一:四月十五日 金曜日
私の心配とは裏腹に、眼鏡の彼にスーパーで会った日を境に登場人物と出会うことはなかった。とは言っても、まだ五日しか経ってないのだけれど。
坂田さんと総悟くんにも会っていない。常連客とはいえ毎日来るわけではなく、不定期に突然何の前触れもなく来店するのだろう。坂田さんは、おそらくもう大丈夫。問題は総悟くんだ。
現在の時刻は8時55分。少し前に最後の一人が帰ってお客さんは誰もいない。これくらいの時間になると警戒している。基本的に私の賄いの時間に来ているらしいので、また一緒に肩を並べて食べるとなると、全然何考えてるのか表情から読み取れないので少し怖い。いざとなったら賄いの時間を遅らせて急いで食べようか。
そう思いながら四人掛けテーブルを布巾で拭いていると、入り口からガラガラ、と引き戸の開く音がした。この時間に扉が開くと言うことはつまり、そういうことだ。
「おはようございやーす」
「いらっしゃいませ」
蜂蜜色の髪の彼に六日ぶりに再会した。今日も制服ではなく私服姿。テーブルを拭きあげてから、前回同様にカウンター席に座った彼にお冷を持っていく。
「今日は賄い食ってねぇんですね」
「えぇ」
なので今日はお一人でごゆっくりどうぞ。コップを置きながらそう心の中で呟き、他の仕事に戻ろうと背を向ける。
「あ、ナマエちゃん!ちょうどいいや、今から食っちまいな!」
厨房から平五郎さんの大きな声。
「そうだね、今日は天ぷらだからいっぺんに出しちまったほうが楽だからねぇ」
お時さんも続いてそう言う。仕事の効率を理由にされると、断れない。しかし、お客さんもいるし…。そう思って総悟くんの方へ確認の意味を込めて目線を向ける。彼もこちらを向いていたのか目があった。
「横、座りなせぇ」
そう言って、総悟くんが座ったまま自分の真横の椅子を引いた。客の立場の人にまでそう言われるといよいよ断る理由が無くなってしまった。しかし前回は一つ空けて座ったのに、そこに座れと言うことなのか。これで一つ空けたら物凄く嫌な奴と思われるのだろうか。それは店員として自然な態度ではない、と観念して私は彼が引いた席に座った。
「今日は天ぷらですかぃ」
お時さんと平五郎さんは中で作業をしてるし、何より顔がこちらに向いている。確実に私に向けられたであろう質問に答えるために口を開く。
「野菜と鱚と卵の天ぷらです」
「うわ、最高。卵天めちゃくちゃ美味えよなー。他は?」
実の所、メニューは毎日入り口付近の黒板に書いてある。店に入ってすぐにカウンター席に向かってきたから、おそらく見ていないのだろう。
「高野豆腐、水菜のサラダ。あとはいつもよりお漬物のレパートリーが多いです」
「さすが、よくわかってまさぁ」
「揚げ物ですもんね。春野菜の浅漬けですよ」
「春野菜ってどんなでしたっけ」
「今日使ってるのは春キャベツと春にんじんとカブとアスパラです。あと春じゃないけどきゅうりも」
「アスパラの漬物ってあんま聞かねぇや」
「ですよね、でも絶対美味しいですよ」
「違いねぇ」
案外普通に会話ができていることに驚いている。実は、かなり気負っていたのだ。流石に前回は、受け身に徹しすぎて不自然なくらいに何も質問しなかった。もし次回があるならばこちらからも少しくらいは質問しよう、と思っていたのだ。しかし、向こうから切り出した話題で自然に会話が続く。まぁ食事は共通の話題になると言うことなのだろう。今から食べるものに対する純粋な期待がそのまま会話になる。
「あと、今日はなめこのお味噌汁ですよ」
「良いですねぃ、めっちゃ腹減ってきやす」
そう言いながら彼は体重をかけ机の上に腕組みするようにすると、その上に顎を乗せる。
「もうできるよー!」
私たちの会話を聞いていたお時さんが厨房から叫ぶ。
このままどうでもいい会話をしていれば、本当にただの店員でいられる。しかし、そういうわけにもいかない。"ボロが出る前に相手を知る"のであれば、少しはこちらから質問していくべきなのだ。しかし、何を聞けばいいのかわからない。もともと知っている人に対して、何も知らないふりして質問するのってこんなにも難しいことなのか。
一度思考を整理しようと、お冷のコップを持って一口飲んだ。
「そういや、ナマエちゃん。真選組のことって知ってやした?」
