あの男が来るのはいつも夜半を過ぎた頃だ。他の家族が寝静まってから気まぐれに部屋を訪れる。
昔は、本当に幼い頃は、ノックの音や足音が恐ろしくて眠ることすらできなかった。ドアを必死で閉めていた夜もある。抵抗する方が面倒だと気づいてからは無駄な抵抗の一切をやめた。どうにも出来ないのなら、早く終わらせてしまった方がマシだった。
静かにドアを開けて無言で入ってきた男は、――叔父は、確か今年で40になるのだったか。鬼籍に入った父の弟である彼は、何年も前に父の年齢を越していた。整髪剤で固めたくすんだ金髪と、眼鏡の奥の冷えた緑の瞳。全体に知的な雰囲気で剃刀のような印象があった。彼の顔立ちは記憶の中にある父と良く似ている。父の方が優しくて好きだったけれども。
――比べるのも失礼だ。父はもっと高尚な人物だった。こんな穢らわしい真似をするような人間ではない。血の繋がりを思うと、ただでさえ罪深い関係がより一層厭わしく思えた。
ぎしりと二人分の体重でベッドのスプリングが軋んだ。耳慣れたこの音が本当に嫌いだ。ざわざわと身を這うような嫌悪感を押し殺してぎゅっと唇を噛む。大きな手が体に触れる感触に寒気がした。吐息がかかる不快な感触。見上げた顔には表情も無く、何を考えているのかも分からない。
こうして部屋に訪れる間、彼はいつも何一つ言わなかったし、ほとんど表情も変えなかった。それを良いことに意識を泥濘に沈める。精神を殺す。
透明な薄い膜を通して世界を見つめる感覚。鈍い痛みも、唇から零れる高い声も、身を蝕む感覚もすべて意識から追いやる。そうする方法を覚えた。何も考えないのが一番楽だ。
かつては泣いて叫んだこともあるけれど、時が経つにつれて彼の行為に感情を動かすのに倦んだ。所詮彼にとって自分は人形に過ぎない。母の似姿をした都合の良い人形だ。そんな風に扱われて、何かを感じる方が莫迦なのだ。怒りも悲しみもないもののように押し殺して、膜の内側から見つめている。――そうして、ちっぽけな矜持を何とか保っているのだ。この部屋で行われるすべてを他人事のように思うことができたなら、恥辱にも耐えることができるから。
「…っあ、」
脊髄を走る大きな刺激で意識が浮上した。淫猥な水の音が鼓膜を引っかく。枯れた喉が意味の無い声を上げた。体がしなって、目の前がちかちかと白く点滅した。ごう、と血流が流れる音を聞く。ふわりと頭の芯が溶けて思考がばらけた。奇妙な浮遊感。
少しの時をおいて、割れ鐘のように激しくなった脈動が徐々に静まっていく。詰めていた息を吐いて、意識をまた闇に沈めてゆく。ゆっくりと溺死するイメージ。泥水の中に沈んでゆく。滲んだ視界の中、目の前の男の整えられた髪が一房落ちて、つうと汗が伝う。頬が濡れた。
やがて互いの体が離れて、意識がクリアになっていく。自分の身を整える男は何も言わない。禁欲的なスーツの灰。僅かに皺になったワイシャツの鈕がゆっくりと止められていく。何事も無かったかのように、彼一人だけが正常に戻る。
既に夜は更けて、物音一つ聞こえない。エリアスの乱れた呼吸と脈動だけが聞こえていた。酸素が足りない。疲弊しきった体をベッドに深く沈めて眼を閉じた。酷く眠い。鈍い頭痛がしていたが、薬を飲む気にもなれなかった。このまま何も考えずに眠ってしまいたい。
ふと男の腕が伸びて、かさついた指の腹が火傷の痕をなぞった。薄く眼を開いて様子を眺める。彼はいつも自分を手酷く扱うくせに、この場所には優しく触れた。悼むような、縋るような触れ方だ。緑の酷薄そうな瞳が僅かに揺れていた。
その視線の意味に気づいたのはいつだったろう。最近のことのようにも思えたし、とても昔のことのようにも思える。一生消えない傷痕。大火で死んだ母。エリアスと良く似た面差しの美しい女性。つまるところ自分は身代わりに過ぎない。直接そう言われた事はなかったが、何年か前に何となく感づいた。滑稽だ、とまずそう思った。
彼女は父と共に死んで既に骨になり果てたというのに、今更その残滓に縋りついてどうなると言うのだろう。自分を通して母を見つめるこの男が滑稽で哀れだ。何をしてみたところで、所詮死んでしまった彼女には届きはしないのに。
(…愚かなひとだ)
死者は生き返らない。どれだけ名を呼ぼうと声を涸らして叫ぼうとも側に来てくれないし、助けてもくれない。それをエリアスに教えたのは彼だというのに、彼自身が理解していないなどとは酷くおかしな話ではないか。
――死んだ両親が助けてくれる、などと云う幼く愚鈍な夢想はとうの昔に捨てた。期待するだけ無駄なのだ。誰も救ってくれはしない。この屋敷の人間だって、既に何人かは気づいている筈だ。気づかなかったとは言わせない。必死で隠してはいるけれど、使用人たちだって馬鹿ではないのだ。けれど未だにこの悪趣味な夜は続いている。七年もの間。
期待するのはもうやめた。諦めて人形になるのが最も楽なのだろう。人々は同情するような憐れむような視線だけを向けて素通りしていくだけなのだから。
(さむい、)
酷く寒い。体は未だ熱を帯びていくのに、心は冷えて凍り付いていく。凍死してしまうような気がする。行為にはとっくに慣れたはずだ。今更心を動かされたりしないと思っていたのに、何故こんなにも寒いのだろう。
助けを求めたい気がしたけれど、名を呼ぶ相手などどこにもいない。誰もエリアスを見てはいないのだ、夜毎自分を抱く男でさえ。彼を好いてなどいないはずなのに酷く空しくて、寂しかった。
涙が一筋零れて眦で凍り付いた。拭い去られることのなかった滴はじわりとシーツに染みていった。




泥濘で溺死



*← →#

TOP - BACK




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -