おやすみなさい。


「和巳、そこは駄目よ――駄目!! もう行かないで!!」


 時折鮮やかに蘇る記憶の中、青ざめた顔の父と、ヒステリックに叫ぶ母の姿が、しつこく僕に纏わり付く。

 喧嘩から虐めに行為が変わって、とうとう僕が学校に行く振りをして、あのマンションに入り浸り、そしてそれが両親に知られた日。
 僕の家は論争の果てに、引っ越しを決断した。

 近くも遠くもない土地にある、賃貸の一軒家。
 学校が変われば、環境が変われば、僕も変わると考えてのことらしかった。
 事実僕は、マンションの件で酷く親に叱られた上に、そんな場所に連れられたものだから、嫌でも変わってしまった。
 新しい学校に溶け込んで、上手くやり過ごす。
 例えどんなに理不尽な事が起きても、気乗りしない事があっても、「場の空気を読まなければならない」という強迫観念にも似た感情が、いつも隣にあった。

 それでも、その落ち着きのない環境は、次第に体に馴染む。
 馴染んで最後、彼女の存在がどんどん霞んで、気づけば心労を患いそうになった間際――なんとも都合よく、彼女の存在を思い出したのだ。

 好奇心だ。
 認めよう。
 記憶の中の優しい思い出に、まだ触れることができるかも知れないのなら、僕はどうしても触れたかった。
 彼女が何なのか、知りたかったんだ。


「……うそつき」

 一夜明けて、夕方。
 僕は約束を破って、例の部屋に足を踏み込んだ。
 中心で行儀よく立って僕を待ち構えていた彼女の背後には、毒々しいまでに赤く染まった薔薇が見える。
 彼女は、どこか淋しげだった。

「来ないと言ったでしょう」

「……忘れたよ」


 小さな声に歩みよりながら、ぽつりと告げる。


「嘘って、どうしたらつきかたを忘れると思う?」

 ねえ、と尋ねたら、なんだか不意に笑いが込み上げてきた。

 きっと同じ顔だ。
 僕も君も。

 彼女はそんな僕に表情も変えずに視線を逸らすと、背中を向けて、ベランダへと向かった。



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