▼ 44 間に立たされる男
騎士団宿舎の地下にある一室で、因縁の相手ナザレスを前に、俺達兄弟は向かい合っていた。弟が俺に向けてきた混乱の目を、正面から見つめ返す。もう、覚悟を決めるしかない。
「クレッド、俺はお前に、ずっと嘘をついていた。お前が魔女にかけられた呪いは、俺にも関係がある」
「何を言ってるんだ。……どういう事だ? 兄貴」
「……お前の呪いの半分は、俺のせいなんだ」
そう告げた時の弟の表情を、どう言い表せばいいだろう。俺には奴の思考が、感情が、完全に止まったかのように見えた。
俺の心臓は、確かにうるさく悲鳴を上げていた。だが何故か、どこか心も体も冷え切っていた。
終わりを予感したのだろうか? それとも絶望し過ぎて、おかしくなってしまったのだろうか。やっと弟と、寄り添うことが出来たと思ったのに。
「兄貴、意味が分からないんだが。半分って何だ? 詳しく説明してくれ」
「……え?」
弟は混乱を滲ませながらも、俺の予想に反して、あくまで冷静な口調で尋ねてきた。
「そこにいるナザレスは、魔女が飼っていた使役獣だったんだ。当時俺は、魔女との間にトラブルが起きて、仕返しに奴の使役獣を外に逃した後、飼育小屋を燃やしてやった。それで魔女の怒りを買って……」
そこまで話して、クレッドの顔色を遠慮がちにうかがった。だが弟はまだ、俺の意図することが完全には飲み込めていない様子だった。
「……つまり、兄貴がこの男を野に放したという事か?」
「い、いや。その時は確かに放したが、こいつが今の姿になったのはお前が魔女を殺してからで……」
焦りのせいか要領を得ない説明が嫌になるが、俺の言葉を聞いた弟は、途端に険しい顔つきになった。
きりきりと胸の痛みを感じながら、続く言葉を必死に探し出す。
「黙っていて悪かった。……お前の印、あるだろ? 本当は俺、ちゃんと読めたんだ。あれには俺達兄弟のことが記されていた。二人に呪いが降りかかるようにと、そう書かれていたんだ」
「二人? 魔女が俺にかけた呪いは、俺一人によるものだ。兄貴には関係ない」
感情を乗せない声で言い放たれ、俺は困惑した。関係ないって、どういう意味だ。印にも書いてあるのに。
「何言ってるんだ、クレッド。これは俺達二人に関する呪いだ。だからーー」
「俺が魔女を殺した。その死の間際に、呪いを受けた。それだけの話だ」
まるで口を挟むなとでも言うように断定的に述べられ、言葉を失う。
すると、俺達の会話を聞いていたナザレスの不快な笑い声が、また響いてきた。
「ははは、何だそれ。まだカッコつけてんのか? このクソ騎士は。お前の兄貴はずっとお前を騙してたんだぞ? お前の相手をしてたのも、単に弟に同情してたからに決まってんだろうが!」
耳をつんざくような男の怒声が、苛立ちを誘う。この野郎、なに分かった風な口を聞いてるんだ。
「兄貴、俺に同情して、俺のこと……受け入れてくれたのか?」
弟が俺の目を真っ直ぐ捕え、しかし急に消え入るような声で俺に問いかけてきた。自信が揺らいで見える弟の表情に、胸の奥がずきりと痛む。
「違う、そんなんじゃない……。確かに最初は、俺が魔女にした事が原因で、お前が呪いを受けたと思って……罪悪感を感じていた。でも今は……」
クレッドは俺の言葉の一つ一つから、俺の感情を汲み取ろうとするように、静かに聞いていた。
その顔を見ていると、ああ、こいつに対しては取り繕わないでいいのかもしれない。ただ自分の気持ちを伝えればいいのだと、そんなことを思った。
「……今は違う。罪悪感だけで今もこんな風に、お前と真正面から向き合うなんて出来ない。俺はお前が大事で、必要なんだ。それは、お前がーー」
お前が、兄弟だからか? 血の繋がった、大切な弟だからか?
それは真実だ。だって、変えることなんて出来ない。
けれど、確かに心の中に存在するこの気持ちが、兄弟だということの延長線上にあって、何が悪いんだ。
「お前が、何だ? 教えてくれ、兄貴」
弟が近くに迫ってきた。至近距離で見下ろされ、心臓がまた不規則に鼓動を鳴らしだす。でも何故か、恐れは湧いてこなかった。胸の高鳴りだけが、気持ちをさらに押し上げていく。
「お前は俺の弟だ、クレッド」
「ああ。そうだ」
「でも、俺は……それだけじゃなくて、お前のことが……」
「早く言ってくれ、兄貴」
弟の焦りが混じった声が俺に向けられる。その時、またもや弟の背に隠れたナザレスの咳払いが、わざとらしく聞こえてきた。
「なあ、ふざけんなよ。なんで俺があんたらの、くだらないイチャイチャの顛末を聞いてやらなきゃなんないんだ?」
「うるさい、邪魔をするな。獣が」
「てめえ、調子乗るなよ。セラウェは俺のもんだ! お前みたいに弟ってだけで可愛がられてる奴に、満足させられるはずがねえんだよ!」
「……ああ? なんだと、この野郎……ッ」
弟が珍しく荒々しい口調になっている。というか、何言い合いを始めてるんだ、こいつらは……今大事な話をしている最中じゃなかったのか。
呆然とその様子を眺めていると、急にクレッドが腰に携えた剣に手をかけようとするのが見えた。俺はとっさに奴の腕を強く掴む。
「おい、何する気だクレッド、落ち着け」
「……兄貴、俺は兄貴が魔女にやった事なんて、どうでもいいんだ。ただ、このクソみたいな獣を野放しにしたことだけは、責めてやりたい」
「えっ」
クレッドが俺の目を鋭く見据えてきた。俺が隠していた事が、どうでもいい?
そんな筈ないだろ。弟の意図することが頭に入ってこないんだが。
「クソとは何だてめえ。お前も似たようなもんだろ。事実を隠されてたっつうのに、それでも兄貴が好きか? 病的な思考しやがって」
「お前に俺の思考が理解出来てたまるかクソ野郎、ぶち殺すぞ!」
おいおい。弟の様子が完全におかしい。誰なんだこれは。言葉遣いが汚すぎる。
クレッドが興奮した様子で、ナザレスが寝かされた寝台へと近寄っていく。まずい、嫌な予感がする。
「はは。余裕ねえなぁ。また俺をぶっ刺すのか? あんたも顔に似合わず随分鬼畜なことするよな」
俺は混乱していたのか、思わず奴の背中に後ろから腕を回した。なだめる目的だったのだが、興奮状態にあったクレッドの動きがぴたっと止まり、ほっとする。
「え、なに……兄貴、どうしたんだ」
「お前こそどうしたんだよ、ちょっと落ち着け」
出来るだけ優しい声を心がけ、語りかけた。すると弟が俺の手を握り、ゆっくりと俺のほうに向き直った。
少し困ったような顔で前に立ち、いつもの透明な優しい蒼目で見つめてくる。
「……俺は、兄貴が思ってるよりもずっと、子供なんだ。心の中だって、兄貴に見せられないほど、ドロドロしている……」
え? どういう意味だ。何考えてんだお前。予想外の弟の言葉に戸惑いを隠せない。
「はは。何言ってんだよ。お前が子供っぽいことは、もう知ってるぞ? 気にするな」
「いや、兄貴が思ってるよりも、もっとだ」
「……ああ、そうなのか? 別に、いいんじゃないか」
若干の動揺を感じつつ、とりあえず本音を言ったのだが、突然クレッドは俺のことをガバッと抱き締めてきた。ぐっと力を込められ、すぐに呼吸が苦しくなってくる。
「じゃあ兄貴、俺はもう自分を抑えなくても、いいのか?」
「……はっ?」
「俺はこれでも、常に我慢してるんだ。もっと兄貴を、自分だけのものにしたいのに……」
「ちょ、ちょっと待て」
なんか雰囲気がおかしい。弟の言葉が鬼気迫るものになっている気がする。つうかお前、あれで我慢していたのか?
