パンドラ
「僕は多分君のことを好きにはなれないよ」
そんな言葉で始まった私達を引き離したのは、私でも、そして彼でもなかった。
その時私は、それでもいいと答えた。それはもちろん本心で、私は御珠くんが一緒にいてくれるというだけで幸せだった。
幸せでいられると、思っていた。
けれどその幸せは手にいれた瞬間に当たり前に変わった。そこにいることが普通になってくると、私は彼の存在以外を求めるようになった。つまり、気持ちだ。
表情を疑い、本心を探り、見えないことに失望する。 そんな関係が長く続くはずもなく、御珠くんが「別れようか?」と言い出したのは付き合ってからわずか二週間でのことだった。
もちろん私は彼を引き止めた。それからも何度か同じ調子で言われたけれど、それはどれも私に決定権があるかのような、彼の意志が籠っていない言葉だった。当然だ、そもそものきっかけが、名前だけでもいいから、と私がしつこく頼み込んだというだけなのだから。
君のことを好きにはなれないと御珠くんは言っていた。だから今も私のことなんて好きではないのかもしれない。それでも恋人になってくれた彼に感謝していた最初の私は、今どこにいったのか。
真っ暗な部屋の中で光る着信ランプが目に痛くて、瞳が潤んだ。 電話の向こうにいる彼の声に、遠くで見ていた頃に好きだったあの明るさはもうない。
「そろそろ別れたくなってくれた?」
いつもなら「そんなことない」とはっきり返していた言葉が、何故かその時は出なかった。
「君ももう疲れたでしょ? どちらも疲れるだけの今の関係が、恋人だって言える?」
だからもう、こんなのやめよう。
今まで避け続けてきた決定的な言葉、彼の意志の籠ったそれを、私はついに聞いてしまった。けれど、遮る言葉さえ出なかったのは、私もそうしたかったからなのかもしれない。
物語で言えばもうエンドロールの直前まできているのに、私はそこでも「うん」とは言えなかった。
これは今までの努力を無駄にしたくないがための執着なのだろうか。それとも、私が求めてきた彼の愛を受けとるかもしれない誰かへの嫉妬だろうか。 何にせよ今、私の心の中には、愛なんて見えない。
「……卑怯だよ」
確かめる術を知らない私は、そんな風に彼を責め立てた。我儘に付き合ってもらっていたのは自分の方なのに。
「うん、僕は卑怯だよ、知らなかった?」
「そうじゃなくて!」
見えない彼は今、どんな顔をしているんだろう。いることが当たり前になる程には一緒にいたのに、そんなこともわからない。 あんなに彼のことを探っていたくせに、結局私は何一つ彼のことを知らないままだ。
「電話なんかで終わらせないで。ちゃんと会っていってよ。それまでは別れたなんて認めないから」
そうだね、と力なくいった彼の声は冷たく、どこか寂しそうだった。もう一度だけ優しい声が聞きたかった。それだけが唯一の未練だ。
それから彼は、電話の続きを話すために、この関係を終わらせるために、私のところへ向かったらしい。
だけどそれは叶わなかった。終わりを迎えたのは、彼だけ。
薄暗い部屋の中、デスクランプの明かりを頼りに残っていた彼の写真を見つめる私は、微笑んでいた。冷めたもう一人の自分が軽蔑しているのを尻目に。
彼が昨日の夜遅くに交通事故で亡くなったと、恋人である私にも連絡がきた。
「神様は御珠くんを悪者にしたくなかったみたいだね」
御珠くんは私を振ることができなかった。 私達は離ればなれになってしまったけれど、別れてなんかいない。もう彼を疑う必要も、誰かに奪われることも、不安に思うこともない。 そんな悲しい感情たちから解放されたことに、私は安堵していた。
どろどろとした憂鬱が消えていくと、そこに埋もれていた甘い感情が顔を出した。見えなくなっていただけでちゃんと愛は残っていたのだ。それをどんなに口にしても私の欲しかった気持ちが返ってくることはないけれど、それは前からわかっていたこと。
だから、私は幸せだ。前よりも、ずっと。
「私たち、恋人だよね」
それを否定する人はもう、この世界にはいない。
End
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とっぷ りすと
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