旅が終わったら一緒に住もう、と彼が言うのでエリアスはフォークを取り落としそうになった。
性質の悪い冗談かと思い目の前の隻眼を睨み付けたが、彼は笑うばかりだ。いかにも育ちの良さそうな笑みに苛立ちを覚える。
ミヒャエルという名のこの青年はエリアスより少し年上だったが、どこか子供じみたところがある。それが不快というわけではないが、絶対的な断絶を感じてしまうことがあった。たとえばこんな時に。
「冗談だろう。よりによって、この僕と」
「よりによってだなんて。君じゃないと言わないよ。こんなこと」
ミヒャエルが少し困ったように笑う。そこに嘘はないのだろう、と思いながらも素直に彼を信じることなどできない。彼が信用できないからではなく、エリアスが人を信じられないからだ。
エリアスの異様なまでに白い肌は、ところどころ硬く滑らかな醜い鱗に覆われていた。それはまるで、蛇のような。
ーー蛇と人の間に生まれた、禁忌の子。そして、その穢れた血を引く子供たち。エリアスの一族は長い間ずっと迫害されてきた。
それでもこうして血が残っているのは、一族の者が有用な力を持って生まれてくるからだ。
蛟を操る力。水竜を喚び、乞い願えば雨を降らせることも、人々を襲わせることもできた。友のようにとはいかないが、自分たちの声を彼らに届かせることはできた。その力こそが迫害の理由になったのかもしれないが、かといって力を使わなければ生きてはいけない。醜い自分達が生きるのにこの力は必要だった。力を使って人の役に立って、僅かばかりの対価を得る。そのようにして暮らしてきた。
祖先が本当に蛇と交わったのか。それが真実かどうかは知らない。探ろうとした床尾で過去のこと、今の人々には分からないだろう。エリアスの一族の者がいつしかそうした形質を持って産まれてくるようになったのは事実で、その事実だけが重要なのだ。蛇の鱗に、縦に長い瞳。獣人とも人間とも言いがたいその姿を、人々は醜いと罵る。当然だと思う。自分達が如何におぞましくて穢らわしくて醜いか、穢れているか。幼少の頃から何度も言われていれば自覚せざるを得なかった。
だから、旅の供にと偶々自分を選んだだけの人間の青年が、目の前の綺麗な肌をした青年がエリアスを当たり前のように友だと呼んだことに酷い違和感を覚えた。
だって、彼はこんなに綺麗な身体をしているのに。そう言われること自体は不快ではない。むしろ心地よくて、彼の旅に協力する気になったのだ。
だからといって、同棲する道理などあろうはずもない。旅が終われば二度と会うことなど無いと思っていたのだから。
「ミヒャエル、冗談だとしたら悪趣味すぎる」
「冗談なんて言わないよ」
「旅が終わったら別れる、そういう契約だったじゃないか。それとも、賃金を余計に払ってくれるのかい」
「そうじゃないよ。……僕はただ、この先も君といたいんだ」
まっすぐに見つめる顔に、背筋が凍り付く。
がたん、と音を立てて立ち上がるとミヒャエルは目を瞬かせる。沈めてきた感情が溢れだしそうで怖かった。ここにいてはいけない。決定的な何かを間違えてしまう予感がして、背にかけられる声を無視し乱雑にドアを閉めた。