どういうわけか身の危険を感じ始めた俺は、奴の背中をぐいっと引っ張ろうとした。
「おいてめえら……俺を無視して喋ってんじゃねえ! クソ騎士、セラウェはお前だけのもんじゃねえぞ!」
後ろから小うるさいヤジが飛んでくる。弟の眉間がぴくりと動き、俺をそっと離したかと思うと再びナザレスのほうに向き直った。
奴が寝かされている寝台のそばに行き、冷たい横顔が悠然と見下ろす。
「いいや、兄貴は俺だけのものだ。誰にも渡す気はない。お前、何度言っても分からないようだな……どうしてやろうか?」
冷ややかな声色で話す弟に、どきりとする。ナザレスはふん、と嘲笑するような態度を取った。
「我儘な弟だなあ。じゃあこういうのはどうだ? 三人で楽しもうぜ。お前は全くタイプじゃねえが、セラウェがどうしてもって言うのなら、我慢してやるよ」
…………おい待てヤメロ。何気色の悪いこと言い始めてんだ。誰がいつそんな事、望んだんだ。
思考が固まり始めていると、無言になったクレッドが突然自らの剣を抜き出した。唖然と見つめる俺の前で、何のためらいもなく奴の寝台へと突き刺す。
「聞こえなかったか? お前が俺の兄貴に触れることはもう二度とない」
「っざけんな、そんな事が認められるか! 俺にも触らせろ!」
「駄目だ。俺が許さない。そんなにやりたきゃ一人でやってろクズが」
何下品なこと言ってんだ、俺の弟は。くだらない言い争いをして、間に立たされる俺の身にもなってくれないか。
俺はさっきまで、呪いのことがバレてしまい、もうこの世の終わりかというぐらいの精神状態だったというのに。
この弟にとっては、些細なことだったとでもいうのか? もう、自分でも理解が及ばなくなってきた。
どうでもいいが、もうそろそろ終わらせたい。俺は弟の腕を引っ張り、自分がナザレスの目の前に立った。
「お前いい加減にしろよ。何遍言っても分からねえのか」
「そんな冷たい顔するなよ、セラウェ。なんで俺じゃ駄目なんだ? この男と俺の何が違うんだよ!」
男の黒い目がわずかに揺れる。何が違うって、何もかも違うんだよ。お前のような直情型動物に言っても分からないだろうが。
「ナザレス。俺はこいつじゃないと嫌なんだよ。もっと言うと、俺の頭の中は弟のことでいっぱいなんだ。悪いけど、諦めてくれ」
「あ、兄貴……本当に?」
クレッドが驚きと喜びの目で俺を見ている。少しだけ奴の頭を撫でてやりたくもなったが、今はそれどころじゃない。この獣を本気で何とかしなければ。
「嫌だ! 俺はぜってえ諦めねえぞ!」
「お前なあ……」
なんだこの男は、ただの駄々っ子じゃねえか。あれだけ俺の体を好きにしようとしたくせに、俺に悪夢を植え付けたくせに……
再び行き場のない怒りが沸々と湧いてくるのを必死に堪える。
こいつのした事は絶対に許せない。しかしこの獣に対しても、同情の余地というものが一ミリ程度は存在していたのかもしれない。なんせ、もとは自分が引き起こした事態だからだ。
今更だが俺は、とんでもない愚か者なのだ。
俺が黙り込んでいると、クレッドが抜き出した剣を再び鞘にしまった。
「おいナザレス。実は俺は、お前を憐れんでいるんだ。安心しろよ、殺すのは止めた。俺がお前に、もっと良い飼い主を見つけてやる」
「……あ? なんだ、それ」
ナザレスが珍しく弟の言葉に怯んだ様子だった。だが俺も奴の言っている意味がよく分からない。
「クレッド、どういうことだ? 飼い主って……」
俺がおずおずと尋ねると、弟は不敵な笑みを浮かべた。なんだ? いつもの澄ました顔とは違う、何かを企んでいるような邪な顔つきだ。我が弟ながら、久々に背筋がぞっとしてきた。
「兄貴、言う事を聞かない獣には、調教してくれる主が必要なんだよ……」
「おいてめえ、何気持ちわりい事言ってんだ。俺を飼えるのはセラウェだけだ」
「そんな事はない。候補はたくさんいるかもしれないぞ? 教会には、お前の体に関心がある奴が多いんだ」
クレッドが明らかに鬼畜の面でナザレスを見下ろしている。弟の綺麗な顔に似合わぬ調教という言葉に、胸がざわつく。
「お、おいクレッド……お前大丈夫か? 何考えてんだ」
不穏な雰囲気に若干の不安が芽生え、弟に尋ねた。だが奴の捉えどころのない、不気味な笑みは消えなかった。
「大丈夫だ、兄貴は何も心配するな。……なあナザレス、新しい飼い主が見つかるまで、しばらくここでゆっくりしていけ。きっと楽しめると思うぞ」
「……やめろ、てめえ。何企んでやがる……早く俺を解放しろッ」
俺を狙い弄んでいた男が、今俺の弟によって、明らかに怯える目をして恐怖に震えている。
やめろだと? 俺が昨日何度も言った言葉じゃないか。お前はただ楽しんでいたくせに。
だが何故だろう。ざまあみろという気持ち以上に、弟の怪しげな笑みのほうが、ちょっと怖かった。
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