『――。』


 私が誰で、何処にいて、何処で生まれ、誰のもとに堕とされ、生きていたのか。
 それは今となってはもう、思い出せずにいる。
 ちっぽけな事で怒り、傷み、悔しさに壁に頭を自ら打ちつけたことが、何度かあったように思う。
 これもまた、不確かな事ではあるけれど。

 その中でもひとつだけ大きな忘れものがあったのを、私は覚えている。


「死んじゃえばいいよ」


 いつだったか大切だと思ったその男は、確かに初めて会ったとき、開口一番にそう、笑いかけてきた。



「……。は?」

「え? 死にたいんじゃないんですか?」


 場所は何処かの大きな建物の、広い屋上。
 私はそこで、飛び降り防止柵に寄り掛かるようにして立ち、空を見上げていた。

 そこへだ。男はやってきた。

 胡散臭い男だった。
 とても人当たりの良さそうな顔で、面構えから察するに、年の割には人懐っこそうな印象だった。
 だから、余計に胡散臭いと思ったし、突然男が吐き出した毒に、私は眉を力ませたのだ。
 男は空を仰ぎ、続けた。


「貴女がいくらあんなに高いところを見上げても、貴女に見合う低さに、空は落ちてきてはくれませんよ」

「……。」

「貴女には、地べたがお似合いです」


 最初の最初は、とても男の話は不愉快だった。
 だから不思議だった。
 気づけば私はこう答えていたから。


「――ああ。そう思う」



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