こちらが質問を考える前に、向こうから質問して来た。なんか結局前回同様に一問一答になりそう。コップを机の上に置いて、少しだけ横に顔を向ける。
「新聞とかテレビでチラッと見たことはありましたよ」
「俺が載った新聞とか見たことありやす?」
「載ったんですか?」
「えぇ、まぁ」
これは「俺個人を知っていたのか」という質問なのだろうか。純粋な疑問なのか、それとも私が何かしくじったのか。
「公園で助けてもらった時に、"あぁこの人があの真選組か、本物だ"って思ってました」
「あー、なるほどねぃ」
嘘は言っていない。本当に「本物だ」って思ってたのだから。ただし"登場人物"としてである。
この文脈なら、新聞やテレビで見た有名人に会って驚いた田舎者としか思えないはずだ。メディア露出のある真選組の彼にならば通用すると思って、念のため台詞を練っておいてよかった。彼も腑に落ちた、というような表情で相槌を打った気がする。何か疑われていたのかもしれないが、誤魔化せたのならもう良いや。
ここで僅かに抱いていた恐怖心の原因がわかった。きっと、"登場人物"としての彼ではなく"警察"の彼に無意識に怯えているのだ。何せ彼は勘のいい人だから、無理にこちらから質問するのはやめておいた方が良い。それこそボロが出そうだし、自然な会話の流れに身を任せるべきだ。
「出来たよー!」
お膳を両手に一つずつ持って運んできてくれたお時さんが、私たちの前に定食を置いた。
天ぷらから漂う仄かな油の香りが、まだ午前中にも関わらず食欲をそそる。
「揚げたての内に食っちまいな」
平五郎さんが厨房から声を掛けてきた。その言葉を皮切りに私たちは手を合わせて「いただきます」と言い、箸を持つ。それで掴むのはもちろん薄黄色の衣を纏った天ぷら。その中でも扇状に広げられた茄子を選ぶ。塩と天つゆ、両方用意してくれているがまずは塩につけて一口。サクッと音を立てて噛み切ると、中のとろっと柔らかいナスの食感がたまらない。
真横に座っているため、少しだけ目線をずらせば横の彼が何を一口目に選んだかすぐ見える。彼は鱚を選んだようだった。咀嚼し終えてごくりと飲み込むと、すぐに口を開く。
「鱚は天ぷらが一番美味ぇや」
「旬はまだだけどなぁ。夏にはもうちょい脂乗ってるから刺身とか焼きでも美味ぇよ」
「それも食いてぇな」
厨房の平五郎さんとそんな会話をする彼を、私は意外だと思った。旬の食べ物の話や、何かを美味しいと言って食べている姿は初めて見る。それは、私が漫画に出てくる彼しか見たことがなかったのだから当然の事だ。特に食に執着する様子は描かれておらず、タバスコやら下剤やら混ぜて食べ物を粗末にしたり、さらにはそれを人に食べさせていたのだから。もちろん、私の見ていないところで今現在もその悪行は働いているのだろう。しかし"読者"であった時とは違い、今の私がその姿を見る事は出来ない。
彼らが話している間に私は黙々と箸を進めていた。前回は時間をかけすぎたので出来るだけ早く食べ進める。今日は平五郎さんとの会話が途切れた後も質問を投げてくることは無く、「アスパラ美味えな」など定食の感想を少し挟む程度。
そして、残すところはご飯とお漬物少々、卵と大葉の天ぷらとなった。そういえば、卵天って食べた事ない。今日お客さんが食べてるのを何回も見たから何となく食べ方はわかっているのだが。
現に今、横に座る彼もご飯の上に卵と大葉を乗せ、天つゆを上からかけていた。私もそれに倣うように全てご飯に乗せた。
「おぉ、ちゃんと食い方わかってるじゃねぇですか」
横から感心したように言われた。
「今朝から何回も見てましたからね」
「こういう食い方は人前でしたくねぇ、みたいなタイプかと思いやした」
「郷に入っては郷に従うタイプですよ、私は」
ご飯に乗せた半熟の卵天を割って、とろけ出る黄身を見ながら「食べ方の話ではなく」と心の中で付け足した。
突然違う世界に来てしまった人間が、精神を崩壊させずに生き残るために心掛けるべき事はただ一つ。自分の価値観や常識も、感情すらも全て擲って、この世界の常識に従い順応していく事。変に足掻いたりせず、この世界の流れに身を任せる事。
本当は、そういう意味だ。
そうすれば、食べ物が美味しいと感じる。いま手に持っている卵天丼。それを一口頬張ると出汁の効いた天つゆと卵の黄身、衣の程よい油が絡み合いとても美味しい。ああ今日も生きてる、と思う。
