その日は雨が降っていて、遠くに見えたその人の姿は、昼間だというのに暗い影を落としていた。
まっすぐにこちらに向かってくるその人を、私はただ黙って見ていた。
「はじめまして。貴方が海帝様の側近の方ですね?」
まだ成年にも至っていない彼女が、砂浜にぽつりと立っていた私に話しかけた。
「何故、そう思ったのかしら?」
少し、挑むような調子で言った。相手が歳下であろうと、敵であれば容赦はしない。
「そうですね…貴方の身につけているものが濡れていないからでしょうか。海の底にある帝室と、この浜とを往復する貴方は、いちいち服を濡らしていてはどうしようもないですもの」
彼女にそう言われ、私は思わず自分のマントに触れた。この大雨の中でも、私の服はおろか、体すら滴に濡らされることはない。足元の砂もこびりつくことはなく、私はそこに、平然と立っていた。
「あら…ここら辺に住む人々は、皆そうなのだけれど…『水』能力に長けている者は、ね」
「勿論、それ以外にもありますよ。例えば、貴方の後ろから海へと繋がる、砂の跡。これはある人から聞いた話ですが…」
彼女の言葉を聞いていく内に、私の表情が僅かに、しかし段々とこわばっていくのが自分でもわかった。
「もう、いいわ。貴方の目的は分かっている…海帝様の持つ鍵。そうでしょう?」
海帝様は言っていた。近いうちに、「刺客」が来るだろうと。お前の正体を見抜いた者は、きっとそれに違いないと。
まだ、雨は私を避けて、砂浜と彼女に降り注ぐ。
「…ついて来なさい。海帝様も、貴方のことを待っていたわ」
そう言って、私は海に浸かろうとした。相変わらず、濡れもせず、触れることも出来なかったけど。
彼女突然、翼を背から展開した。それで泳ぐつもりなのだろうか。
「ちょっと、お恥ずかしい話なんですけど…私、翼がないと泳げないんですよね」
彼女は照れくさそうにはにかんだ。私はため息をついただけで、どんどん海の底を歩き始めた。
 ○
 ゚
 .
帝室は、常に空気が確保されていて、彼女のような者でも、そこに行けさえすれば困ることはない。しかし、翼無しでは泳げない、と言っていたので、泳ぎ事態が得意ではないのかと思いきや、そういうわけでもないようだった。速さこそないものの、一定の形、リズムで翼を動かすことによって前進しているのを、私は時折振り向きながら、眺めていた。
水面から、音も出さずに帝室に入る。後ろを見ると、丁度海と帝室の空気の境の壁を抜けて、彼女が帝室に入ってきたところだった。パシャッ。水の弾ける音がした。
「こっちよ。『帝室』とは言っても、部屋が一つだけって訳でもないし、私を見失わないようにね」
私は彼女に手早く述べた後、歩き始めた。すぐに、彼女の足音が後ろを追ってきた。
しばらくまっすぐに歩いたところにある角を左に曲がる。本来はここに海帝様か私以外の者が立ち入ると濃霧が発生するはずなのに…今回は私がいるからなのか。それとも、海帝様が彼女を受け入れ、待っているからなのか。そんなこと、私には分かるはずもないのだけれど。
「ここよ。この階段を降りれば、海帝様の待つ海底帝室の最深部へ行けるわ。」
更に歩き続け、少し広いスペースへ出た後、私はそのスペースの中央にある、下へと続く階段を示しながら言った。
「ありがとうございます。確かに、あそこまで曲がり角ばかりだと、私だけじゃ完全に迷ってました」
また照れくさそうな表情をする。立ち振る舞いは大人顔負けでも、こういうところはまだ子供のような態度が垣間見えた。
「それじゃ、私はここで…」
私はすぐにその場を後にしようとした。階段から目を背け、元来た道を行こうとする。
「あ、あの…!図々しいとは思うんですけど…出来ればその、下まで一緒に来てくれませんか?」
私は振り返って彼女を見た。これで3度目だ。彼女の照れ笑いを見るのは。
「何故?」
「えっと、その、実は私、今回が初めてなんです…帝の鍵を取りに行くのが。それで、ちょっと怖いっていうか…」
私は黙って彼女を見つめたままだった。段々と、彼女の笑いは消え、恥ずかしそうな部分だけが残った。
「や、やっぱり何でもないです!それじゃ、行ってきます!!」
彼女はあっという間に階段を降り、視界から消えた。私は沈黙を破らず、そこに一人、動かずにいる。
『逃げるのか』
「(違うわ)」
『あの娘も貴様と同じ、鎖に結ばれることを、貴様は望んでいるのだろう?』
「(そんなわけ…ないじゃない)」
『では何故一人で行かせた。あの娘が鎖に結ばれる瞬間を見ることに罪悪感を感じたのか?いいや、違うな…やはり貴様は』
「(貴方なんか、怖くないに決まっているでしょう!)」
頭の中に響く声を押しのけて、私は階段を早足で降り始めた。
 ○
 ゚
 .
『嗚呼、娘はもう下に来ているぞ。成程、こやつは鎖に繋ぐにふさわしいな。さすが、『刺客』なだけある。』
もう、頭の中の声には返事をしない。階段に残る、水の染み込んだ跡を踏みつけた。
『時間の問題だ。貴様が着く頃には、始めよう』
海帝様の待つ最新部へと続く狭い階段には、青い炎のともった松明が一定の幅を保って壁にかかっているだけだ。
嫌な予感がすると思ったら、こういうことだったのか。
海帝様は、彼女をもこの海に縛り付けるつもりだ!
階段を一つ飛び越えた途端、青白がかった視界が、突然拓けた。
階段を抜けたところにある、正方形の部屋の小さな部屋の先に、それより2倍近く大きいスペースの取れた最深部があった。私の位置から見えたのは、彼女の後ろ姿と、玉座に座り、彼女に不敵な笑みを投げかける海帝様。
「そうか…そこまで私の持つ鍵が欲しいか」
私は駆け出した。しかし、最深部と階段の手前の部屋の境部分から、滝のような水が流れ落ち始めた。
「…!駄目よ!返事をしては…」
彼女は振り返らなかった。私にはもう、彼女を助ける術はない。海帝様と彼女の2人と私を遮る滝の轟音は、私を嘲笑っているようだった。
 ○
 ゚
 .
貴方…よく、私のところまで来れたわね…

