鏡花水月 | ナノ

媚眼秋波【中】

一:四月二十八日


ネオンの光る歩き慣れたかぶき町。千鳥足でふらつく酔っ払い、電柱下にまき散らされた吐瀉物とそれをまき散らす犯人、酔いに任せて喧嘩するような質の悪い飲み方をしている奴、ごみ袋を枕にして寝る奴、自動販売機に頭突っ込んでる奴……そういうのが出てくるには、まだまだ早い時間。そうだとしても、気を抜いてよそ見をしていると人にぶつかりそうなくらいの雑踏だ。そんな目抜き通りを、左右を視線ちらりちらり、足取りは重くとぼとぼ。そうやって歩く一人の女の寂しそうな背中を、つかず離れずの距離で追う。

その背中を見ていると、脳裏で茶房の店主夫妻が『心配だ』と連呼してくる。そもそも彼女を追おうと思ったのは、あの二人の気遣わしげな表情が思い浮かんでしまったから。それはあの人達がやかましい程に『心配だ』というニュアンスの事ばかり吹き込んで来たせいだ。彼女が雇われてから店を訪れた二回、話題はそんな内容ばかり。

まずは、一回目。それは道案内を頼まれた時。彼女が客に呼ばれて、会計をしにレジへ行っていた間の話だ。俺は彼女への“違和感”で困惑している時だった。澄ました顔をしながら頭の中でぐちゃぐちゃ考えている俺に、オヤジが声をかけてきた時の会話を思い出す………………。


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「いやぁ、また常連が増えちまうなぁ。男はみんな好きだろ?ああいう子」

澄ました顔をしながら頭の中でぐちゃぐちゃ考えていると、オヤジに声をかけられた。客に呼ばれて会計に行った彼女に聞こえないように、少し小声だった。

「……知らね」

その場しのぎでは急に出来ないであろう綺麗な立ち姿、物音を立てない丁寧な仕草、うるさくない落ち着いた口調。とってつけたようなものでない、自然で上品な色気を纏っている。確かに男ウケは良いだろう。

「ああいう子はさぁ、何かと面倒ごとに巻き込まれやすいだろう?それなのに、咄嗟に頼れる人がいないってのは心配だよ」
「何それ」
「あんまり給料は出せないけど良いのかって言ったら、構わないって」

オヤジの言葉から察するに、出稼ぎではない。いや、絶対そうだと思ってたけど。身嗜みからして、金に困ってるようになんて見えねえから。

「一人なんだと」
「…………」

出稼ぎではない……仕送りの必要のない独り身。咄嗟に頼れる人がいない、ということは江戸にも身寄りが無いということ。

「銀さん、ツケちゃらにしてやるからさぁ、この辺ぶらっと一周案内してきてくれないかい?」
「……お上りさんに街案内でもすれば良いわけ?」
「まぁそんなとこだが、気晴らしだよ気晴らし。あの子よぉ、先月末に田舎から江戸に来たばっかなんだと。それからすぐにウチで働き始めてから一週間、全く休もうともしねぇんだ。知り合いもいねぇみてぇだし、何か心配でよぉ」
「慣れるまで休みはいらないって言うんだけど、それじゃあいつまで経っても新しい街に馴染めないからさ。かといってあの子一人で行かせるのも不安でねぇ。銀さんが来たら頼もうと思ってたんだよ」

いつの間にか会話に参加したおばちゃん。いつものような元気で響く声ではなく小声で言われた。

「ふーん、別に良いけど何で俺?」
「誰でも良いってわけじゃないんだよ。金払えば何でもやるっていう胡散臭い男くらいがちょうど良いのさ」
「……胡散臭いって言ってるけど大丈夫なのそれ」
「まぁまぁ、用心棒も兼ねてるから。ちょいとかぶき町の方に連れてってやってくんな」

---

そんな会話があって、彼女を街に連れ出すことになったのだ。あの時は、ただのナンパ避けの意味合いだろうと思った。でも、それにしてはあまりにも『心配』がしつこいのだ。特にオヤジが。

二度目にそんな話をしたのは、その翌週。持ち帰りであんみつを買いに行った時のこと………………。


---


「今の銀さんの懐あったけぇよ?ほっかほかよ。ナマエちゃん触ってみ?」
「結構です」

そう言い捨てて厨房に入っていった彼女。語尾をそっと置くような柔らかい口調ではあるが、あまりに短く簡潔で冷ややかに感じる。やはりセクハラやら何やらはあしらい慣れている様子。

