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無秩序哀霞


 あれは事故だったと思いたい。思いたい、ということは、既にその時点で違うという事を認めているのだろうけど、どうしても諦めきれないのだ。本当に、後悔している。頻繁に、夢にみるほど。目を閉じなくても、そこに浮かび上がるほど、刻み込まれたあの光景。忘れられないあの日のことを、後悔している。今も、ずっと。
 脅しのつもりで向けた包丁に、何も持たずに向かってきたバカな女。それが、今一緒に暮らしているミサキの姉だった。どうして一緒に暮らすことになったのか、というのは順を追って話していくうちにわかるだろう。どうやら彼女は、妹を逃がすために、自ら囮になることを考えたらしい。しかし、そんな美しい姉妹愛に見とれているほど、俺は平静ではなかった。向かってくる彼女に対して焦った俺は、反射的にその腕を突き出していた。その時の状況は、今でも俺の脳内に、鮮明なイロのまま残っている。飛び散る赤い液体を浴びると共に、鈍い衝撃が腕を通して全身に走る。何といっていいのかわからない、妙に柔らかいような……しかし、決して気持ちのよいものではない感触。
「     」
 その女の叫び声が重なって、無意識のうちに発せられた自分の言葉さえ、何と言ったのか聞き取れなかった。一瞬、忘れたいと思った現実のせいか、状況を把握するのに小さな空白の時間を伴った。荒れる呼吸の中に微かな声を漏らしながら、その先を見つめる。目の前で傷口から溢れる血液が、彼女の胸に突き刺さった包丁を伝って、俺の腕に流れ込んでいた。それを押し戻すかのように慌てて手を離すと、彼女は床に倒れ、そのまま動かなくなった。
「ヒトゴロシ」
 突然響き渡るその言葉に、心臓が跳ねるように胸を打ち付ける。それと同時に、瞬間的に見開かれた目には、自分の犯した罪がいっぱいに映し出された。もちろん、誰が言ったわけでもない。後ろにいたミサキは、声を出すこともなく、膝を抱えて蹲っていたから。つまり、自分自身が、自分の脳内にそう伝えただけ。しかしそんな言葉が、誰か知らないやつの声で、俺の耳に響いた気がした。
 自分が生きるために他人に不幸を与えたものと、自分の死を持って大切なものを守ろうとしたもの。どちらが価値のある行為かなんて、言われなくてもわかる。それくらいの道徳観念は持ち合わせている。命自体に価値をつける気などない。生きる価値のない人間などいないとよくいうが、おかしい話だと思う。自分が価値のない人間だとかいう奴も、おかしい。大体、誰が価値のある人間だというのか。全てに同じ価値があるのであれば、それは価値がないのと同じだ。そうすると、価値あるものとないものがあるということになる。そこでいう価値の高低の基準は何か。自分自身に必要かどうか、だと俺は思う。価値を見出すこと自体間違いだと、俺は思う。その時点で、価値の多いものと少ないものに分けて、誰かを見下しているんだ。
 だけど、あえて人間達をその二つに分けるとしたら。目の前で泣き続けるミサキにとって、俺なんて何の価値もない、むしろ害でしかない人間で、目の前で止まってしまった彼女は、唯一の肉親。殺した人間は一人だとしても、被害者は死んだ人間だけではない。罪を犯すということは、自分の幸福を得るために、他人に不幸を与えるということ。ここまでして生きる意味なんてあるのだろうか。そんな問いかけを今更めぐらせたところで、現状は変わることなくこの場に染み付いている。呆然としたままその場に座り込んで、ただじっと、死体にすがりつくミサキを見つめていた。
 殺しが第一の目的ではなかった。そんなリスクが高いだけの無価値なものに、興味なんてなかった。ただ、金がほしかった。今の世の中で、一番価値を持ったもの。いや、価値を背負わされたものであり、価値という実体がないものを現実に表すためのもの。こんな紙切れ一枚の無生物に、何物にも勝る価値が付けられてるなんて、笑う事しかできないけれど、笑うと同時に、それに流されてる自分に、少しだけ呆れる。金がないとこの世界では生きていけない。権力があれば金は手に入り、楽が出来る。いつからなのかはしらないけれど、世の中みんなそうなってしまった。少なくとも、今俺が生きている世界には、そんなことがいえる。権力が強さだなんて思わない。金が力だとも思わない。だけど、この世界ではそれが当たり前になってしまっている。人間が生きていく上で協力しあい、その中からまとめる者が出来、その力が便利なものだと知って、従うものと力を振るう者という上下関係ができた。それからずっと、数千年もの時間が過ぎているというのに、この世界にはその思考からの脱出など見られない。
 所詮世界は弱肉強食。弱いヤツを強いヤツが喰らう。その原理は不変的なものだ。人間にだって本能はあるから、そうなることは当然なのかもしれない。ただ、それが正しく、総ての人間にとって良い事であるとは限らないのだ。同じ人間ならば、過ちを繰り返して改善していけるんだろうが、あいにく人間の寿命なんて短いもので、その寿命の間に経験できる挫折も限られてくる。別の人間は、何度も誰かと同じ過ちを繰り返す。だから代わり映えせずに、しかし本能の欲求だけは重ねられて、強く残っていく。支配欲とか、幸福を求めることとか、自分を守ることとか、恐らくは、そんな私欲ばかり。そして、一部の人間のそんな考えが反映された結果が、この世界だ。

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とっぷ りすと
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