少女期からの脱皮

マサ、マサ――と、真理佳に名前を呼ばれる度、俺はなんとも言いがたい複雑な心境に陥る。
真理佳の瞳は俺の方を向いていて、グロスでつやつやとした唇は俺の名前をしっかり紡いでいて、更に言えば、真理佳は毎日眠る前に必ず俺の銀色の髪の毛を撫でるし、愛おしそうに瞳を細めて、私にはマサだけよ――なんてことを口にしてくれたりもする。それでも俺は真理佳から注がれる自分への愛情を疑っていた。
真理佳が俺のことを大切に思っていることは間違いない。真理佳が俺を愛していないとしたら俺たちは一つ屋根の下で暮らすことなんて出来ないからだ。
それでも誰かに彼女が一番大切に想う相手は君かい? なんて問われても、俺は曖昧な返事しかかえすことが出来ないだろう。
俺の名前を呼ぶとき、俺に触れるとき、慈愛に満ちた瞳で俺を見つめるとき、真理佳が想っているのは俺ではない誰か別の人間なのではないかと考えてしまう。

そんな胸中を正直に真理佳に話したとき、真理佳は少し寂しそうな顔をして、馬鹿みたいなこと言わないでよ――なんて言っていた。

「ねえ、今日も電話が繋がらない」

それから十二時間も経っていない現在、朝食用に焼いたらしい目玉焼きを焦がした真理佳は顔面を蒼白にしている。
真理佳の尋常ではない様子に驚いた俺が、誰に? と反射的に尋ねると、真理佳は一言、

「……あいつに」

とだけ言う。俺はそれだけで真理佳の言うところの電話の繋がらない相手が誰なのか分かった。
真理佳の前の男だ。ここ三年間は名前を聞かなかったので関係も切れたのだろうと思っていたのだが違ったらしい。
落胆の溜息をつきながらも、話を滞らせるのもきまりが悪いので俺は仕方なく次の問いかけをした。

「電話にはいつから出とらんの?」
「二週間前から……毎日かけてるのに出ないの。あいつ、どうしたんだろ……」
「さあ、俺には関係ないことじゃ」

自分の発したその声が、思いの外冷たかったことに驚いた。

「そんな言い方するんだ?」
「ないじゃろ」
「……そう、そっか。マサには関係ないか」

か細い声で呟いた真理佳は、焦がした目玉焼きをゴミ箱に捨ててからエプロンのポケットに入れていた携帯電話に手を伸ばした。
唇を前歯でやんわりと噛み締めながらそれを操作してどこかに電話をかける。

「もしもし。――ハイツの仁王です。タクシーお願いできますか。……はい、はい、ありがとうございます。下で待っています」

通話を切った真理佳は疲れきったような生気のない瞳を俺に向けた。

「……行こう」
「どこに?」
「あの人のとこ。生きてるかどうか確かめに行こう」
「はあ? あいつのところに行くのにどうして俺がついていかないかんのじゃ。大体、大の大人がそうそう簡単に死ぬはずないじゃろ」
「……そうかな。あいつは人百倍生活力がないから分かんないよ。今頃腐乱死体になってるかもしれない」

そこまで言って、真理佳はその場にしゃがみ込んで顔を伏せた。それから小さな声で胃が痛いと言った。
どうしてそうまでネガティヴになれるのか。俺は心底不思議だったが、もしもあいつが死んでいたとして、その死体を一人で見つける真理佳を想像するとどうにもこらえきれなかったので真理佳について行くことにした。
しゃがみ込んだまま俺を見上げた真理佳は、その大きな瞳をゆるがせながら呟く。

「もしも本当に死体があったら私の目を覆って」

あ、こいつ馬鹿じゃ。分かりきっていたことを再認識させられた。


*****

タクシーに乗り込んでからも、隣に座る馬鹿女はずっと辛気臭い顔をしていた。
それでも半分涙声で、死体ってどんな匂いがするのかな――だの、死体見たら泣く前に倒れるかもしれない――だの、馬鹿げたことを言うような元気はあるのがたちが悪い。
真理佳が口を開くたびに目を泳がせるタクシーの運転手が不憫で、信号待ちのときにルームミラー越しに目があった時には小さく頭を下げたりもした。厄介な客を乗せてしまった、そう思われているのだろうと思う。
大体俺には、真理佳が何故こうまでもあの男に執着するのかも分からない。