「銀さん」

彼女が厨房の奥に行くのを見計らって、オヤジが小声で声をかけてくる。

「この前はあんがとよ」
「あぁ、別に。……なぁ、あの子って人見知りしない感じ?」
「そうさなぁ、誰とでも愛想良く話してるよ」
「物怖じしないというか、気が強そうというか、何というか」
「それぁ、あんたが変なこと言うからだろ。別嬪さんは俺ら三枚目にはわからねえような苦労してんだよ」
「おい誰が三枚目だ、一緒にすんなクソオヤジ」
「ガードが堅いってのは自分を大事に出来てる証拠さね」

……オヤジの言いたいことは、何となくわかる。
この間、街案内に連れ出した時のこと。おばちゃんの『一人で行かせるのが不安』『用心棒』という言葉通り、彼女は野郎の目を引いた。少しガラの悪い野郎が増え出したところで、一応言われた通り用心棒の役割を果たすべく、一歩前を歩くのをやめて肩を並べたんだ。真横の彼女の顔を見下ろすと、そんな男達には全く目も暮れず、何とも澄ました顔をしていた。時折俺の腕が肩が触れても彼女はノーリアクション。毛程も気にしてないし、何も言ってくる気配もない。その様子からすると、おそらく置かれている状況に気付いているんだろうと思った。
それを自衛と言って良いのかはわからないが、俺を盾に使うのはあの場合正しい判断だし、自分の見てくれをよく弁えているが故のものだろう。自己紹介をした際に頑なに俺の名前を呼ぼうとしない、そういう自意識過剰な程にガードが堅い女。

「それに礼儀正しさの中にポロっと素が漏れちまう方が人間味があるだろ。表裏の無い子なんだよ、あんた人誑しなとこあるからなぁ」
「おーい無視すんな、どこがだ。どの辺が三枚目だ?」
「なぁ、銀さん」

突然声のトーンが下がり、神妙な顔をするオヤジ。

「表裏がないって言っても、女ってのは綺麗な笑顔で負の感情を隠しちまうだろ?強い女ってのはみんなそうだ」

親指で背中を指さす、その先には二人の女の背中があった。

「でもよぉ、たまに隠し切れねえほど寂しそうに笑うんだよ。見てるこっちが心配になるくらい」
「…………」
「銀さん、アンタ下心無しであの子に手ェ差し伸べられるか?」
「……何だぁ?そりゃ」
「タダより怖いものはねえって話だ。無償の善意は、時には悪意よりもタチが悪いものに成り代わる」
「……?」
「まだ江戸に来て日が浅い、顔見知り程度しかいねえんだ。どうしても人に助けを求めないといけない状況になった時、誰を当てにすれば良いのか。判断する材料が何も無えだろ?だから例えば……警察だとか、アンタみてえな金払ったら何でもやる万事屋だとか。そういう人間がちょうど良いんだよ」

(……警察?)

「別嬪は厄介ごとに巻き込まれやすい。それなのに咄嗟に頼れる人間がいないのは心配なんだ。でもなぁそれ以上に、誰にでも弱みを見せちまうってのも危ねえよ。ガードが堅いってのは、自分を大事に出来てる証拠。だが抱えた不安や寂しさがどっかで弾け飛んじまえば、一緒にガードもぶっ壊れる。人間なんてみんな、心細い時には何かに縋りたくなるだろう?その弱みにつけ込む奴が絶対にいる。そんなこと、絶対にあっちゃあいけねえんだよ」

年の功……いや、これは過去に何かあったのかもしれない。よく喋るし、えらく感情が篭ってる気がする。でもぶっちゃけ、何が言いたいのかイマイチわからない。

「ま、もし街で見かけたら声掛けてやってくんな。それだけで良いんだ、あんたと知り合いってだけでプラスに働くこともあるから」
「……見かけたらな」
「頼むよ、万事屋の旦那」


---


………………そんな会話をナマエちゃんに聞こえないところで交わした。過保護とも言えるくらいに心配の言葉を連呼するのだ。本当にしつこい程に。まだ雇ったばかりのバイトの彼女にここまで気をかける理由は何なのか。俺にはよくわからなかった。

(何であそこまで気に掛けてんだ?)