…興味本位でここに来たら、たまたま入れたのよ

そう…でもまぁ、これもきっと、運命の悪戯。ねぇ、貴方、「海帝」のことは知ってる?

海帝様?勿論、知っているけど…

なら、話は早いわ。これは私のちょっとした出来心なんだけど、貴方、海帝の弟子になってみない?

ちょっと待って。今、何て…?

だから、私の弟子にならないかって言ってるの

………え?

 ○
 ゚
 .
私の足元からは、水の染み込んだ跡が伸び、それは最深部を閉ざした滝の下までも続いている。
あの日から、私はこの「鎖」によって、この海から逃れられなくなっていた。
鎖に繋がれた者は、海に守られると同時に、海に触れることを封じられ、そして、海から遠く離れた場所へと抜け出すことも出来ない。鎖を紡ぎ出している海帝様が繋がれた者を解き放たない限り、その者は自分の身が朽ちるまで、海の糧となり続ける。海に近い存在になればなるほど、その強大な力に囚われてしまう、ということだ。
「勘違いしないでね」
海帝様は言った。
「説明上は結構怖いことを言ってるけど、実際は、貴方と私との絆の証みたいなものだから。それと、私と一緒にいるんだったら、遠くに行くことはできるしね」
果たして、あの時は本心からだったのだろうか。海帝様は、昔とは大きく変わってしまった。私はいつからか、あの人を師としては見ず、逃げる対象、畏怖すべき存在として捉えていた。水に濡れることのない私と、足元に見える水の染み込んだ跡を、いつ間にか恨むようになっていた。
滝の奥から、悲鳴が上がったような気がした。結果を知るのが怖い。おそらく、彼女は無事では返されないだろう。彼女が逃げようと最深部から飛び出して来た時には、私が海帝様を、命に替えても止めなければ。
「貴様に」
最後に海帝様と直接、面と向き合って話したときのことが思い浮かんだ。
「覚悟はあったのか?」
私はそのとき、何も言えず、そこに立っていた。自分でも、どうなのか、分からなかった。
「…もういい。また、いつものように私から逃れようとするがいい」

