濡れ髪薫る

彼が悪気なしだったことなんて知ってる。
私に褒めてもらおうとしてたんだって、それも分かってる。
普段は猫みたいにいい加減な雅治が、あの綺麗な指でゴミを分別して、今日は燃えるゴミの日だからっていつもより一時間も早く起きてゴミを出してくれた。
それってすごいと思う、本当なら手放しで褒めてあげたかったし、雅治のあの言葉を聞く直前、私は確かに雅治を褒めようと口を開きかけていた。
結局は叶わなかったけれど。


*****

目が覚めたとき、隣で眠っていたはずの雅治がいなくなっていて、私は得体の知れない不安を感じた。
胸がぐるぐるした、なんだか説明のしようがないような、そんな不安。
そしてその不安は的中することになる。
雅治は許しがたいことをした。
大きなゴミ袋に燃えるゴミを入れて捨てた、何故だか寝室に置いていたはずだった所々擦り切れて薄っぺらくなった白いタオルケットまで一緒に。
そして寝間着のジャージを身にまとったままの雅治の薄くて形の良い唇から紡がれたのはこんな言葉。

「あの小汚いタオル捨ててやっといたぜよ」

褒めて褒めてとでも言いたげに浮かれた雅治の顔を私は呆然と眺めていた。
背中に浮かんだ嫌な汗、気分は最悪で怒りと悲しみがこぽこぽと沸き上がってくる。
気付けば沸き上がる激情に任せて私の手の平は雅治の頬を打っており、ぎょっとした雅治に私が投げ掛けたのはこんな言葉。

「死ね!
出ていけ……!」
「なん……」
「あれは……あの小汚いタオルは……私の、私が何より大切にしてる……」

それ以上は言葉が続かなかった。
ただ雅治の顔を見るとまた殴ってしまいそうだったので私は黙ってその場に座り込んだ。
体操座りをして顔を伏せる。
しばらくしてドアが開き、そして閉まる音が聞こえた。
音によって雅治が出ていってしまったことを察した私は声を推し殺して泣く。
声を上げて泣いても誰が聞いているでもない、それでも嗚咽すら洩らさなかったのはきっと自分の惨めさを、情けなさを自覚していたからだ。
たかが小汚いタオル一枚のことで恋人を殴った私は最低な人間だ。
出ていってしまった恋人よりも、もう戻っては来ないタオルのことを思って泣く私は惨めだ。
分かってる、分かってはいるけど……だけど、私はブランケット症候群で、あれがないと満足に睡眠もとれない。
くつろいでテレビを見ることも出来ない。
昔からそうだった。
私が生まれたときに作られたというあのタオルは物心ついたときから殆ど私の傍を離れることはなかったのだ。
だけどそれも今日で終わり。
あれはもう戻ってはこない、結婚まで意識して同棲を始めた恋人もきっとそれに続く。
どちらも失う必要なんてなかったのに、せめて雅治のことは許してやればよかったのに、それが出来なかった私は後悔に後悔を重ねる。
瞼が重い、ああそうだ……今日は休日だから遅くまで眠っているつもりだったんだ。
だから昨日は夜更かしを……雅治と二人でホラー映画のDVDを見た。
雅治はあれで案外臆病なところがあるから怖いシーンになるとそれとなくテレビから視線を反らしてしまう。
私はそんな雅治がおかしくて、だけど笑っているとばれてしまったら雅治を傷つけてしまうだろうとも思ったから口元を隠して笑っていた。
タオルケットを使っ……て、昨日までは……昨日までは確実にここに存在していたのに、タオルケットも、雅治も……。
溢れ出てくる涙をせき止めるために瞳をきつく閉じた。


*****


「あ、雨」

激しい雨音で瞳を開いた私はそこでようやく自分が眠ってしまっていたことに気づいた。
どれくらいの時間が流れたのだろうか。
この雨はいつから降っていたのだろうか。
回らない頭では何も判断出来ない、それが情けない。
額を預けていたテーブルから顔を上げると、何かがひらりと床に落ちた。

「……え」

床に落ちた薄っぺらなそれを目視して、小さな声を漏らす。
床に手を伸ばして確認すれば白いそれはまさしく私のタオルケットで、何故だか洗い立ての薫りがした。
薫りだけじゃない、指先に触れるタオルの布地の感触も紛れもなく洗いたての少しかたいもの。
そして洗いたてのそれは先ほどまで私の肩にかかっていた。

「起きたんか」
「まさ、はる?」
「俺以外だったら問題じゃろ」

たしかにそうだ。
大体うちの鍵は私と雅治しか持っていないんだから、他の人間であるはずもなかった。
座椅子に座る雅治の後ろ姿を眺めれば、今朝見たときと同じままジャージを見に纏っていて、ついでに言うとやっぱり猫背だ。
普段と違うところと言えば縛っていない後ろ髪くらい。
今朝あんなことがあったのが嘘みたいに、いつも通りだ。
私は拾いあげたタオルケットを胸に抱える。

「これ、どうしたの?」
「ゴミ収集車追いかけて回収してきた。
汚れとったけど破れてはなかったけ」
「そこまでしてくれたんだ……」
「……悪かった」
「ううん……私こそ、今朝はあんな酷いこと言ってしまってごめんなさい」
「あんな荒っぽい口調のお前さん、二度と見れんじゃろうからな」

面白いもんが見れた、そう言って雅治は笑った。
汚れたタオルはマンションの下の階に備え付けてあるコインランドリーで洗ったのだという。
雅治が私のためにそこまでしてくれたという事実が嬉しくて、ごみ収集車を追って走った雅治を想像すると愛しくて、私はテーブルの上に放られていた雅治の髪ゴムを持って立ち上がった。

「髪結ってあげる」

私の申し出に対して、雅治は歯切れの悪い態度で応じる。
自分で出来るからいいと言うのだ。

「遠慮しなくてもいいのに」

呟くように言いながら雅治の隣に座り込んだとき、鼻孔を湿っぽい薫りがくすぐった。

「えっ」

驚いて雅治のジャージに視線を移すけど、着心地のよさそうなそれは水に濡れてはいない。
利き手に掴んでいた髪ゴムを床に置いて、結われていないその銀糸のような髪の毛に手を伸ばす。
指にじっとりとした感触が触れる、よく見れば濡れた銀髪がうなじに張り付いていた。

「……雨に濡れたの?」
「ゴミ収集車おっかけとる内に雨が降ってきての、マンションに着いたときにはもう濡れとった。
じゃけどタオル洗っとる内にジャージは乾いたけぇ、」
「……ごめんなさい」

スポーツをする人なのに、雨の中走らせてしまった。
雅治が風邪でも引いてしまったら私はどうすればいいんだろう?
やりきれなくなって俯いていると、雅治がフッと笑う。

「そんな顔せんでええ」
「だけど……」
「お前さんが悲しむと俺も悲しい」

そう言って雅治は私を抱き寄せた。
存外強い力で抱かれて、胸板に顔が抑えつけられる。
少し息苦しくなって鼻で呼吸をしたら乾いたジャージから雨の薫りがした。

「あ……ごめんなさい、ありがとう」

頬を伝ったのは塩辛い涙で、私は雅治にそれを見られてはいけないと思ったからしばらく顔を上げず黙っていた。
雅治が傍にいてくれる、だからこれからは少しずつでもタオル離れをしていこう……なんて思いながら。



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