肌の鱗を力ずくで剥ごうとしたことがある。幼い頃の話だ。
ぐ、と鱗と皮膚の間に爪を差し入れる。堅い鱗と柔らかな膚が触れあう境目がちくりと痛んだ。一つ息を吐いて、鱗を摘まんだ指先に力をいれる。肉を抉るような痛み。
否、実際に肉をえぐっているようなものだ。鱗が離れたそこは赤い肉の色を露呈している。空気が触れるだけでじくじくとした痛みがある。更に力を込めるとおぞましい音が耳元に響いた。噛み締めた歯の間から息が漏れた。
剥いだ鱗が片手で数えられる数を越えた時、気づいた親が悲鳴をあげてエリアスを抱き留めた。
小さなエリアスはそれでも、血の滴るそこを人間の柔らかな色をした皮膚が塞いでくれることを待った。本当の蛇のように傷口が一生残るのかも知れないが、それでも人間に蛇の鱗が生えているような状態よりはましだと思った。当たり前の人間の子供のような肌の色をしていれば石を投げられることも通りすがりに暴言を吐かれることもなくなるのだろう、と。
数日を置いて生えてきた鱗は、幼い拙い幻想をいともたやすく打ち砕いた。人間になろうと精一杯小さな頭を巡らせたその行為は、痛みと親の涙しか生まなかった。愚かなことをしたと今では思っている。ごめんなさいと泣く親が可哀想で、まともに顔を見ることができなかった。親不孝な子供だった。
鱗を剥がしてみたところで人間にはなれない。そんなことはもうわかっている。この呪いは自分が思っていたよりずっとずっと根深い。
人間と親しくなろうだなんて夢はとうに捨てたはずだったのに、なぜこんなにも心が乱れているのだろう。
控えめなノックの音に軽く肩を震わせ、ドアの方角を睨んだ。再度響く音に諦めの色を浮かべ、いいよ、とだけ答える。彼を拒み続けることもできたかもしれないが、二人きりの旅なのだ。自分一人がいつまでも拗ねているわけにはいかない。彼は雇い主で、自分は雇われの身なのだ。
静かにドアが開いた。殺風景な、家具のない部屋の簡素なベッドに腰掛けたエリアスをミヒャエルが困ったような笑みを浮かべながら見下ろす。慈しみと困惑と。様々な感情が混ざりあったその瞳に侮蔑や嫌悪があったなら、彼を嫌いになれたのに。
「さっきの話なら、」
「僕は本気だよ、エリー」
遮るように言われ、反駮を口の中で飲み込む。戸惑うエリアスに優しく優しく彼は笑いかけて、手を伸ばして頬に触れてきた。鱗の生えた堅い肌を、ミヒャエルは壊れ物に触れるような所作で撫でる。
「うん。やっぱり、エリーはきれいだよ」
笑顔で言う彼の方こそきれいだ。傷一つない白い肌に緑の澄んだ瞳。優しげな整った顔をした彼を綺麗だと思う人は何人もいるだろうに、どうしてよりによって自分なのだろう。
「本当にそう思うのなら、君は蛇と添い遂げた方がいい。僕の祖先がそうしたように」
冷淡な口調の、その語尾が僅か震えた。彼の心臓を刺すつもりだった言葉はそのまま反転してエリアスを責めた。
ミヒャエルは少し眉を寄せてエリアスに身を寄せる。シーツを握った手に力が籠って皺が寄る。顔を背けるエリアスの頬を暖かな手が撫でる。
「エリー、僕は君といたいんだ。他の人じゃ駄目なんだよ。君だから、そばにいたい」
「…なにを」
彼のそばにいるのは、ミヒャエルの戦いにエリアスの力が必要だったからだ。そして、もうすぐその役目もなくなる。それでいいのだ。忌み嫌われる種族の自分と、誰にでも好かれるだろう人間の彼が共にいるなんて赦されない。
喩え神が許しても、ミヒャエルの周りの人間は許さないだろう。蛇の身体をした、それも男とだなんて。ーー子供ではないのだ。彼の言葉の意味くらいわかっている。
だから、殊更露悪的にならざるを得なかった。
「……見世物にでもするつもりかい。のこのこ君について行って利用されるだなんてごめんだよ」
「そんなつもりはないよ」
「ああ、それとも鱗を剥がして売る?蛇の群れに突き落とす?そんなに良い値にはならないと思うけど。蛇の鱗は金運のお守りになるだなんて言う連中もいるけれど、効き目が本当にあるんだろうか。僕で試してみる?逆に不幸になるのかもしれないけれど」
「エリー、」
苦しげな声が聞こえて目を上げる。ひどく傷ついた色をしたその目に、間違えたと思った。受けた傷をそのまま彼に与えるような真似をして。上手く嫌われることすらできない。だって、今まで何もしなくても嫌ってくれたのに。
卑屈で醜くて、ろくでもない。こんな人間のなり損ないの、どこが良いと言うのだろう。憐憫以外の理由が何かあると言うのだろうか。エリアスは、自分が嫌いで仕方がない。
「……嘘だって、言えばいいんだよ。冗談なんだって。君の今考えてることは全部、……全部間違いなんだよ」
期待して裏切られた時のことを思うと身体が震えてしまいそうな気がする。彼が優しすぎるから、突き放された時を考えると怖くてしかたがない。
押し黙るエリアスの身体を柔らかな、暖かな熱が包み込む。心臓がどくんと跳ねた。
頬と体に伝わる、柔らかで暖かな熱。背中を撫でる感触に、彼に抱き締められているのだと気づく。
「ミヒャエル、」
「好きだよ」
君が好きだ、と耳元で囁く声に体から力が失せた。
目眩がしそうだ。こんなことは絶対的に間違っている。男で蛇の身体で貧しい身の上の、醜い身体をした自分を選んでしまったら、彼もまた迫害されてしまうかもしれない。彼を本当に思うのならば突き放さなければならないのに、身体に力が入らなかった。身を震わすような多幸感。
ミヒャエルの体は暖かい。彼は優しくて柔らかくてきらびやかで、地を這う蛇には眩しすぎる。
彼に触れられた部分が熱いのは、きっと彼の体温に火傷をしたせいだ。このままでは焼け焦げてしまう。勘違いを、してしまいそうになる。一刻も早く離れなければならないのに、鳴り響く鼓動が邪魔をして動くこともできない。
「愛してる」
掠れた喉で、うそだ、と言えば抱き締める力が増して泣きたくなった。彼を不幸にする確信があるくせに、そばにいたいと願ってしまう自分の浅ましさに吐き気がする。
いつか彼は自分を恨むだろうか。他の人間のように酷いことをするだろうか。彼に否定されるのが恐ろしくてたまらない。嫌われることには慣れていたはずなのに。
いっそ彼の熱で焼け死ぬことができれば、傷付かずに済むだろうか。




あなたの熱がわたしを焦がす



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