三分間(下) | ナノ

 久しぶりに昔の夢を見た。アレクセイは短い眠りの中で見た情景を思い返しながら、執務机に並べられた書類を一枚手に取った。オルニオンの騎士団本部にある彼の執務室は、基本的にザーフィアスにあるものと同じか、似たようなもので構成されている。積み上げられた未処理の書類までもが同じ高さを再現しているのは勘弁してもらいたいと、多忙を極める職務のために憔悴した脳の片隅で嘆く。
 他愛のないことを考えつつも、アレクセイの手は休まず動き続けていた。インクを付けたペンを書類の上へ滑らせれば、美しい文字たちが滑らかに綴られていく。脳内で整理した言葉を書き写していく間も、夢の残滓が常にどこかへ纏わりついていた。
 平民と貴族が等しく肩を並べる小隊。未来を信じる若き騎士たちの笑顔。そして、――ダミュロン・アトマイス。貴族でありながら『騎士』を目指す若者。
 すべては過去の話。今はすでに亡きもの達のことだ。
 最後の一文字を描き終えたアレクセイは出来上がった書類を重ね、次のものを手にする。すると、そのタイミングを見計らっていたかのように扉の方からノックの音が響いた。
 許可の声をかければ静かに扉が開き、一人の騎士が姿を現す。顔の左半分を隠す黒髪から覗く鮮やかな翡翠の瞳に、アレクセイの姿が映り込んでいる。こちらへ視線を向けているのに、不思議と見られているという気がしない。写真機や機械のセンサーに映り込んでいるような、どこまでも無機質な眼差しであった。
 アレクセイの右腕であり、平民にして隊長へと抜擢された人魔戦争の英雄。帝国騎士団隊長首席を務める騎士シュヴァーン・オルトレイン――それが現在の彼の名だ。今やかつての名前を呼ぶより、シュヴァーンと呼ぶ方がしっくりくるほど馴染んでしまった。
「何の用だ」
 問えば、しゃらりと金属の擦れる音を響かせて目の前の騎士が敬礼をとる。片翼を模った背中のマントがふわりと揺れるが、彼の凍り付いたような無表情はピクリとも動かない。引き結ばれていた唇がかすかに動き、落ち着きのある低音を奏でた。
「前回の訓練に関する報告に参りました」
「聞こう」
 簡潔な返答に、アレクセイもまた短く答える。聞く体制をとろうとした時、シュヴァーンのガラス玉のようだった瞳に、意志の色が乗った。それは冷たく鋭い――戦意。
 流麗かつ力強い動きで抜き放たれた剣が、禍々しい赤いレンズで目を覆い隠した侵入者の、袖元から伸びる短い銀の刃を受け止めていた。金属同士がぶつかり合う耳障りな音で、アレクセイはようやく今何が起きたのかを理解する。この程度の侵入者にも気が付かないとはよほど疲れていたらしい。この建物における警備の見直しをし、評議会と内通しているだろう反騎士団長派の隊長への監視を強めなければ。脳内で処理すべき項目を増やしながら、アレクセイは隊長首席たる男の後ろ姿へと声をかけた。
「シュヴァーン」
「はい」
 その一言で、彼はアレクセイの意図を理解したようだ。剣を交えた後、後方に飛びずさって様子をうかがっていた曲者へと再び緋色の刃を向ける。彼は、抑揚の少ない声音で呟くように宣言した。
「――始末します」
 死者が言葉を紡ぐとしたら、このような暖かみのないぞっとするほど冷えきった音を奏でるのだろうか。侵入者が、気圧されたように後退する。敵がひるんだその隙に、シュヴァーンは弾けるような音を響かせて前へ踏み込んでいた。推進力を剣に乗せて一閃する。鎌首をもたげ獲物に襲いかかる蛇のような不気味な動きで、侵入者がそれをいなし、受け流した。
 しかし、両手に一本づつ刃を仕込んでいるとはいえ、長剣と打ち合うにはそれはあまりにも細すぎた。奇襲を仕掛けることに長けた剣技は、一対一での戦いには全く向いていない。侵入者の劣勢は明らかだった。
 目的が達成できなければ逃げた方が得策のはず。ならばなぜ、この場にとどまり続けているのか。その答えに思い当たったアレクセイは、いかなる時でも腰に帯びている剣へと手を伸ばした。
「その必要はありません、閣下」
 淡々と事実を述べる声。直後、天井からアレクセイめがけて飛び降りざまに振るわれた凶刃を、分厚く鋭い風の刃が得物を持つ手ごと断ち切っていた。鮮やかな切り口から噴水のごとく鮮血が飛び散る。斬り飛ばされた二本の腕が痙攣を繰り返しながら地面に叩き付けられると同時に、それよりも重い物が地面へ崩れ落ちる音がした。
 見れば、いつの間にかアレクセイの方へ向き直っていたシュヴァーンの背後で、紅色をした大輪の花が咲いている。その正体はシュヴァーンが相手をしていた一人目の侵入者――その胸板へ刻みつけられた傷口から飛び散った血飛沫だ。仰向けに寝転がった侵入者だったはずのモノから、命の気配はすでに感じられない。
 どこまでも虚ろに澄み切った眼差しが、攻撃手段を失って呆ける二人目の侵入者に向けられる。押し殺した悲鳴が、侵入者の仮面の隙間から漏れ出た。赤いレンズ越しにシュヴァーンへ向けられるのは、得体のしれないものへ対する純然たる恐怖。自制心をなくし、恐れ慄く目標ほど仕留めやすいものはない。二人目の侵入者はシュヴァーンが音もなく突き出した剣によってあっけなく絶命した。
 それを無感動に眺めながら、アレクセイはただ考えることに没頭していた。一人目の命を絶ち、二人目の襲撃を阻んだ風の刃は、おそらく続けざまに放たれたものだろう。その技の名を、アレクセイはよく知っていた。だが、アレクセイには一閃が限度だ。続けざまに二回も風の刃を生じさせるほどの速さが彼にはない。
「……まだ、覚えていたのか」
 技の名は『風牙』。かつてダミュロン・アトマイスが、アレクセイと剣を交えた際に見よう見まねで会得した技だ。気が付けば口から漏れ出た言葉に、シュヴァーンと呼ばれている男が眉をひそめた。
「……何か?」
「いや」
 脳裏へ映し出される鮮やかな幻影を、アレクセイは頭を振ることで消し去った。感傷など、アレクセイが進むためには必要のないものだ。いくつもの屍を踏み越えてきたことを痛感しているがゆえに、アレクセイは後ろを振り返らない。――振り返れない。ただひたすら進むだけだ。足元に転がるのが、かつての部下だとしても。
「片づけますか」
「後で手配させる。報告を続けろ」
 シュヴァーンの進言に、しかしアレクセイは首を振った。亡骸を物として扱うことへ何の躊躇いも良心の呵責もないことに、自嘲しながら。
「はい」
 シュヴァーンは何の感慨もなく首肯し、懐から取り出した報告書を読み上げ始めた。二つの亡骸が無造作に転がり、それから染み出た鮮血が部屋を緋色に染める陰惨な光景の中で、眉一つ動かさずに。

 もう過去を思い返すのはやめよう。シュヴァーン・オルトレインを作り出したのは他でもない、アレクセイ自身だ。だから、彼が死を望んでも叶えてはやらない。勝手な真似は許さない。シュヴァーン・オルトレインを作り出した者として、彼と共に在る者として、責任は果たす。――例え己が夢に押し潰されて、狂気に呑まれてしまったとしても。
 アレクセイは強く決意し、シュヴァーンの感情の排された翡翠を真っ向から見つめ返した。


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