【第二夜 啄めよ約束、謳えよ欺瞞】 地が響く。魔物が現れたのだ。 わたしはただ体を小さくして恐怖に震えた。 ぐしゃりと祠の潰される音がした。見上げれば天井はなくなり、真っ黒な夜空が頭上に広がっていた。 気味の悪い真っ赤な満月を背景に、魔物はそこにいた。 四つの腕に二本の足。目玉は一つで三日月型の大きな口がにたりとわたしに笑いかけた。 伸ばされた手は八本指でその手がわたしの体を無造作に鷲掴かみ、体は宙へと持ち上げられた。 「うっわ、気持ちわるぅい!」 夜の空に声が響いた少年の声。 わたしを掴んだ魔物の腕は動きを止め、その一つ目はゆっくりとわたしから視線を外した、その瞬間だった。 夜空を二つに切り裂くような長い棒状のものが目の前に伸びてきてスパッと魔物の腕を切り落とした。 「きゃああああ!」 落下するわたしの体。 一緒に重力に従って落ちた腕がクッションになったため体を痛めることはなかったけれど、落ちるその時間は何もかもがスローモーションに流れた。 夜の黒に浮かび上がる人影は、何よりもキラキラと目を歪ませて、これ以上にない楽しげな声で叫んだ。 「ぶっ殺してあげるからっ!」 声の主は大きな刀を振りかざし一回二回と魔物の体を切り刻む。その間はわずか五分程度。 千年以上も私たちを苦しめてきたあの魔物は小さな少年の手によって跡形もなく切り刻まれてしまった。 その、バラバラの"魔物だった"辺々を汚物を見るような冷めた目で見下ろして未だ熱を孕み先端がひくひくと動いている体の一部をぐちゅりと踏み潰した少年は、あっけないじゃんとつまらなそうにこぼした。 そして、少年はわたしの方へと振り返った。 桃色の髪の毛が赤い月に照らされて毒々しく輝く。触れれば、あの桃色に飲み込まれてしまうのかもしれない。 「………へぇ、可愛いじゃん」 「はぇ?」 「お前、一緒に来いよ。僕と一緒に」 少年はわたしに向けて手を差し出した。月を背景にした少年の表情はわたしからはよく見えない。少年の線を縁取る月明かりはどうにも、少年の存在を絶対的神であるかのように錯覚させた。 差し出された手を握り返せば、恐怖で冷え切ったわたしの手よりもずっとずっと暖かく、触れた指先からじんわりと広がる熱にわたしは胸の奥に燻る感情を無視できずに。 そして少年は、腰の抜けていたわたしを立ち上がらせると、ゆっくりとその美しい顔を動かし、笑顔を向けた。帰ろう。それだけを口に名も知らぬ少年と手をつないだまま夜道を歩くのだった。 * 「コーデリア、無事だったか!」 「お父様っ!」 もう二度と戻ることはないと思った宮殿。 わたしは涙を流しながら生きることの喜びをかみしめた。目のはしに見える金の額縁に入った絵も、親しかった女官達の安堵した顔も 何もかもがわたしが生きている証拠として安心させてくれた。 お父様と抱擁を交わすなか、少年は面白くなさそうに舌打ちをして話を続ける。 「魔物倒しちゃったから僕はもう帰るけど、いいよね?」 「紅覇様、この度は本当にありがとうございました。我が娘も無事に生きて帰ることができて………なんとお礼をもうしたらよいか。 おい、そこの者、紅覇様と煌帝国へ貢物を用意しろ。この国にある一級品のものを即座に集めるのだ」 「そんなものいらないよ。煌に帰ればなんでもあるしぃ。それよりもさ、その娘、僕に頂戴よ」 「娘を?」 突然の指名にわたしは驚いて少年の、紅覇さまの顔をみた。 真っ白な肌に美しい髪の毛。瞳はガラスアイのように透き通っており、口元に浮かぶ微笑はこれまたさまになっている。 長いまつげに隠された宝物のような瞳をイタズラっぽく歪ませて、わたしを指差す紅覇さまの思考はその表情からは一欠片も読み取れなかった。 「だってそいつ生贄だったんでしょ?だったらいらないじゃん。僕がもらってあげるってんだからおとなしく渡しなよ」 「いや、しかし紅覇様、…」 「お前、名前は?」 「コーデリア、です」 「ふぅん。…さ、いくよコーデリア。それとも煌帝国にいくより死んだ方がマシだったりする?」 「いえ、わたしは、わたしは…」 困惑したお父様は、わたしと紅覇様をそれぞれ見比べていた。手は宙に浮き、わたしの答えを制そうとしているようにみえた。 でも、わたしの答えはすでに決まっていた。 なにを迷うことがあるだろうか。 わたしは生贄となりもはやこの国の人間ではないのだ。 「ぜひ紅覇さまとご一緒させてください。わたしが今こうして言葉を出せるのも、紅覇さまあってのこと。この命はすでに紅覇さまのものです」 伏せた目をあければ、目の前には驚いたように目を見開いた紅覇さまがいた。そして次の瞬間はなんとも慈愛に満ちた表情で何かをつぶやき、そっとわたしの頭の上に手を置いた。数度髪の流れに沿って動かされた手は、わたしの腕を取り、きつく握った。 「さあ、いくぞコーデリア。僕たちの煌帝国に帰るよ」 → |