その時の私は気づいていなかった。横に座る彼がこちらをじっと見ていることも。その日一度も本人に向けて名前を呼んでいないことも。
坂田さんと総悟くんにも会っていない。常連客とはいえ毎日来るわけではなく、不定期に突然何の前触れもなく来店するのだろう。坂田さんは、おそらくもう大丈夫。問題は総悟くんだ。
現在の時刻は8時55分。少し前に最後の一人が帰ってお客さんは誰もいない。これくらいの時間になると警戒している。基本的に私の賄いの時間に来ているらしいので、また一緒に肩を並べて食べるとなると、全然何考えてるのか表情から読み取れないので少し怖い。いざとなったら賄いの時間を遅らせて急いで食べようか。
そう思いながら四人掛けテーブルを布巾で拭いていると、入り口からガラガラ、と引き戸の開く音がした。この時間に扉が開くと言うことはつまり、そういうことだ。
「おはようございやーす」
「いらっしゃいませ」
蜂蜜色の髪の彼に六日ぶりに再会した。今日も制服ではなく私服姿。テーブルを拭きあげてから、前回同様にカウンター席に座った彼にお冷を持っていく。
「今日は賄い食ってねぇんですね」
「えぇ」
なので今日はお一人でごゆっくりどうぞ。コップを置きながらそう心の中で呟き、他の仕事に戻ろうと背を向ける。
「あ、ナマエちゃん!ちょうどいいや、今から食っちまいな!」
厨房から平五郎さんの大きな声。
「そうだね、今日は天ぷらだからいっぺんに出しちまったほうが楽だからねぇ」
お時さんも続いてそう言う。仕事の効率を理由にされると、断れない。しかし、お客さんもいるし…。そう思って総悟くんの方へ確認の意味を込めて目線を向ける。彼もこちらを向いていたのか目があった。
「横、座りなせぇ」
そう言って、総悟くんが座ったまま自分の真横の椅子を引いた。客の立場の人にまでそう言われるといよいよ断る理由が無くなってしまった。しかし前回は一つ空けて座ったのに、そこに座れと言うことなのか。これで一つ空けたら物凄く嫌な奴と思われるのだろうか。それは店員として自然な態度ではない、と観念して私は彼が引いた席に座った。
「今日は天ぷらですかぃ」
お時さんと平五郎さんは中で作業をしてるし、何より顔がこちらに向いている。確実に私に向けられたであろう質問に答えるために口を開く。
「野菜と鱚と卵の天ぷらです」
「うわ、最高。卵天めちゃくちゃ美味えよなー。他は?」
実の所、メニューは毎日入り口付近の黒板に書いてある。店に入ってすぐにカウンター席に向かってきたから、おそらく見ていないのだろう。
「高野豆腐、水菜のサラダ。あとはいつもよりお漬物のレパートリーが多いです」
「さすが、よくわかってまさぁ」
「揚げ物ですもんね。春野菜の浅漬けですよ」
「春野菜ってどんなでしたっけ」
「今日使ってるのは春キャベツと春にんじんとカブとアスパラです。あと春じゃないけどきゅうりも」
「アスパラの漬物ってあんま聞かねぇや」
「ですよね、でも絶対美味しいですよ」
「違いねぇ」
案外普通に会話ができていることに驚いている。実は、かなり気負っていたのだ。流石に前回は、受け身に徹しすぎて不自然なくらいに何も質問しなかった。もし次回があるならばこちらからも少しくらいは質問しよう、と思っていたのだ。しかし、向こうから切り出した話題で自然に会話が続く。まぁ食事は共通の話題になると言うことなのだろう。今から食べるものに対する純粋な期待がそのまま会話になる。
「あと、今日はなめこのお味噌汁ですよ」
「良いですねぃ、めっちゃ腹減ってきやす」
そう言いながら彼は体重をかけ机の上に腕組みするようにすると、その上に顎を乗せる。
「もうできるよー!」
私たちの会話を聞いていたお時さんが厨房から叫ぶ。
このままどうでもいい会話をしていれば、本当にただの店員でいられる。しかし、そういうわけにもいかない。"ボロが出る前に相手を知る"のであれば、少しはこちらから質問していくべきなのだ。しかし、何を聞けばいいのかわからない。もともと知っている人に対して、何も知らないふりして質問するのってこんなにも難しいことなのか。
一度思考を整理しようと、お冷のコップを持って一口飲んだ。
「そういや、ナマエちゃん。真選組のことって知ってやした?」
こちらが質問を考える前に、向こうから質問して来た。なんか結局前回同様に一問一答になりそう。コップを机の上に置いて、少しだけ横に顔を向ける。