どれくらいの時間が経っただろう。物思いに耽っていた私は、辺りが静かになった途端、我に返った。
目をそらしたいはずなのに、見たいという欲が勝ったのか、気づけば私は振り返ってしまっていた。
「おめでとう」
真っ先に、海帝様と目が合った。不敵な笑みは崩れていない。その背後には、相変わらず背を向けたままの彼女。
「貴様の…」
海帝様は、ゆっくり、ゆっくりと前に倒れた。
「勝ちだ」
海帝様の身体が地面につくと同時に、持っていた三つ又の槍も手から離れ、カラン、と音を立てた。
彼女が振り返る。息は上がっているが、険しい表情はしていない。彼女は海帝様に近づき、手を引いて立ち上がらせた。
「持っていけ。貴様が欲しがっていたものだ」
立ち上がった後、海帝様は彼女に何かを渡した。一瞬、金属光沢を放つのが見えた。おそらく、あれが「鍵」なのだろう。
「…懐かしいな。私が負けたのは、何時ぶりだったか」
海帝様は、いつになく穏やかな表情をして言った。ここしばらく、そんな様子を見せた海帝様を見たことがなかった。
「やっぱり…水は苦手です…」
彼女がそう言うと、海帝様は可笑しそうにクスクスと笑った。
「貴様にはまだ先があるのだろう。もう行かなくていいのか?それと、これはついでだが…次に行くなら、氷帝のところを勧める。効率が良いからな」
「ありがとうございます。帰りは…大丈夫です。道は覚えてますから」
彼女が私の方を見ながら言った。
「そうか…では。貴様にはいずれ、再び会いたいものだな」
海帝様の言葉に、彼女はただ微笑んだ。そして、その場を後にした。
「…何故」
彼女が完全に去ったと思われる頃に、私は初めて言葉を発した。
「このような『芝居』を?」
私は振り返って海帝様を見た。海帝様は、私と目を合わせようとせず、彼女の消えた階段を、静かに見つめていた。
「知ってるくせに。これもまた、私の気まぐれよ。」
海帝様はそう言った後、「やっぱり、悪女っぽい喋り方は性に合わないわね…」などとぶつぶつ呟いた。随分と見え透いた嘘だった。
「気まぐれにしては、やたら気合が入ってたわね」
「あら、私は怖がってる貴方を見るのも結構面白かったし、後悔はしてないわよ?素直じゃない貴方の裏側が見れた気がして、ちょっと興味深かったし」
私は海帝様と目を合わせるのを諦め、そっぽを向いた。「ほら、またそういうところが出てる」。海帝様は私をからかうように言った。
「でも、貴方には辛い思いをさせてしまったわね…気まぐれとも言えど、やり過ぎたわ。そこは素直に謝りましょう」
海帝様は、まだ私の方を見ようとはしない。私はといえば、私の足元と、海帝様の足元を繋ぐようにして地面に残っている水の染み込んだ跡を、ぼんやりと眺めていた。
「…さて、茶番はここまでにしましょうか」
遂に、海帝様が私を見た。私も、顔を上げ、真正面から目を合わせる。
「そろそろ、潮時だと思っていたの。何かいい機会があれば、と思っていたんだけど、丁度あの娘(こ)が来て、私に時が来たことを知らせてくれた。だから…」
ここで海帝様は、一度深呼吸をした。そして、優しい目を私に向けた。
「今日…というより、今を持って、私は『海帝』を辞めます。継承者は…」
海帝様は、私に笑いかけた。漣に光る陽光のような、眩しい笑み。
「私、まだ…」
私は思わず口に出そうとするが、そのあとの言葉が出てこない。どうしてか、目頭が熱いような、そんな感覚が走る。
思い出すのは、まだ海帝様が芝居を打つ前の日々。無愛想で表情一つ変えない私をよく、外に連れ出しては面白いことをあれこれと考えてくれていた。師弟と言うよりは、姉妹のような、親子のような。悲しいことや辛いことは、海帝様のおかげですぐに忘れられた。そのはずだったのに…。
どうして、こんなにも優しい師を、私は信じれなかったのだろうか。
何故、怯えていたのだろうか。
恨んでしまったのだろうか。
包み込むような暖かさを持った海帝様。それは、まさに太陽が照らす、明るい海のよう。私は込み上げてくるものを抑えようと、目を閉じた。
「無論、貴方よ。『マナンティアール』」
