紅蓮のアゲハの娘は恋を知らない
幕間・金に群がる者【三人称視点】
“地上げ屋”という単語にあまりいい印象を持っていない人間は多いと思う。利用価値のありそうな土地から住人を無理やり追い出したりするイメージが有るかと思われる。
だがそれは過去の話で、法律が改正され、暴力犯罪まがいに土地を買い叩こうとする乱暴者共にはそういう仕事ができないように定められた。
今はトラックで特攻するようなファンキーな地上げ屋は存在しないと考えてもいい。…恐らくだが。
「では、これにて契約締結ということで。その他諸々の手続きを終了いたしましたら代金を入金いたします」
「あ、あのう、前金としていくらか先に頂けないでしょうか……」
長い期間生きた証の残るしわくちゃの顔をした老人がしわがれた声で頼み事をしていた。その頼みに、スーツ姿の男は目を瞬かせた。
「なにか急な御入用でも?」
「あのう、そのう……老人ホームが…」
「あぁ、一時金ですね。そういうことでしたら。そうですねぇ、この3割程度であれば即金でご用意できますが、いかがなさいますか?」
ご老人は少し考えていたが、それでいいと頷いた。
「ではご用意してお持ちしますね。…シスター、ご協力ありがとうございます」
不動産会社の人間が黒衣に身をまとう婦人に頭を下げた。彼女はシスターで、この雪花女子学園高等部の教師でもあった。
「いいえ、お力になれたのであれば幸いですわ」
「長井さんのお宅ではどうにも邪魔が入って話が進まなくてですねぇ……長井さんのご親族じゃない方まで口を挟んできて……人を鬼か悪魔かのように罵倒してくる人もいたもんで困っていたんですよ」
この土地売買契約の話し合いが始まったのは3ヶ月前である。土地を売りたい、と不動産会社に入電があり、そこの社員が家に訪れたのが始まりだった。
本来であれば実勢価格から売買金額を計算して、それを売り主に納得いただけたら契約締結になる予定だった。
……話し合いの日、ご老人の家には沢山の人間が集まってきていた。それが息子夫婦や弟までは理解できた。なのだが……いとこの娘やら、はとこの孫など、もはや関係ないんじゃ…という人間まで集まっていたのだそうだ。
しかも売り主はまだ健在で、売ったお金で余生を過ごす老人ホームに入るというのだから、あまり関係ない親族は同席しなくていいと思うのだ。
なのだが、不動産会社のいち社員である彼に口出しする権利があるわけでもなく、それぞれ家庭の事情があるだろうと完結させた。そんなわけで彼は自分の仕事を忠実に終わらせようとしていたのだが、まぁ入ってくるわ横やりが。
金額が納得行かない
買い叩いているんだろう
路線価はこうだ。安すぎる。
…と口を挟んでくるのだ。
イチから丁寧に説明しようにも聞く耳を持たない。
挙句の果てに過去に他の地上げ屋が行った悪行の話を持ち出して、その社員がした悪事かのように罵倒するのだ。
それで話し合いがもつれ、全く進まず……
話し合いはこじれにこじれ、日を改めて再度話し合いをしようとしたら、また親戚一同が集まっており以下エンドレスループ…
見かねた売り主の老人が、顔見知りのシスターに助けを求めたのである。
学校とは何の関係もない土地の売買契約話だが、奉仕の精神を持つシスターたちは協力的だった。お困りでしたら、うちの学校の空き教室をお貸ししますよと、学園長自ら申し出たのだ。
シスター同席のもと、売り主と買い主当事者同士で静かに契約は締結された。
これでご老人は安心して暮らせるであろう。彼は老人ホームに入れるし、不動産屋も一仕事終える。これで一安心だ。
……誰もがそう思っていた。
──グシャッ
「…巫山戯るなよ! たったこれっぽっちで納得できるわけがないだろ! もっとあるんだろっ」
「やめ、やめてくれ……」
「どこに隠しているの!?」
老人は親族に金をせびられていたのだ。
彼の住む家は大通りに面していて利便性が良かった。彼の隣の家は現在空き家となっており、その二軒の家を潰せばそれなりの広さになる。そしたらちょっとしたマンションを建てられるとにらんだ。
──高く売れる。金が手に入る。
目敏い親類たちは、老人に家を売れと迫った。
老い先短いんだ。死んだ後処分するのが大変だから売ってしまえ、そして老人ホームに入って、余った金は生前相続しろと詰め寄ったのである。
そうはいっても今の時代だ、土地が絶対に高く売れるわけでもない、手数料や税金は取られる、何にしたって金はかかるのだ。
老人にだって自分の生活がある。人生100年時代と言われているのだ。自分が何歳に死ぬかわからないから、安心できるくらいの金額は残しておきたかった。
せめてもの金額を包んで渡したのだが、彼らはそれじゃ満足できなかったのか激怒した。封筒をグシャグシャにして投げ捨ててきたのだ。
金に目がくらんだ彼らが家探しするかのように家の中を荒らし、金目のものはないかと探す。
家を荒らされている光景を目にした老人はパニック状態に陥ったが、側にいたいとこの娘だという女性にすがろうとした。
「いやね! 触らないでよ汚らしい!」
だが彼女から浴びせられたのは罵声だ。乱暴に振り払われ、老人は言葉を失う。
「どこに隠してるんだ!」
「情けないわね、遺産も残せないの!?」
老人の息子である男は、老いぼれとなった父の胸ぐらをつかんで唾を飛ばしていた。その横で息子嫁がいやみったらしく暴言を飛ばす。
老人は良く言えば人が良かった。
そのため、違和感を感じつつも彼らの迷惑になりたくないからと言われたとおりに生前整理を行おうとしていた。
…たとえ、見覚えのない突然現れた“親族”が登場しようとも、何も言わなかった。
だけどここに来て彼はようやく気づいてしまったのだ。
恐怖に震えた老人は何かを言おうと口をパクパクさせたが、集中砲火のように浴びせられる暴言に萎縮して何も言えなくなっていた。
そうこうしているうちに頭に血が上った息子が手を上げた。
──バキッと音を立てて殴られた老人は古びた畳の上に身体を叩きつけられた。
なぜ殴られたのかわからない。彼は目を白黒させて、呆然と息子たちを見上げた。
「なっ…」
「あの不動産屋に安く買い叩かれたんじゃねーだろうなぁ!」
「金出しなさいよ!」
幼い頃はやんちゃで可愛かった息子が鬼の形相で金をせびってくる。老人は悪夢を見てしまったかのように愕然としていた。
悪戯をした幼い息子に拳骨をして説教をしたことはあるが、顔面を殴りつけた覚えなどなかった。
しかも理由が、金をよこせという自己中な理由で。
妻が先立った後、息子夫妻に迷惑をかけまいと生きてきたつもりだった。なのにこんな…
「あっ!」
「待ちなさいよ!」
老人は縺れそうな足を叱咤して、裸足で家を飛び出した。
金の亡者と化した、“親族”から逃げるべく。