へきるは本当は佐和碧という。あお。みどりのいろ。けれど面倒だからへきる、とひらがなで書いている。ひらがなでへきる。ひらがなのほうが自分らしい気がする。間の抜けてやんわりとした感じ。
名前を呼ばれることについてへきるは少し他人と感覚がずれているようで、誰かが喉を震わせて呼ばわるその音が全くの別人を呼んでいる気がする。だからか、へきるは他人に呼ばれてもなかなか気づけない。死んだ人間だけは別だけれども。
死んだ人間がへきるを呼ぶとき、それはとても優しく聞こえる。肉のない人間の呼び声はそよぐ風のようだ。悪意も隔意もなにもない。怖くない。へきるは死んだ人間が好きだ。うそをつかない。ひどいことをしない。ずっとそばにいてくれる。ひんやりとした彼らの身体はひどく安心を与えてくれる。
へきるは死体になりたかった。この体温と肉が邪魔だ。客たちがへきるの部屋にくると、気持ちの悪い息や声が耳に引っ掛かって泣きたくなった。ねっとりした体温がすこしずつへきるの身体を壊していくような錯覚。死んだ友達が宙に浮いて慰めの言葉をかけてくれるのが救いだった。
ふわりと浮いて空を飛ぶ彼らが気ままに見えてうらやましかった。そうすればここから抜け出せる。死んだ友達さえいればそれでよくて、いきたひとがみんな死んでしまえばお友だちになれるのに。みんな死んでくれないかな、とずっと思っていた。
いまは、すこしちがう。
色素の薄い、名前の通り青い目でじっと前をゆく人の背を追う。へきるの背は低い。彼の背丈は少しだけ大きくて、しかし全体的に細い骨格が彼を華奢に見せている。女らしくはない細さ。美しい青年の硬い線を持つ身体。いまはこちらに背を向けているその人がとても美しい顔をしていることをへきるは知っている。
桜さま。ひらひらと儚く散る美しい花の名を持つ人。へきるが初めて心のそこからそばにいたいと思えた唯一の生きた人間。
人の熱を帯びた肌に触れることを、何故かへきるは嫌だと思わなかった。むしろ好ましく感じていた。他の客たちには男も女も問わずひたすら嫌悪感ばかりを覚えていたのに。へきるの死んだ心の中の、かろうじて生きている部分が蠢いている。
美しくて聡明で客からも崇拝される彼が、どうして自分に身体を許すのか、その理由をへきるはしらない。へきるが望んだことだからもちろん嬉しいのだけど、彼はそうではないのだろう。優しいから、だろうか。へきるのようになにも持たない頭の悪い子どもを、どうして彼は許すのだろう。考えて、考えて、そして自分には到底わからないだろうと思った。へきるには分からない理由があるのだろう。
桜さま、とすがるように呼ぶと、少し背の高い彼が振り返る。美しい造形の白い顔を絹のような黒髪がさらりと撫でた。紅を差さずとも色づいた唇がゆるやかに開く。
何か用、へきる。
人間の生きた喉を通したはずの声がこんなに美しく響くから、やはりこのひとはひとではないのかもしれないなと思う。へきるがいままであった人間のように汚いところがなにもない。少なくともへきるはそう思っている。
「ぼく、さくらさまがだいすきです」
「そう」
彼は秀麗な眉をほんの少しも動かさずにそういったけれど、否定の言葉も言わなかった。それだけで、へきるはとてもしあわせだ。あんまりしあわせなので、顔が勝手にへにゃへにゃと緩む。
「さくらさま、さくらさま、」
「しつこいな。なに?」
「さくらさまはお名前もきれいですね」
儚くて薄い紅色で、散る様すらも美しい。きっと彼がその生命を終えるときもきれいなのだろうと思う。そのときは、ぜひそばにいてほしいものだ。他の死んだ友達のように。
へきるの称賛はしかし彼には耳慣れたものだったようで、ひどくつまらなそうな目を向けられただけだった。そんなことは常のことであるから、へきるは気にならない。
だから、桜が口を開いて告げた言葉にへきるは瞬くことになった。
「お前の名前もきれいだと思うけど。その髪と目に似合ってる」
ぽかんと口を開けること十秒とすこし。へきるの人より鈍い思考回路がやっとのこと回転して、なにをいわれたのか理解した。なまえが、きれいだと。
普段は色のない頬を赤く染めて、大きく息を吸った。うれしい。一番尊敬している一番大好きな一番きれいなひとが、へきるのことを褒めてくれた。なにも持たない自分のことを。表情筋が緩んでくしゃりと笑顔になる。
「ありがとうございます…!ぼく、うれしいです…!」
普段のほそぼそとした話し方など忘れなかのようないきなりの大声に、桜は小さく目を見開いた。そんな風にしていてもやはり彼はきれいなひとだ。
「ちょっと、声が大きい」
「すみません…でも、嬉しくて、」
声を圧し殺して、それでも褒めていただけた!と呟いては小さく跳ねた。年相応の少年のように、否、むしろずっと小さな子供のように大袈裟に喜ぶへきるを彼はあきれたように見つめて、やがてやれやれと溜め息をついたのだった。



*← →#

TOP - BACK///




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -