1.
「阿知谷(あちや)く〜ん」
地の底から響くような声がフロア中にこだまする。
半ばこの時を予想していた俺は、ひとつため息をついて腹を決めた。
再び自分の名前が呼ばれる前に、すぐさまctrl+sで作業中のエクセルを保存すると、ノートPCのディスプレイを伏せながら立ち上がる。
「なんですか、丹下社長」
窓を背に、唯一社員たちを見渡すことを許された社長席に君臨する筋骨逞しい体躯とは裏腹に、なんですかじゃないよお、とこれまた地の底から響く音で返される。
ウェーブ豊かなロマンスグレーのその下の表情は、大分しょんぼりしているようだ。口元に蓄えられた髭も、今や眉毛と同じ角度にまで下がってしまっている。
社長が視線を落とす机上には、身に覚えのある一式の書類が置かれていた。
「一体なんだね、これは?」
「今年度の決算報告ですけど」
「──私が言いたいことがわかるかね、阿知谷くん?」
「……さあ」
そろそろしらばっくれるのも限界だな、と額に汗が伝うのを感じながら思う。
「あのねえ、まず決算報告なんて大事なものを私の承認BOXに無断で放り込むやつがあるかい?しかも、君の出張届けの下に潜り込ませてだ」
「すみません、イケるかなと思って…」
イケないよ!と握りしめられた両のこぶしがドンと机を鳴らす。俺の決算報告がグシャと音を立てた。
「そして重要なのはその中身だ!一体どういうことかね!」
シワシワになった紙を広げて、社長が指し示した数字は今期の経常利益だった。エクセルで作成した表の隣に6ptくらいの字で小さく「※前年度比 20%減」と印字してある。入力したのは俺だ。
「今年度は記念すべき年なんだよ阿知谷君。我が株式会社TANGEが、アダルトグッズメーカーとして設立してから10周年を迎えたことは君も良く知っているだろう?」
「はい。存じ上げております」
丹下社長は机にひじを突き両手を組み合わせる。彫りの深い顔がその向こうに隠れ、影を落とした眼窩から表情は伺い知れない。
だがこれから何を言われるかはおおよその予想がつく。
「少子化を危惧した政府が5年前にアダルトコンテンツの大幅な規制緩和を行ってからというもの、我々の売り上げは上り調子だったんだよ、阿知谷くん」
「よく存じております」
「ましてや今年は記念すべき10周年だ。もちろん広告も大々的に打った。10周年にちなんだ限定品も生産した。営業部隊だって増員した。家電量販店にアダルトグッズコーナーが導入されたのは彼らの功績だ。そうだろう、阿知谷くん?」
「仰る通りでございます」
「そうだとも!!! 阿知谷くん!!!」
グシャグシャになった決算報告に、丹下社長の手のひらがバンと叩きつけられる。
フロア中の視線が一瞬こちらに集まるが、全員が見て見ぬふりを決め込んだ。助け舟はない。
「その努力の結果はこの数字に現れている!」
次に社長が指し示したのは売上高だ。隣には「前年度比 30%増」と会計ソフトにより自動入力されていることはもちろん俺も把握している。文字の大きさを3ptに下げたのは俺だ。
「なぜだ! なぜ売上が30%増えて最終的な利益が20%減るんだ! おかしいだろ阿知谷くん!」
「ご心労お察しいたします」
次の瞬間、フロア中に響き渡る俺の名前とともに、決算書は悲痛な音を立て引き裂かれたのだった。
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