一面が闇だった。一筋の光さえも射さないほどの、黒。どういうわけか異様にふわふわとした感覚に襲われている。一体自分がどんな状況に置かれているのか全く理解できていない。ここは何処なのか、何が起こっているのか、それらがわからないまま立ち尽くした。正確に言うと立っている、とい感覚がなんとなく足から伝わってきているだけなのだが、得体の知れない暗闇の中で突然、何かに包まれるような感触をはっきりと感じ取った。私はこれを知っている。覚えている。自分の命より大切なものを傷一つつけまいとするような、やさしさに溢れ、繊細すぎる、それ。まるで浮遊していたかのような状態から、徐々に重力によって地に足をつけている感じが戻ってくる。それによって、今私は目を閉じているということに気付いた。ゆっくりと、それこそ、眠り姫が王子様にキスをされたように、瞼を動かす。ぼんやりとした世界の中に、ぽつんと、オレンジ色が咲いている。

「おはよ」
「………ん、え、おは、よ、う」

世界が鮮明になってゆく。眩しいほどの白の中に、オレンジサファイアの輝きが視界を埋める。なんとなく、懐かしく感じられた。その目映いきらめきを。

「か、がり」
「うん」

なんで。どうして。そんな疑問を抱いたが、それを漏らすことを躊躇ってしまう、いや、忘れるような笑みを浮かべた彼が、今度は視界を、脳を埋め尽くした。私を抱きしめている腕を軽く解き、その笑顔を見せた。名を呼ばれて嬉しそうに、なのに眉は下がっていて。何がどういうことなのかさっぱりわからない。しかし、そんなことに悩むより、この感覚を味わうことに全神経を集中させた。彼が作ったどんな菓子よりも甘ったるい。私がいちばん好きな、甘さ。全身あますところなくはちみつにでも付け込まれているようだ。

「透子」

幼子を宥めるような声色で名前を呼ぶ。こんな声を聞くのは初めてだ。なあに、とできるだけ柔らかく答えた。

「ごめん」

ごめんね。ほんとに。ごめん。何度も何度も許しを乞うてきた。一体何を謝ることがあろうか。何に対しての謝罪なのかわからない。わからないまま、延々と言の葉を重ねてゆく縢に戸惑いを隠せなかった。

「どういうこと、なの、ねえ、縢」
「ごめんな、すき。大好きだ。だから、お願い、笑ってくんね」

今にも泣きそうな顔で笑いながら懇願してきた。何にもなしに笑えといわれて笑顔を作れるほど私は器用じゃないというのに。そんなこと、彼だって知っているはずなのに。何かがおかしい。きっと私の知り得ないところで異常なことが起きている。いや、もう、起きてしまったのかもしれない。それを察知した私は、笑顔を作ることをやめた。そんなのただの作り笑いだ。彼が求めているものはそんなものではない。だから、私は、自ずと笑顔になってしまうであろう言葉を口にする。今なら、この理不尽すぎる世界に生きる私の、一番の笑みを浮かべられる。そんな気がする。

「私も大好きだよ、秀星」

嗚呼、初めて名前を呼んだかもしれないなあ、なんて、呑気に考える。すると彼は何か満ち足りたような表情をしながら、ひとつ、感謝の言葉を吐き出して、泡のように消えていった。