「なあ、真理佳」

真理佳は返事をかえすことはしなかったが、真っ赤になった目を俺の方に向けた。

「あいつのどこがそんなにいいん?」
「……どこも、」

小さく呟いてから横に首を振る。

「どこもよくない。マサみたく優しくないし、我侭だし。……けど、」

そう言ったきり真理佳はタクシーを降りるまで一度も口を開かなかった。
俺はやりきれない気持ちで俯いた。真理佳は欲張りだ。俺だけは足りないと思っている真理佳は欲張りだ。それでも俺は、この欲張りな女と一緒に生きていくしかない。


*****

タクシーを降りてあいつの家を前にした真理佳は、

「久しぶり……」

小さな声で呟いて、古びれた表札を撫でた。その様子を見つめる俺はきっと苦虫を噛み潰したような顔をしている。
草の伸びきった庭の様子に顔をしかめながらも玄関先に立った真理佳はほこりを被ったチャイムをぴんと伸ばした人差し指で押した。
澄んだチャイムの音が外にまで聞こえる。それなのに家主は出てこない。
留守かもしれんぜよ、俺が口を開きかけたとき、いつの間にやら車を降りていた運転手の声が背中にぶつかった。

「新聞がずいぶん溜まってますよ」

確認してみると家の新聞入れはいっぱいになっていて、入りきらなくなった新聞が新聞入れの上に積み重ねられている。
その様相は先程まで真理佳を馬鹿にしていた俺の背筋を凍らせるのには充分なものだった。

「あいつ……本当に、」

死んどるんか――そこまでは言い切れなかった。それを口にしていいとも思えなかった。隣に立っていた真理佳が腰を抜かしてその場に座り込んだ。
冬だと言うのに額を汗が伝う。次の瞬間、俺は伸びに伸びた草をかき分けて家の裏に回っていた。縁側に面した窓なら開いているのではないかと思ったのだが、思惑は外れた。
舌打ちをして今度は浴室の小さな窓に手をかける。そちらは鍵がかかっていなかった。幸い無茶をすれば中に入れそうな大きさの窓だ。
俺は迷うことなく窓の縁に手をかけて、懸垂をする要領で体を持ち上げた。そのまま上半身を浴室の中に出し、頭から落ちるようなことがないように慎重に全身を浴室内に紛れ込ませた。
浴室内は不自然な程にカラッとしている。ここ数日以内に使われたようには見えなかった。

「……っ」

俺は堰を切ったように走りだした。真理佳が未だにあいつに執着していることへの悲しみや、あいつへの嫌悪感なんてその瞬間は忘れていた。
あいつに死なれたら俺は困る。真理佳が悲しむから困る。だから死んでいてほしくはないと思った。
焦ったところで死んだ人間が生き返るわけじゃない。そんなことはよく分かっているのに俺は走っていた。
走るのに適しているとは言いがたい家の中をあいつを探すために土足で必死に駆け回っていた。
そうして台所にたどり着いた俺は流しいっぱいに積み重ねられたインスタント麺の空き容器を目にする。
真理佳が随分長いことこの家に訪れていなかったのは本当だったらしい。
こんな物ばかり食べていたらいつかは体を壊してしまうだろう。

台所に隣接したリビングにもあいつはいなかった。
二階へ上がる階段を前にして、俺はあいつを呼ぼうとした……呼ぼうとしたのに、喉がかすれて声が出なかった。
もしも俺が呼んでもあいつが返事をしなかったら……あいつは、