瞬間、私の周囲が暖かいもので包まれたような感覚が走った。泣いたわけではないけれど、目を開けると、少しだけ、ピントが合うのが遅れた。
「今まで、私の弟子であり続けてくれて、ありがとう。振り回されっぱなしで大変だったでしょう?」
最後に、元海帝様は私に、自身の持っていた三つ又の槍を手渡した。私はそれを受け取った。海の、そしてあらゆる場所を巡る水を、その槍は感じさせてくれた。
「これからは、貴方がこの海となり、世界と向き合う番。大変なこともあるわ。でも、そんなことも吹き飛ばせるようなことを探して、毎日を楽しく過ごしなさい。海帝だからって堅くならなくていいから。貴方の好きなように生きなさい」
元海帝様―――アクアリリス様は、涙を目に溜めながら言った。それは、我が子を送り出す親のような、嬉しさの中に悲しみが少し混じったような、そんな涙だった。
「とりあえず、他の皇帝たちと仲良くしなさい。それと、出来れば『神』のご機嫌も損ねないこと。あと、今は海帝の姿だけど、地上に出る際はちゃんといつもの姿に戻ること。あっこれから好きなところに行けるからって、あまりここら辺の地域をほっぽらかしにしないでね。それにそれに…」
「…もう、いいわよ」
喋りながらポロポロと出てきたアクアリリス様の涙を、尾ヒレの先端で拭いながら、私は呆れたように言った。
「わ、私、貴方に謝らなければいけないことがたくさんあるわ…教え方下手くそだったし、貴方が嫌いなことを知ってても、無理やり外に連れ出したり、最後は冷たいことばっかり言って…ご、ごめんなさい…ごめんなさい!」
アクアリリス様の泣いたところを見るのは、これが初めてだった。
「まったく、こっちが泣きたいくらいよ…今まで迷惑をかけてきた恩師に、『ありがとう』の一つも言えないんだもの」
私の尾ヒレの先から、滴がぽたぽたとこぼれ落ちる。アクアリリス様は目を覆っていた手で、今度は私の尾ヒレに触れた。くしゃくしゃな笑顔を、私に向けながら。
「ほんと、お節介なところは変わらないのね」
アクアリリス様は、私の姿が変わったのと同じくらい、大きく変貌していた。海帝のときにあった、ヒレなどは取り払われ、質素なものになっていた。
「あら、そういう貴方も、随分と親切なところは変わらないじゃない」
アクアリリス様の言葉に、私は少し笑った。そして、尾ヒレで軽く、アクアリリス様の頬をはたいた。
2人の足元の水の跡は、いつの間にか乾いて消えていた。
 ○
 ゚
 .
「マ〜ナちゃんっ、どうしたんだ。ボーッとしとったぞ」
私はその声で現実へと引き戻される。どうやら、また思い返していたようだ。
「…その呼び方、やめてくれない?」
「嫌なのか?ワシは結構気に入ってるんだけどな…それとも、やっぱりマナちゃんはマナちゃんって呼んでもらいたいけどそんなこと自分から言えなぶっほ」
「いい加減にしなさい」
サラムは突然の水鉄砲にアワアワとしている。私はそんな彼をそっちのけで、浜辺に立ち、夕日の反射する漣を眺めていた。
今は少しだけ、海帝の姿でいる。…いや、現在は「海神」だったか。今は誰もいないし、万が一姿を見られても、夕日が作り出すシルエットで誰なのかは判別しづらいだろう。もっとも、私たちが神だということを知っている者はほとんどいないのだが。
「それにしても…随分とロマンチックな夕日だ」
サラムは何かを期待するような、そんな様子だった。顔はこちらに向けず、目だけでチラチラと盗み見ているのが視界の隅からでもよくわかった。
「…わざわざ送ってくれてありがとう。じきに夜になるし、もう帰ったら?」
私がそう言うと、サラムはガクッという音がしそうな勢いで激しく落ち込んだようだった。
「そうか…でもワシは挫けないからな!マナちゃん、待っとれよ!ガハハハハハ!!」
何が面白いのかはさっぱり分からないが、サラムが楽しければそれで良いのだろう。私がそのまま放っておくと、しばらくして、仮の姿に戻ったサラムが「では、ごきげんよう」と言って去っていった。
私はサラムが去った後も、波間に煌く、空と夕日、そして海の色が混じった光を、何かに憑かれたかのように、黙って見ていた。