ファンが回る音が聴覚を刺激し、起きろと命令してくる。一呼吸すれば辺りの香りに体中が蹂躙された。どうしてか興奮していた頭が、段々と冷えてゆくのを感じる。寝ていた、ということか。ならば先ほどのものは何だ。夢、だろうか。この単語が思い浮かんだ途端、目を開く。見慣れたキッチンが見えた。いつもその向こう側に必ずいた存在は、いない。今自分が座っているソファの隣に視線を動かしても、求める存在は見えない。鮮やかな料理と芳しい香りに包まれていたテーブルの上には、何もない。何の匂いもしない。自分がなぜここにいるのか、思いだした。逃亡した、いや、きっともうこの世に存在していない人間の部屋の片付けを私が引き受けたこと。いつの間に寝ていたらしいが、この部屋に入ってからの記憶が薄い。足を踏み入れたところまではうっすら覚えているがその先がわからない。理解を超える出来事が多すぎて頭がパンクしそうだ。このまま考え続けても不毛なだけと判断し、使命を果たすことに思考を切り替えた。片付けるも何も、筺体で溢れ返る部屋をどう処理したものかと悩みかけたが、こちらは後回しにして、まずキッチンへと足を踏み入れた。一度もここへ立ったことはなかったが、彼はここに立ち、料理を心待ちにする私をどのような想いで見ていたのだろう。今となっては聞くことすらできない。道具が片された引き出しを見れば、カトラリーがきれいに収納されている。料理、食事という行為への想いがそれだけで伝わってきてしまう。こんなことでは片付けも何もできはしない。震える手で一つずつ手に取っていると、珍しいものが下に置かれていた。紙。紙がある。何故こんなところに。持っているものを上に置いた後、それを取り出す。透子へ、と書かれている。紙に、手書き。恐らくは鉛筆で綴られている。何なのだこれは。私宛のラブレターだとでもいうのか。いやいやラブレターも何も私たちは恋人同士だろうに。らしくないアナクロなものを手にしそんな惚けた考えが浮かぶなんて、余裕が残っているのかその逆なのか、もう分からない。ただ導かれるように、手紙を開いた。

記されている文を指でなぞりながら、視線を動かして、理解するまでどれだけの時間をかけただろう。初めて見る、縢秀星という存在を映し出したような手書きの字を眺める。珍しく誤字脱字がない。約束、と書かれた部分だけやけに脳内に響く。彼が姿を消してから、感情にされてはいけない蓋が被せられたような感覚が常にまとわりついていた。その全てが端から風化されたみたいだ。ぽたり、と、紙にナニカが落ちて、しみを作ったところで気づく。泣いている。縢が行方不明と言われたとき、彼のドミネーターが発見されたとき、そういう一つ一つに泣いて喚いて誰かに当たり散らしてやりたかった気がするのに、できなかった。不発だったいくつもの感情が大爆発を起こしたように涙はこぼれ、いい大人だというのに声を上げる。かがり、かがり、と、彼が夢の中で謝罪を重ねたときのように名を呼び続けた。なあに、どうしたの。いつも返ってきた声はもう二度と返らない。その事実を実感させられ、涙を流し続けた。

時が過ぎてゆくごとに彼の声や顔、思い出を忘れてしまうくらいならば、いっそのこと、記憶が鮮明に残っている今、会いに逝きたいと願ってしまうわたしを、彼はいったいどう思うだろう。残念ながらわたしは、故人の分まで生きるという考えはまったく持ち合わせて、いない。彼の、縢秀星の隣にいられるのならば、喜んで地獄にでも何にでも落ちてゆく。縢がいる世界はわたしにとって天国なのだから。潜在犯など、この世界にとってゴミクズのような存在といっても過言ではない、そんなつまらない命は捨ててやる。彼の命を理不尽に奪う世界など。彼がいない世界など。わたしが存在する理由はない。それでも彼に約束だと言われてしまえば、このクソッタレな世界で生きる他ない。その約束自体が存在理由になるのだから。
ねえ、縢。わたしが貴方のもとへゆくときは、道案内をしてほしいな。それまでは、あがいて、もがいてでも生きてみせる。

その名はーゲンビリア疾患

透子がこれを見つけたってことは相当イタズラ心が働いたか、それか、俺が死んだってことだよな。きっと後者だ。長く書くつもりはないし、むしろここに書かずとも幽霊になって会いに行って、一番伝えたいことを伝えるかもしれないから、ひとつだけいっておく。俺が死んでも、後追い自殺とか、そういうのはやめてよね。望んでないから。透子が死ぬときになったら迎えにいってあげる。だからそのときまで、ちゃんと待ってるんだよ。約束。

20141221

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