鏡花水月 | ナノ

媚眼秋波【中】

二:四月二十八日

“いつまで触ってるんですか”
“もう大丈夫なんで離して下さい”

体調が回復してきたのであれば、そんな事を言って軽くあしらってくるような。そういう気の強さがある女だと思っていたのに。オヤジの言う『ガードがぶっ壊れる』とは、こういうことを言っていたのだろうか。
緊急事態だったとは言え、まだ知り合って日の浅い男と人目のない路地裏で二人。膝が触れそうなくらい至近距離。手を握らせて、体に触れさせたまま。

(……マジで、隙だらけなんだよなぁ)

目の前にある彼女の顔は、薄い涙の膜を張った瞳をゆらり、ゆらり。じっと見つめてくる表情は哀愁が漂う。そんな男の気を引くような表情は、簡単に心の隙に付け入ることが出来そう。

(人が人なら、手ェ出してんぞコレ) 

むしろその隙に自ら相手を引き込もうとしているようにすら見えてしまう。媚の滴る、哀願するような眼差し。そういう風に、勘違いする奴もいるだろう。

(……何でこの状況で見つめてくんの?)

まじでさぁ、そんな目で見てくんなって。お前さ、たぶん本来はそんな簡単に男に自分の肌を触らせて良いようなタイプの女じゃねえよ?あんなにさっきまで怖がってたじゃん。なんなら、俺のことも最初は怖がってたわけじゃん。……え?ぶつかったあの時の俺は赤の他人、知らない人間だから怖がってただけだって?……いや、え?何?ちょっと顔見知りになった途端こんなにパーソナルスペース解放されるのこいつ。そんな簡単に信用するのは、不用心というか何というか。人見知りしねえのは結構だが、もうちょっと警戒心を持ってもいいんじゃねぇの?

『下心無しであの子に手ェ差し伸べられるか?』

あのオヤジの言葉の恐ろしさよ。世の中にはそういう奴もいるという話。もし助けたの俺じゃなくて、そういう邪な考えのある男だった場合。……いや、昔の自分なら後先考えずこの場でちょっと手ェ出してるかもしれないし、今の自分でも泥酔して意識飛んでたらヤバかったかもしれない。

(たぶん、……持って帰ってるわ)

何もおかしな話ではないだろう。神楽と住んでる今はさすがにそんなことしないのだが、昔は、何年か前まではその場の流れに任せて“誰か”と帰る日だってあった。だからどっかの誰かに言われた『爛れた恋愛しかした事なさそう』という言葉を否定できなかったし、むしろ色恋だったと人に自信を持って話せるものが存在したかどうか……とはいえ、全ては一人ではなく相手ありきの事。その場に存在した“流されやすい女”によって成立していた話だ。

(……駄目だわコレ。置いてったら確実に変な奴に連れて行かれる)

「あー、それか一旦万事屋来るか?こっから近いし、前に言ってたし」

この台詞のチョイスはきっと正解ではない。そのことに気付いたのは、言い切った後だった。

「…………」

本当にやめてくんないそれ。何でこの状況下で黙って見つめて来んの?

(つーか、何で何も言わねえんだよ)

断れよ……ちゃんと、はっきりと、言葉にして。そんなんじゃ同意と思われるぞ。持って帰りたくもなるだろコレ、だって簡単についてきそうだもの。簡単に連れて行けそうだもの。
……そもそも、こんな薄汚え路地裏に座り込んでて良いような女じゃねえよお前。そんな安っぽい女じゃねえだろ?あんなハイカラな黒いワンピースを完璧に着こなせるような女だろ?ちょっとお高く留まってそうな、そういう女であるべきだろ?「何言ってるんですか」とか言って軽く男をあしらえるような、そういう強気な女であるべきなんじゃねえの?

『タダより怖いものはねえって話だ。無償の善意は、時には悪意よりもタチが悪いものに成り代わる』

善人の皮被った悪人が一番タチが悪いんだよ。いくらでも口が達者な奴がいるんだ。そうやって油断させて近付いて来る奴もいる。この見てくれだし、手ェ出したくなる気持ちもわからなくない。ワンピース姿の時とは違って今は着物の帯で見えねえけど、その下にはあのキュッと締まった細いくびれが隠れてる。その襟元の下には華奢で細い鎖骨が隠れてる。そう思うと無意識にぺろっと唇の端を舐めてしまうのは男の性だから仕方がねえんだよ。

『別嬪は厄介ごとに巻き込まれやすい』

目を引く容姿の女なんだ。もちろん容姿端麗だからという事もあるのだが、それだけじゃない。

(……触りたくなる)

何となく彼女の目を見てると不安になり、思わず手を取り引き寄せたくなる。今目の前に存在してるのか、透けてやしないか、消えやしないか。体に触れて、その輪郭を確かめたくなる。そんな憂いを含む儚げな、とてつもなく危うい……あぁ、この手の女は本当に厄介だ。こんなまどろっこしい言い方しなくて良いや。なぁに、簡単な話だ。すこぶるわかりやすくて頭の悪い言い方をするならば、そう……、

(そんな悲しげに潤んだ目で上目遣いされたら抱きしめてめっちゃチューしたくなるんだけどぉおお!!)

つまり、そういうこと。めちゃくちゃ色っぽい顔してんだよなぁマジで。顔から滲み出る、何とも言えないような、……マジで何なのこの色気。別に露出もしてないし、ボンキュッボンでも何でもないのに。無意識に触ってみたくなる、そんな透明感のある女。

『咄嗟に頼れる人間がいないのは心配なんだ。でもなぁそれ以上に、誰にでも弱みを見せちまうってのも危ねえよ』

あぁ、オヤジの言ってた意味がよくわかったわ。確かに、誰にでも弱み見せたらダメだってこの女。

「いやでも、今日神楽居ねえし不味いか」
「…………」

なぁ、何で何も言わねえの?ねぇ、本当に。……マジで簡単に連れて帰れそうなんだけど。というか、別に連れて帰らなくても、ここでどうにでも出来るからね?今だって、俺がちょっと顔傾けただけで簡単にチュー出来るからね?だからさっさとこんな路地裏出た方がいいんだって、わかってんのか?

『ガードが堅いってのは、自分を大事に出来てる証拠だ。でも抱えた不安や寂しさがどっかで弾け飛んじまえば、一緒にガードもぶっ壊れる』

田舎の箱入り娘というには少し無理があると思うくらいには男慣れしてる女。自分の見てくれを弁えた上でちょっと自意識過剰なくらいにガードの堅い、そういう身持ちの堅い淑女に見えてたのに。

『人間なんてみんな、心細い時には何かに縋りたくなるだろう?その弱みにつけ込む奴が絶対にいる。そんなこと、絶対にあっちゃあいけねえんだよ』

本当に、今の彼女は隙だらけなのだ。それはもう簡単に丸め込めてしまいそうな程。場の雰囲気に簡単に流されそうな程、本当に弱々しい。

「……あ、そうだ。結局、体調が悪いわけじゃねえんだな?」
「はい、すみません……ご迷惑をお掛けしてしまって」
「んじゃ、とりあえず着いてこい」

俺が手を引いてやると素直に立ち上がる。そんな、されるがままの彼女に対して不安を感じた。

(俺も年取ったなぁ……)

前に神楽に対して『知らない男について行くな』と口が酸っぱくなるほど言い聞かせた時のことを思い出しながら、俺は立ち上がった彼女の手を離した。

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