何歳か知らねえが、おそらくあの二人とは親子ほど年の差があるであろうナマエちゃん。そんな彼女の後をつけ始めて、まだ体感的には五分も経ってない。
……それにも関わらず嫌な予感が早速当たり、キャップを被った軽そうな男に絡まれ始めた。会話までは聞こえないが、男は横並びに歩きながらずっと一方的に話しかけている。それに対して彼女の横顔が見えることはなく、男の方を見向きもしていない様子だった。

(それでどこまで持つかねぇ)

そう思っている間に彼女は呆気なく手首を掴まれ、二人は人通りが多いにも関わらず足を止めた。立ち止まった二人を鬱陶しそうに通行人が避けて歩いていく。それを良い事に、道の真ん中を歩いていた二人は段々と端の方に寄っていく。

俺は先に道の端に寄り、二人が辿り着くであろう路地裏の一本手前の路地の入って壁に背中を預けて様子を伺う。

(アイツ、一体今どんな顔してんだろう)

「てゆーか、顔色悪くない?」

なんとかギリギリ声が聞こえる距離感。道の端、路地裏に入る直前のところまでナマエちゃんを押しやって来た男が、そう言ったのが聞こえてきた。

「大丈夫?チョー心配なんだけど」
「…………」

彼女の顔はよく見えないし、声も聞こえない。しかし、縮こまっている華奢な肩、引けた腰、丸めた背中からは明らかに拒絶しか感じられない。

「どうした?どっかで休もうよ」

そう言いながら男は掴んでいる彼女の手首を引いた。先に路地に入って見えなくなった男の手に、ずるずると引き摺られているナマエちゃん。他の通行人からも見えているはずなのに、知らぬ存ぜぬ。それどころか気付かずに通り過ぎていく奴も多数。抵抗するように暴れたり、悲鳴や怒号の一つでもあげれば異変に気付く者もいるかもしれない。しかし、彼女は……あまりにも静かすぎるのだ。

ふぅ、とため息を吐き、俺は彼女の方へ大股で歩き出した。あと三歩、二歩、…… 彼女も完全に路地裏に足を踏み入れたところで、残りの一歩。

「ナマエちゃ〜〜ん」
「げっ、万事屋……」

先に反応があったのは彼女の前を歩いてた男の方。握られている手首を見ると、彼女が震えるほどに強く自分の拳を握りしめているのが見えた。男の方に睨みを効かせると、息を呑み顔が強張った。背を向けていたナマエちゃんが振り返る直前に、俺は男を睨むのをやめた。

「え、誰」

マジで知らない。でも、一方的に知られててもおかしくない。どうせかぶき町を彷徨いてるチンピラか何かだろう。

「あー、俺はこれで……」

彼女から手を離すとバツの悪そうな顔をして路地の奥へ小走りで消え去って行った。ナマエちゃんは離された手を自分の胸元で握り、背中は丸まり、体が縮こまっている。

「あれ知り合い?」

俺の問いに、黙って弱々しく首を横に振った。そして、何やら手首を気持ち悪そうに摩る。

(さっき掴まれてたとこ、)

手を摩りながら、俺の顔を見上げてくる。必然的に上目遣いになる身長差。俺の背後のネオンの灯りが、彼女の長い睫毛の奥の憂いを帯びた瞳を妖しく光らせる。

(すげえ目ぇ潤んでる)

目を潤ませて上目遣いとかマジで凶器なんだけど……なんて、そんな軽口を叩いている場合では無さそうだった。

「てゆーか、マジで顔色悪いけど」

そう、本当にめちゃくちゃ顔が青白い。貧血で今にも倒れそうな、そういう血の気のない顔。

「どうした、体調悪いか?」
「……っ、はぁっ、…はっ、」

またフルフルと首を横に振った彼女、息も浅く苦しそう。……本当は、理由なんてわかりきっている。

(そんな怖かったのかよ)

さっきのナンパが怖くて、そのせいで血の気引いてんだ。血の気が引くほど、怖かったんだと思う。

(こりゃあ、……マジでぶっ倒れるか?)

