〈一〉 春の香りがやさしくなるような夜だった。 ふと、目を開いて覚醒した頭に疑問符を浮かべる。 乾いた喉に納得してキッチンに足を運べば、カウンターに置き忘れていたペットボトルを見つけたので唇を潤した。少し生ぬるい。 山の方で涼しいとはいえ、そろそろ常温では厳しい季節に、俺はサランラップを巻いただけの夕食を数秒間半眼で見つめて――逸らした。 明日食べるから大丈夫だろう、多分。 男の寮住まいなんて、有名デザイナーによる綺麗な内装だろうが最新設備だろうが、結局は変わらない。先日遊びに行った友人の部屋なんか、デザイナー泣かせの混沌とした散らかり方に流石の俺が少し片付けたぐらいだ。 周囲からの推薦により、運よく生徒会長という名誉ある役職に就けたおかげで一人部屋が与えられているが、二人一組の部屋はおそらく相当ひどいに違いない。 つまり、食事の残りをテーブルに放置している程度ならマシな方だろう。 そんな自分に言い聞かせるような言い訳を胸中で呟いていると、小さな物音が聞こえて思わず肩がすくんだ。 すぐに伸びきった小枝がガラスを叩いた音だと気付くが、少しでも驚いてしまった自分を誤魔化すように窓へと近付くと、カーテンを軽く寄せて外の様子を伺う。 窓枠に当たりそうなほど伸びきった枝は、先月苦情を入れたのに、まだ剪定されていないようだ。風が気持ち良くて開けたままにしていたら、親指サイズの毛虫が侵入してきて以来、閉じきっている窓だが、本来なら心地いい自然の風を室内に運んでくれる役割を果たしている。 視線を下げれば、あまり使われない裏庭が雑草を自由に茂らせていた。 夏になると虫が増えそうで、想像して思わず頬が引き攣る。もう一度意見箱に苦情を入れよう。 「ん?」 さて、ようやく訪れた眠気のままに二度寝を決め込むかと室内に視線を戻しかけたところで、俺は端に映る影に思わず首を捻った。 ちょうど大きく育った榎の下で、何か大きなものが蠢いている。 ――まさか熊ではないよな。 周りが山に囲まれている為、熊の存在は珍しくない。過去に一度二度、敷地内に侵入したこともあると、寮長さんから聞いたことがある。 俺は気になって眉間に皺を寄せながら暗闇を動く塊を凝視する。そして慣れてきた目が、ようやくそれを認識した瞬間、数秒固まった。 いやいやいやいやいや。 見えたものが信じられず、俺はもう一度目を凝らして観察するが、どうやら間違いない。全身が黒く毛深い、大きな体に特徴的な四足歩行の歩き方。 人に近いと言われているが、人とは違う強く逞しいそれには見覚えがある。 動物園にいるアイツだ。 「ご、ごごご……ゴ、ゴリラ……だ……」 ここは日本で間違いないんだよな? いくら人気が少ない場所とはいえ、日本の山にゴリラが生息しているといった話は聞いたことがない。 もしかして動物園やサーカスから抜け出してきたのだろうか。 「と、りあえず通報……この場合警察、いや寮長か?」 俺は寝室に戻ると、サイドテーブルの携帯電話を手に取り、どちらに通報すべきか悩みながらゴリラを見つけた窓際に駆け寄る。 そして音を立てぬよう、ゆっくり窓を開けて木の下を見下ろした。 「い、いない……」 が、どうやら既に場所を移動したらしい。注意深く周囲を見渡すも、結局ゴリラは見つからなかった。 折角見つけた珍しいものを見失って、なんだかガッカリしたような気持ちになるが、この場を離れたのなら良かった。 まず襲われたらひとたまりもないだろうしな、と安堵の息を漏らして、通報だけはしておくか、と視線を手の中の携帯電話にずらす。 だが、その瞬間視界の端に映ったものを反射的に目で追ってとても後悔した。 何故かゴリラと目が合っている。 (ゴ、ゴリラって木に登れたのか!) 最初の反応は、そんなどうでもいいことだった。 裏庭で立派に太く大きく成長した榎は、枝が折れることなく、無事ゴリラを部屋の窓まで連れてきたようだ。 苦情を入れても剪定してくれなかった寮長さんめ、覚えていろ。 ゴリラは、すっかり固まって動けないでいる俺としばらく見つめ合っていたが、大きな体をのそり、と動かすと窓枠に飛び移ってきた。 驚いて数歩下がれば、窓から凛々しい顔を覗かせるゴリラに、何故窓を開けてしまったのか数分前の自分を恨む。 何故か律儀に窓の外で足の裏を払ってから部屋の中に侵入してきたゴリラは、俺を見てから、ふと思い出したように窓を静かに閉めるのを見て、衝撃を受けた。 (こ、こいつ、手馴れてやがる……) まるで人間のような行動に、思わず着ぐるみなんじゃ……と観察してみるが、ただのゴリラだ。俺をジッと見つめたかと思えば、今は部屋を見渡している。 しかし足を払って汚れを落とす仕草に、わざわざ窓を閉めた意味はなんだ。足跡を消し、密室空間でじっくりと殺そうとでもいうのだろうか。 いや食べるのか? ゴリラって肉食だっただろうか。 「食べるならせめて殺してからの方が……」 思わず口に出て、すぐに口を手に当てるが、ゴリラに聞かれていたらしい。 視線を俺に戻すと数歩近付いてきたので、俺も合わせるように数歩後退る。 しかし、すぐ背中に当たったテーブルに、それ以上は下がることも出来ず、俺は恨みがましく振り返って『あるもの』に気付いた。 ゴリラは今も、ずんずんとこちらに向かってくる。 「こ、これで何とか!」 俺は、慌ててテーブルの上にあった食事の残りをゴリラに差し出した。 皿の上にあるのは肉じゃがだ。 肉も野菜もあるので、草食でも肉食でも食べるものがあるし、母親直伝の手料理は全体的に味が薄めなのでゴリラでも食べやすい……と、信じたい。 [ ×back|title|next→ ] >> index (C)siwasu 2012.03.21 |