる。
隣で静かに様子を伺っているシーガが気になったが、結局俺は奴と再び会う約束をとりつけた。
気乗りはしないが郵送で送ってもらうわけにもいかず、仕方がないと腹を決める。
「分かった。二日後にいつものホテルな。じゃあな」
投げやりに言い携帯を切ると、シーガが俺の顔を覗き込んできた。
「行くのか?」
「ああ。……仕事じゃねえよ、ただ会うだけだ」
なぜ俺は弁解してるんだ。勘違いをするな。
「俺も行っていいかな」
「良いわけねえだろう。何考えてんだよ」
横目で睨むが、奴は俺から目を逸らさずに、自分の膝をぐっと掴んでいた。
しばらくして沈黙を破ったのは、こいつだった。
「仕事のこと、聞いてもいい?」
質問が続き、いらっとくる。
「お前に関係ないだろ、何が言いたいんだよ」
「関係あるよ、君が好きなんだ。だからーー」
まっすぐな思いが容赦なく襲ってきて、俺は思わず拳を握りしめた。
「だからなんだよ? 辞めろっつうのか? 簡単に言うな、俺はこれだけで生きてきたんだ、お前には分かんねえよ」
仕舞おうと思っていた本音を結局吐き出し、同時に自己嫌悪に陥る。
こんな生活と向き合うだけでも本当はつらいんだと、認めたくなかった。
「君は、本当にそうしたいのか」
大家とおんなじような顔つきで聞いてくる。
図星をつかれた俺は、開き直って奴に正面から笑みを向けた。
「ああ、セックスが好きなんだ。ちょうどいいだろ、天職だよ。お前も感じただろ? 俺が男好きの淫乱だってよ」
もう止めてくれと叫びながら俺の本質を教えてやる。
けれどシーガはおかしかった。俺が思っている以上に。
「君は淫乱じゃない。可愛かった。すごく、可愛くて……離したくなくなったよ」
優しい声音で心のこもった言葉を告げてくる。
「何を言ってんだてめえ……」
低い声で牽制しても、広い肩が目の前に来て、また抱き締められた。
「セックスが好きなら俺としようよ。仕事が嫌だったら、俺のところに来て。一緒に家具を作らないか?」
背中まで熱が伝わりながら、半ば信じられない台詞を聞いていた。
本気で言っているみたいだと悟り、さらに体の力が抜けていく。
「馬鹿かよお前、俺にそんなもん作れるか……」
「作れるよ。俺も独学で初めて、教えてくれる人見つけて、勉強したんだ。だから、今度は俺が君に教える。大丈夫だよ」
俺はとうとう諦めに似た気持ちで、奴の背中をぐっと掴んだ。
「なんでお前は、シーガ……いちいち、自信あるように言えるんだ」
こんなに聞く耳を持たない、変な奴は見たことがない。俺の周りには誰もいなかった。
「ずっとそう考えてきたからだよ。いつか君に会って、今の自分を見てもらって、告白して、気持ちが通じ合えたらって……」
俺は腕の中で、奴の話を諦め混じりに聞いていた。
「おばあさんがいつも俺に君のこと話してたんだ。あいつは家に寄りつかないって。誰もいないし、家にいることに慣れてないって。それで俺、家が居心地のいいものになったら、君が帰ってくるんじゃないかなって思ったんだ。だから素敵な家を作りたいと思ったけど、まだ力もお金もなかったから、そうだ、小さい家具作りから始めようって考えた」
バカだ。こいつは一番の馬鹿だと思ってるのに、聞いてるうちに段々指の力まで抜けてきた。
「世間知らずだし、馬鹿みたいに聞こえるかもしれないけど……。でもね、もし君と知り合って、好きになってもらえたら、二人で暮らして、仕事をして、一番近くで生きていけたらなって……それが俺の夢で、ずっと目指してきたことなんだよ」
シーガはそこまで話し終わると、体を離して俺の目を見つめ、にこっと笑ったのだった。
「……想像力が逞しすぎだろ、お前。そんだけぶっ飛んだ人生計画立てて、叶わなかったらどうするつもりなんだよ」
小さい声で指摘すると、シーガの少し焦った表情が現れた。
「ええっと、だから今、叶えるために頑張ってる途中……かな。俺も、こんなたった一日で君に伝えることになるとは思ってなかったけど……今だと思ったから、もう満身創痍だよ」
照れたように笑う顔に、距離をまた詰められる。
振り向きたくても、後ろがなくなっていく。
逃げられない感じがするんだ。いや……こいつに逃げればいいのか?
そうなのか、もう……。
俺はこいつの閉じられた箱を開けた。
けれどこいつも俺の、固く鍵のかかっていたそれを開けたんだ。
結局、何が入っていたんだろう?
空っぽだったのかな。それとも、俺の場合、これから満たされていくのだろうか。
今まで触れたことのなかった、未知の何かによって。
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