「くそっ……」

藁にもすがる思いで階段を駆け上がった。
そうして記憶にあるあいつの部屋のドアを力任せに開く。

「さわがしいのう……たまの休日くらい静かに寝かせてくれんか」

ベッドから半身を起こした“仁王雅治”の眠たそうな双眼と目が合った。

「……生きてたのかよ」

脱力した俺がその場に座り込むのを見下ろして、

「雅紀か、久しぶりじゃのう。何しにきたんじゃ」

三年ぶりに再開した仁王雅治は酷く気楽な台詞を吐いた。
そののほほんとした様子に苛立ちはしたものの、殴りかかる元気もない俺は、

「“親父”が、死んでるんじゃないかって真理佳が言って……だから確かめに来た」

普段の様に親父の話し方を真似る気力もなく標準語でここに来た理由を説明する。
俺の説明を聞いた親父はけらけらと笑ってから、俺が土足なのに気付いて顔をしかめる。

「どうして靴も脱がずに入ってきたんじゃ」
「チャイム鳴らしても出てこねえし、新聞も貯めまくってるし、庭の草はぼーぼーだし、風呂使ってる様子もねえし、マジで死んでるんじゃねえかって思って、靴脱ぐ余裕もなかったんだよ……」
「寝とったからのう、チャイムは聞こえんかったんじゃ。新聞と雑草は面倒で、風呂は水道が壊れとるからここではしばらく入ってないんじゃ」

親父はいい加減なことを言って、寝起きでぼさぼさの髪の毛を手ぐしでといた。

「修理の人間に来てもらえよ……」
「そうじゃなあ、ぼちぼち来てもらうかの」
「電話、通じなかったのは?」
「携帯も壊れとる」
「……世捨て人かよ、アンタ」
「会社用の携帯にかければよかったじゃろ、真理佳は番号知っとるはずじゃ」
「……そうなのか」

親父はこくりと頷いてベッドから立ち上がった。俺は三年ぶりに接する親父のマイペースさにげんなりしつつも、十分な安否確認をしてもいないのに俺をここまで連れてきた真理佳にも少し呆れていた。

「マサー! 雅治の死体あったー?」

……ねーよ。ピンピンしてるわ。
返事をかえす気力もなく黙り込んでいると親父が窓から顔を出した。

「そんなもんあってたまるか。ピンピンしとるわ」
「うわっ、生きてる」

真理佳のぎょっとした声が聞こえたのと同時に俺は階段を降りて玄関の鍵を開けた。なんとも言いがたい表情で二階にいる親父を見上げる真理佳に、中に入るように促せば、真理佳は硬い表情で首を振った。会いたくない、小さな声でそんなことを呟く。

「人を巻き込んどいてそれはねえだろ」
「……けど、行きたくない」
「子供産んで十三年にもなる女が子供みたいなこと言うなよ」

俺は溜め息をつきながら真理佳の強張る腕を引いた。嫌だ嫌だと言う真理佳は、それでも大した抵抗はしない。俺に腕を引かれるがままに玄関に入って靴を脱ぐと、自分から二階に続く階段を上がり始めた。俺もそれに続く。

「まさはる」

俺より先に部屋に入った真理佳が呼ぶと親父は体をこちらに向けてひらひらと手を振った。口元には薄ら笑いを浮かべている。三年前に俺たちをおいて家を出ていった親父、俺はそんな親父のことを憎んでいるが今は素直に生きていて良かったと思える。一見無感情にも見えるような表情をしている真理佳もきっと俺と同じ気持ちだろう。真理佳は黙って親父の傍にいくと、その白い手を親父に向かってすっと差し伸べた。

「タクシー代」
「はあ?」
「生きてたのなら用ないし、タクシー代もらったら帰るから」

真理佳は冷たくそう言って、親父を見つめる。俺は真理佳のあまりにもあんまりな言葉に自分の耳を疑ったし、親父も俺と同じように驚いているようだった。しばらくすると親父は苦い表情を浮かべて財布を取り出した、そうして一万円札を一枚出して真理佳に手渡す。真理佳はそれを受け取るともう一度口を開いた。