この後の展開を考える前に、彼女はしゃがみこんだ。肘を折り曲げた膝の上につき、苦しそうに額を腕に押し付けて顔を隠す。口から浅い呼吸を繰り返す度に肩が上下に揺れる。

「おい、大丈夫か?」

そのままバランス崩して倒れんじゃねえかと思って、俺も彼女の真横にしゃがみこんだ。

「……はっ、はぁっ、」

本人はただしんどいだけなんだとわかってんだけど、浅く短い呼吸が、不謹慎ではあるがちょっとだけ艶かしい。
ずっと手首を摩っている彼女の指は、力が入っておらず触れると簡単に解けた。代わりにその手首を握り、前後どっちに倒れても大丈夫なように背中にも手を回した。彼女は空いている方の手に、相変わらず顔を項垂れるように押し付けている。

(……冷てぇ)

握った手首はめちゃくちゃ冷たいし、汗ばんで少ししっとりしてる。無意識に温めようと思って自分も摩ってやると、細っこい腕の癖に柔らかい女特有の肌。
店で再会してからの自分への態度を思い返す限り、男が怖いだとか、そんなんじゃないと思う。九兵衛みたいに触られるのがNGとかいうわけでもない。

「手ェ掴まれたから怖かった?それとも何か変なこと言われたか?」

そう声をかけると項垂れていた顔を上げ、流し目でこちらを見てくる。

「いえ、あの、……その……すみません、みっともない所をお見せしまって、……」

戦闘力高めの逞しい女とばっかり関わってるせいで感覚が麻痺しているが、普通の女からしたらやっぱ怖いよな。“知らねえ野郎”に手ェ掴まれて、挙げ句の果て路地裏に連れ込まれそうになったら。

『単純に怖かったんじゃないかしら』
『怖い?』
『あぁ、確かに銀さん木刀持ってるし、結構ガタイ良いですもんね。そんな人にぶつかって、さらに顔までまじまじと見られたら怖いですよ』

お妙達に言われた通り、俺とぶつかったあの時、彼女は確実に俺に対して恐怖心を抱いていたんだと思う。先程までの……顔面蒼白の、怯えの表情。それと全く同じものが、当時“知らねえ野郎”だった俺のせいで引き出されていたのだ。

(めちゃくちゃ普通の女だわ)

そんなにガチで怖がられてたってなるとちょっと複雑な心境……。だからこそ、隠そうとしたんだろう。お妙の言う通り、自分の評価を下げてでも。
何か、怖がらせてごめんね?……いや、まぁ俺何も悪いことしてねえんだけどね?あぁ、でも色々と疑っててごめんね?ホント、何か疑ってたのが申し訳なるわ。

ビビられていたのはあのぶつかった時だけで、今はそうではない。その証拠に、俺が手と背中を摩ってやってたらちょっと落ち着いてきたみたいだから。上下に揺れてた肩は静まり、息絶え絶えだった呼吸も整ってきた様子。そして、顔の血色も。一目で戻ったとわかるほど、先程は本当に酷いものだったから。

「体調悪かったわけではねぇの?もう顔色は良いみてえだけど」
「は、はい。あの、気が動転してしまって……一時的なもの、です、」

(……こんなおどおどした話し方だったっけ?)

いや、本人の言う通りまだ気が動転してるんだろう。しかし、口角を軽く上げて余裕さを感じさせるような彼女はどこにもいない。目の前の女はまるで別人の様だった。元々物静かな話し方だけど、こんなボソボソと歯切れの悪い、聞き取りにくい話し方じゃなかったはず。

「ナマエちゃん、かぶき町に何しに来たの」
「か、買い物に、」
「こんな時間に?」
「今日は、あの、休業の準備で……遅くなってしまって」
「あー、そうか。そういや明日から休みとか前から言ってたな」

(こいつ……こんなに、ちっこかったっけ?)

もとから華奢で細身ではあるが。店では背筋をピンと伸ばして堂々とした立ち姿なのに、目の前でしゃがみこんでいる彼女は物凄く小さく見えて。
先程まで項垂れる顔を支えていた彼女の片手は、俺に握られている側の手の袖に潜り込ませている。……わざわざそこまでして、自分自身の二の腕に触れたいのか。そんな姿はとても不安そうで、弱々しい。

「一人で帰れるか?家近いんだっけ?」
「えっと、」

パチパチ、と瞬きをするも、目は逸らさない。しゃがんでいても、立っている時と同様に自然と上目遣いになる。

『ガードが堅いってのは自分を大丈夫にできてる証拠』

オヤジの心配していた言葉の意味が、今わかった気がする。

(……これ、どこがガード堅いんだ?)

苦しそうに眉尻を下げて、悩ましげに潤んだ瞳でじっと見つめてくる。その表情は、とても扇情的なのだ。

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