お香
ダイゴはオーキド研究所で夕食を御馳走して貰った。
夕食時はケンジがお得意のポケモンスケッチトークで場を盛り上げ、陰気臭い雰囲気にならないように努めた。
その甲斐もあり、何事もなく夕食を終える事が出来た。
四人が其々の部屋に戻ると、ダイゴは二階の風呂場を借りた。
シャワーを浴び、持ち歩いているシャンプーやボディーソープで身体を洗った。
左腕の傷に泡が染み込み、痛んだ。
彼女はまた怪我を消毒してくれるだろうか。
高級綿素材の寝間着に着替え、ドライヤーを借りて髪を乾かした。
部屋に戻る途中、脳内で思い描いていた少女と鉢合わせた。
『ダイゴさん。』
「小夜ちゃん…。」
『怪我を見せて下さい。』
怪我を見ると言うが、小夜は手ぶらだ。
ダイゴは不思議に思いながらも、借りている部屋の扉を開けた。
「わざわざ来てくれたんだね、ありがとう。」
『いえ。』
ダイゴはベッドに、小夜は椅子に腰を下ろした。
その時、小夜は部屋に何かがあると感知した。
ダイゴが何かを仕組んでいるようだ。
小夜の考えなど知る由もないダイゴは、寝間着を二の腕まで捲り上げた。
小夜は何故か其処に手を翳した。
「?!」
見る者を癒す青い光が現れ、傷をみるみる内に消していった。
その光と共に痛みが消え、傷跡も全く残らなかった。
唖然とするダイゴを他所に、小夜は静かに立ち上がり、抑揚のない声で言った、
『此方側に都合の悪い事は全て忘れて貰います。』
「忘れる…?」
小夜が持つ記憶削除の能力を知らないダイゴは、怪我の次に記憶も消されようとしているなどとは思いもしなかった。
小夜は能力を発動しようとしたが、不発に終わった。
突然、身体の力が一気に抜けたからだ。
床にへたりと座り込み、身体がコントロール出来なくなった。
『…っ。』
ダイゴがゆっくりと立ち上がり、動揺する小夜を見下ろした。
「やっとお香の煙が出たみたいだね。」
『お…香…?』
ダイゴは半開きのアタッシュケースに隠していた中身を小夜に見せた。
耐熱性のある小瓶に立てられている棒状のお香が、半透明な煙を立て始めている。
小夜は後悔した。
何かが仕組まれていると気付いていたが、能力のある自分なら切り抜けられると過信していたのだ。
上手く弱点を突かれた。
部屋に入った時に追及していれば。
「これはデボンコーポレーションで開発されたお香で、ポケモンの技を解く効果がある。
つまり、変身していてもそれが解ける。」
『……。』
小夜は外界からの刺激に弱い。
以前もジョウト地方のチョウジタウンから発せられていた進化促進電波が原因で倒れてしまった事がある。
このお香にも身体が過剰に反応している。
身体の力が入らず、呼吸も荒くなる。
ダイゴは小夜の目の前で片膝を突き、その端整な顔を覗き込んだ。
「これはポケモンにしか効果がないお香だ。
つまり君はポケモンだね?」
それは違う。
生粋のポケモンではない。
「変身を解いて欲しい。」
古代文字を解読する程の頭脳を持つポケモンだとすれば、探究心は一層擽られる。
目の前にいる少女は治癒能力と金縛りの能力を持ち、ポケモンと会話する。
トレーナーとしてポケモンを所持しているのは、人間として生きているからかもしれない。
そして、小夜はダイゴが人生で出逢った女性の誰よりも美しい。
今までデボンコーポレーションの御曹司として、数々の女性からアプローチを受けてきた。
だがそれらの女性たちとは比にならない程、小夜は絶世の美少女だ。
それが余計にダイゴの好奇心を掻き立てた。
「君の正体を知ったとしても、誰にも言わない。」
『ひど…い…。』
「手荒な真似をしてすまない…。
でも、お願いだ。」
ダイゴは小夜を抱き寄せ、その頭を撫でた。
小夜はダイゴの温もりに落ち着く自分自身に腹が立った。
視界に映る銀髪が彼と重なる。
ダイゴは亡き彼ではなく、シルバーでもない。
それなのに、胸が苦しくなるような思い出が頭の中で掻き乱れる。
『もう……やめて…!!』
小夜がダイゴを突き飛ばした瞬間。
―――バリーン!!
部屋のドレッサーの鏡と全身ミラー、そして窓ガラスが粉々に割れた。
ガラスの粒が電灯に反射して光ったが、それは瞬く間に別の光を帯びた。
あの癒しの光と同じ青を纏い、お香と共に蒸発するかのように消えた。
それはあっという間の出来事で、ダイゴが一度瞬きをする間に全てが終わっていた。
「君は…一体…。」
すると、ポケモンの神々しい咆哮が聴こえた。
割れてしまった窓ガラスから飛び込んできたのは、スイクンだった。
主人である小夜は力なく座り込んでいる。
ダイゴは突き飛ばされた後の体勢をしたままだ。
スイクンは小夜を背後に庇いながら立った。
お香の煙を察知し、作り出した風で外に追いやると、ダイゴを冷徹な目で見た。
窓から羽音が聴こえ、ボーマンダが姿を現した。
その背からエーフィとバクフーンが降りた。
ボーマンダの背後にはハガネールとネンドールの姿もある。
エーフィはダイゴの前に立ち塞がり、毛を逆立てて威嚇した。
バクフーンは小夜の元に駆け寄り、震える身体を抱き締めた。
“小夜、もう大丈夫。
俺たちが来たよ。”
『…っ、皆…。』
体温の高い身体が温かくて、小夜はその身体にしがみ付いて瞳を閉じた。
お香の効果が徐々に消えていく。
“小夜に何をしたの!!”
エーフィの怒号でサイコパワーが発せられ、家具が小刻みに震動した。
その威圧に圧倒され、ダイゴは何も反応出来なかった。
バクフーンの腕の中、小夜の心が悲痛な叫びを上げた。
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