「雅紀にお小遣い」
「……いや、いらないって」
「雅紀」

凍りついた空気に居心地の悪さを感じて遠慮する俺を親父が呼んだ。俺が真理佳の隣に並ぶと親父は財布から更に一万出して、それを俺に手渡した。

「いら、」
「返さんでよか、持っときんしゃい」
「ありがとう……」

小さな声で礼を言うと親父は満足気に笑んで俺の頭を撫でた。不意に目頭が熱くなって、だけど涙が溢れる前に真理佳が俺の名前を呼んだ。帰るよ、真理佳はそう言うが早いが部屋を出ていった。俺は真理佳の背中を追って部屋を出ようとして、最後に一度だけ親父の方を振り返る。親父はまだ笑っていた、だけど俺が、

「またな」

そう言うと、急に寂しそうな顔になって唇を噛んだ。俺は親父から目を反らすようにして部屋を出て、どたばたと慌ただしく階段を降りた。


*****


「ねえ、マサ」
「なんだよ?」

リビングのテーブルで学校の宿題をしていたマサが気だるげに顔を上げる。そのときの顔つきがあまりにも雅治に似ていたので私はどぎまぎした。

「雅治のとこ行きたい?」
「俺をあいつのところにやるのか」
「違うよ、また三人で暮らそうかって意味」

私の言葉を聞いたマサはほんの一瞬だけ表情を明るくした。だけどすぐに硬い表情を作ってこんなことを言う。

「あんな奴と暮らしたくねえよ、元々好きでもなんでもねえし」
「そっか。やっぱり雅紀は雅治に似てるね」
「はあ?」

嘘ばかりつくところが似ている。だけどマサは雅治と違って下手くそな嘘しかつけない。そもそも雅紀のこれは嘘とは呼べないのかもしれない。世間一般的に見れば強がりの類に入るもののようにも思える。
私の知る限りでは幼かった頃のマサはお父さんっ子だった。神奈川で生まれなのに雅治の口調を真似ておかしな方言を使っていたし、雅治の真似をして私を名前で呼んだ。
きっと今だってマサは雅治を嫌ってなんかいないのだ。雅治の家に行った日の帰り、タクシーの中で酷く寂しそうにしていたマサを見たとき私はそう確信した。そして悩んだ。雅治と離れて暮らし続けることには限界があるのではないかと。

「……ねえ、マサ。コーヒー入れてよ」

溜息と共に漏らすと、マサは私の顔を覗き込んでから頷いた。手馴れた手つきでコーヒーメーカーを扱い、食器棚からコーヒーを注ぐためのカップを取り出す。それから私の方を向いてミルクと砂糖はいるかと問うた。私が無言で首を横に振ると、

「もしかしてあんまり眠れてないの?」

心配そうに言う。私が小さく笑ってそれを否定すると安心したような顔をして出来上がったコーヒーをカップに注ぎはじめた。
よく出来た優しい子だ、しみじみそう思った。誰の育て方が良かったわけでもあるまいに、どうしてこうもよく出来た子に育ったのだろうか。しばらく考えこんだがもちろん答えは出ない。そうしてしばらくすると私と違って親孝行なこの息子にいつまでも寂しい思いをさせていることに対する罪悪感がふつふつと湧き出てきた。そうして意識が今も一人で家にいるであろう雅治のもとへと飛ぶ。雅治はマサ以上に寂しい思いをしているのではなかろうか、私がこの子を独占し続けてもいいのだろうか。……いいはずがない、それでも私は雅治に素直にまた一緒に暮らしたいと言う勇気がなかった。

「ほら」
「ありがとう」

マサが私の前にコーヒーカップを置いた。そうして自分のカップには砂糖とミルクを入れてスプーンでかき混ぜる。
……だいたい、私は未だに雅治が何故私たちを残して実家に帰ってしまったのか分からないでいるのだ。三年前、雅治の両親は義父さんの仕事の都合で神奈川を離れることになった。そして、人が住まないと家は傷むからと言って雅治にあの家を託したのだ。三年前、今日と同じようにコーヒーを飲みながら雅治は私にその話をして、一緒にあの家で暮らそうと言って……何故だろう、そこからが思い出せない。
思考を一旦停止させてマサの入れてくれたコーヒーを口に含む。それを飲み下すとブラックコーヒー特有の後味が口内を犯した。その苦味に思わず顔をしかめる。私は普段はミルクの入ったコーヒーしか飲まないのだ。それでもミルクを足すことはせずもう一口含んだとき、ふと中学生のときに好きだったあの男のことを思い出した。