「新聞とかテレビでチラッと見たことはありましたよ」
「俺が載った新聞とか見たことありやす?」
「載ったんですか?」
「えぇ、まぁ」
これは「俺個人を知っていたのか」という質問なのだろうか。純粋な疑問なのか、それとも私が何かしくじったのか。
「公園で助けてもらった時に、"あぁこの人があの真選組か、本物だ"って思ってました」
「あー、なるほどねぃ」
嘘は言っていない。本当に「本物だ」って思ってたのだから。ただし"登場人物"としてである。
この文脈なら、新聞やテレビで見た有名人に会って驚いた田舎者としか思えないはずだ。メディア露出のある真選組の彼にならば通用すると思って、念のため台詞を練っておいてよかった。彼も腑に落ちた、というような表情で相槌を打った気がする。何か疑われていたのかもしれないが、誤魔化せたのならもう良いや。
ここで僅かに抱いていた恐怖心の原因がわかった。きっと、"登場人物"としての彼ではなく"警察"の彼に無意識に怯えているのだ。何せ彼は勘のいい人だから、無理にこちらから質問するのはやめておいた方が良い。それこそボロが出そうだし、自然な会話の流れに身を任せるべきだ。
「出来たよー!」
お膳を両手に一つずつ持って運んできてくれたお時さんが、私たちの前に定食を置いた。
天ぷらから漂う仄かな油の香りが、まだ午前中にも関わらず食欲をそそる。
「揚げたての内に食っちまいな」
平五郎さんが厨房から声を掛けてきた。その言葉を皮切りに私たちは手を合わせて「いただきます」と言い、箸を持つ。それで掴むのはもちろん薄黄色の衣を纏った天ぷら。その中でも扇状に広げられた茄子を選ぶ。塩と天つゆ、両方用意してくれているがまずは塩につけて一口。サクッと音を立てて噛み切ると、中のとろっと柔らかいナスの食感がたまらない。
真横に座っているため、少しだけ目線をずらせば横の彼が何を一口目に選んだかすぐ見える。彼は鱚を選んだようだった。咀嚼し終えてごくりと飲み込むと、すぐに口を開く。
「鱚は天ぷらが一番美味ぇや」
「旬はまだだけどなぁ。夏にはもうちょい脂乗ってるから刺身とか焼きでも美味ぇよ」
「それも食いてぇな」
厨房の平五郎さんとそんな会話をする彼を、私は意外だと思った。旬の食べ物の話や、何かを美味しいと言って食べている姿は初めて見る。それは、私が漫画に出てくる彼しか見たことがなかったのだから当然の事だ。特に食に執着する様子は描かれておらず、タバスコやら下剤やら混ぜて食べ物を粗末にしたり、さらにはそれを人に食べさせていたのだから。もちろん、私の見ていないところで今現在もその悪行は働いているのだろう。しかし"読者"であった時とは違い、今の私がその姿を見る事は出来ない。
彼らが話している間に私は黙々と箸を進めていた。前回は時間をかけすぎたので出来るだけ早く食べ進める。今日は平五郎さんとの会話が途切れた後も質問を投げてくることは無く、「アスパラ美味えな」など定食の感想を少し挟む程度。
そして、残すところはご飯とお漬物少々、卵と大葉の天ぷらとなった。そういえば、卵天って食べた事ない。今日お客さんが食べてるのを何回も見たから何となく食べ方はわかっているのだが。
現に今、横に座る彼もご飯の上に卵と大葉を乗せ、天つゆを上からかけていた。私もそれに倣うように全てご飯に乗せた。
「おぉ、ちゃんと食い方わかってるじゃねぇですか」
横から感心したように言われた。
「今朝から何回も見てましたからね」
「こういう食い方は人前でしたくねぇ、みたいなタイプかと思いやした」
「郷に入っては郷に従うタイプですよ、私は」
ご飯に乗せた半熟の卵天を割って、とろけ出る黄身を見ながら「食べ方の話ではなく」と心の中で付け足した。
突然違う世界に来てしまった人間が、精神を崩壊させずに生き残るために心掛けるべき事はただ一つ。自分の価値観や常識も、感情すらも全て擲って、この世界の常識に従い順応していく事。変に足掻いたりせず、この世界の流れに身を任せる事。
本当は、そういう意味だ。
そうすれば、食べ物が美味しいと感じる。いま手に持っている卵天丼。それを一口頬張ると出汁の効いた天つゆと卵の黄身、衣の程よい油が絡み合いとても美味しい。ああ今日も生きてる、と思う。
その時の私は気づいていなかった。横に座る彼がこちらをじっと見ていることも。その日一度も本人に向けて名前を呼んでいないことも。