胸騒ぎがする。まだ、私は帰ってはいけない。直感的にそう思った。
「良かった、ここにいたのですね」
後方から声がした。私は振り返った。そこには、以前に会ったときよりも、更に大人びた様子を見せている彼女がいた。どうやら、私の直感は当たっていたようだ。
「…大きくなったわね」
「そう言ってもらえると、嬉しいです。体長はあまり変わってないってよく言われちゃうものですから…」
彼女は以前と変わらない、照れ笑いを見せた。やはり、まだ成年に至っていないのが伺える。
「私に、何の用かしら」
聞いてみたものの、答えはなんとなく、分かっていた。
「今回は、アクアリリスさんの方から貸していただいた鍵を、現在の海帝…もとい、海神である貴方に返しにきました。大切な鍵らしいので、やはり、神々に返した方がいいのだろうと思って…」
彼女はそう言いながら、鍵を私に差し出した。私は黙ってそれを受け取り、まじまじと見つめる。
「ありがとう。この鍵は、私が責任を持って守るわ」
鍵を観察し終わったあとで、彼女に礼を述べた。彼女は微笑んだだけで、何も言わなかった。
「すごく綺麗なところですね…こんなに素敵な場所があるなんて、今まで知りませんでした」
2人でしばらく海を眺めていると、彼女が不意にそんなことを言った。
「…貴方はこれから、どうするの?」
私は何となく、聞いてみた。
「そうですね…まずは、父と母を探そうかなって考えてます。かつての神の言い方からして、おそらく、生きていますから。…私たちの知らない、気づかない場所で」
私は彼女を横目で盗み見た。その瞳に写っていたのは、果たして漣の光だったのか、涙の光だったのか。どちらにせよ、彼女の悲しそうな表情を見たのは、これが初めてだった。
「…貴方、あれから、何を知って、何をしたの?」
今度は何となくではなく、彼女の方を見て言った。私が聞くことでもないのだろうが、これはきっと、小さく揺すぶる好奇心がそうさせたのだ。
「……両親の愛と、真実を知りました。それから…ずっと、傍にいてくれたはずの大切な人に…初めて会って……それで…私は…」
彼女の声は震えていた。私は、聞いてはいけないことを聞いてしまった。謝ることも、慰めることも出来ず、私は黙って彼女を見ていた。
「そういえば、貴方で最後だったんです。鍵を返すのが。最初と最後に貴方に会えて、私、よかったなって思ってるんです。いつも丁寧で、素っ気なく手助けしてくれる貴方で」
彼女は私に笑いかけた。まだ声は少し震えていたけれども、その笑顔は無理に取り繕われたものではなかった。私は内心ホッとしていることに気づいて、そんな自分が少し無神経にも感じた。
「それじゃ、私、もう行かなくちゃならないので」
彼女は翼を広げた。彼女は翼を広げると、黒基調だった全体が、白基調になる。その様が、夜明けのようだった。
「ありがとうございました。そして、最後になりましたが、海神の継承、おめでとうございました。これからも、この世界の目として、そして盾として、貴方があり続けられますように」
彼女は飛び立った後、私を見下ろして言った。
「そう、貴方…やっぱり…」
私には分かっていた。彼女はこのあと、天空界に戻らないだろうと。もしかしたら、この世界からいなくなってしまうだろうと。
「それでは…また、会えることを願って」
「また、会えることを…」。私がその言葉を聞いた中で、また会えた者など、1人もいない。アクアリリス様も…
彼女は海の彼方へと向かった。天空界のあるはずのない、海の上を行ってしまった。夕日の色を失った空に、一番星が輝く。彼女は、その瞬きに吸い込まれ、消えた。
「…さようなら、『星隠れ』」
私は小さく、呟いた。そして、海へと足を踏み入れた。
足には砂粒が鬱陶しいくらいについていたのに、全て波によって流された。ブローチの宝石部分の下から垂れるレースが、足についた同じような質の布が、踏み込む度、海水に浸る。
その後、少なくとも、私が「この世界」にいるときに、彼女がここに帰ってくることはなかった。

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