「コーヒーの後味ってタバコの匂いに似てる気がする」

小さく呟いて、だけどきっとそれは間違っているのだろうとも思う。なにせ二十年弱は昔のことだ、味の記憶も曖昧である。
私の呟きが聞こえていたらしいマサは驚いたような顔をして口を開いた。

「タバコなんか吸ったことあるのか」
「ないよ、ただ昔の知り合いが……あっ」

そう言えばあの日、雅治と同じようなやりとりをした。私は昔好きだった男がタバコを吸っていたと言って、更に懐かしいとも言った。そうしたら雅治は急に表情をくもらせて、家にはついて来なくてもいいと言い出したのだ。今になるとあれは昔の男の話をされて拗ねた結果出た言葉だったと分かるのだが、当時の私はそれを察することが出来ず売り言葉に買い言葉で、最初からアンタになんてついて行きたくないなどと返してしまったのだった。

「馬鹿馬鹿しい……」

あれではまるで恋を覚えたての子供の喧嘩ではないか。どうして三年間も自分の非に気づけなかったんだろう。どうして雅治に謝るという決断が出来なかったんだろう。……ああ、考えても仕方ない。私たちがこうなってしまった理由がようやく分かったのだ、これ以上マサに寂しい思いをさせる理由もないのだ。

「マサ」
「ん?」
「やっぱり雅治のとこ行こう」
「俺はあんな奴のとこ……」
「じゃあごめん、私が寂しいから……三人で暮らそう」

まるっきりの嘘ではなかった。私だって本当は雅治と暮らしたいのだ。
私の言葉を受けたマサは戸惑いと喜びの入り混じったような表情を浮かべながらも、

「仕方ないな」

そう強がった。


*****

それから一週間程してから私は一人で雅治の実家を訪ねた。家の中は前回来た時とは打って変わって片付いていた。

「恋人でもいるの?」
「……ただの気まぐれじゃ、大体籍抜いとるわけでもないのにそんなこと、」
「籍、抜きたい?」

雅治の表情に苛立ちの色が浮かんだ。

「別れ話をしにきたんか」
「違うよ」

間髪入れずに言うと雅治は意外そうにした。安堵しているようにも見える。

「じゃあ、なんで来たん?」
「下見にきた」
「下見?」
「これからはこの家で暮らすことになるから」
「は?」
「私とマサが来たら迷惑?」
「そんなはずないじゃろ……」

そう言いながらも、雅治は酷く動揺しているようだった。

「ごめんね」
「なんで謝るんじゃ」
「分かんないならいいの、だけど……本当にごめんね」
「真理佳……」
「それから……愛してる」
「そんなん初めて言われたぜよ」

雅治は泣きそうな顔をして呟いた。雅治の言った通り、私は雅治と出会ってから一度も彼に愛していると言ったことがなかったし、好きだと言ったこともほとんどなかった。雅治が愛の言葉をかけてくれても冷たい態度ばかりとっていた。そんな素直になれない可愛げのない女を雅治は愛してくれていたのに、今までの私はそのありがたみに気付けていなかったのだ。

「うん、だから……ごめんね。たくさん愛してくれたのに、私一度も素直になれなかったから」
「気にしとらん」
「うそつき、拗ねて私とマサおいてったくせに」
「それは……すまんかった」
「お互い子供だったね、三十も過ぎてるのにさ」

私が笑うと雅治もつられたように笑った。それだけのことがすごく幸せで、これからはそんな幸せが続いていくんだと思ったら涙が出た。

「愛してる」

もう一度呟いて、雅治が頷きながら微笑みかけてくれたとき、私はようやく大人になれたのだと思った。



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