トウガラシ

『火事によって死亡したのは、……さん、……さん、仁王雅治さん』

「は?」

気怠い昼下がり、雑誌を読むためのBGM代わりに付けていたニュースの内容なんてまったく耳に入ってきてはいなかったのに、知った名前だけははっきり聞き取れたのだから人間の耳というやつは不思議だ。
なんて人体の神秘に浸っている場合じゃない。
ここは東京、高校を卒業して以来疎遠の仁王は神奈川にいるはずで、それから火事が起きたのがどこなのかは分からない。

「……仁王アンタ死んじゃったの?」

事実かどうかも分からないから悲しみで声を震わせたりもせずに私は呟いた。
ただただ不思議だと言いたげに首を捻って、ねえと言った。
事実かどうかは本当に分からない。
確認のしようがないのだ。
進学のために東京に出てきた初日に公園の噴水に携帯を落としてしまった私は家族以外の神奈川の知り合いと連絡を取る手段を持たない。
学生時代親友だと思ってまでいた仁王とさえもう一年も話していなかった。


*****


仁王と私は性格が合うからつるんでいるわけではなかった。
仁王はクラゲみたいに得体が知れない奴で、分かりにくいことが大嫌いな私は初め仁王が苦手だったのだ。
それでも親しくなるのに長い時間を要したわけではなかった。
仁王は中学から持ち上がって高校に上がったいわゆる内部組で、私は外部組で、元々知っていたわけでもなかったから高校に入って仲良くなったのはまったくの偶然。
高校一年生の仁王は受験に追われていたわけでもなかったからかよく授業をフケていた。
いや、高校三年生になってもか。
立海は大して勉強していなくてもそのまま持ち上がりで大学に入れるから授業にまともに出ない奴もたまにはいる。
仁王は頭が悪くなかったからなおさらだろう。
そして昼食を屋上で取っていた私は四限をフケた仁王とよく会いました、そんだけ。
本当にそれだけ、それだけのことで私たちは親しくなった。
仁王がワケの分からないことを言って、私は冷めた返事をする。
私のテンションが高いときには仁王のテンションが低い。
二人のやりとりは周りから見ればちぐはぐだったんだろうけど、私は仁王と話すのが好きだった。
仁王がどう思っていたかは知らない。


*****


あのニュースが流れてから一週間ほどが経った。
今私は神奈川行きの電車の中で窓の外の風景を見ている。
目に入ってくるのは色味の少ない風景だけど脳裏に描いているのは仁王との思い出の数々だ。
神奈川に帰ったら仁王が住んでいた家に行ってみようと思う。
それで家がもしも燃えてしまっていたら……黙って帰ろう。
死んでいるとしたら葬式はもう終わってしまっているだろうから。
大学が休暇中なのにニュースを聞いてすぐに神奈川へ向かわなかったのは問題を先送りにしたかったからだ。
もう既に仁王が死んでしまったという方向で覚悟を決めようという気持ちが強い。
同姓同名の人間なんて早々いるわけがないんだから、あのニュースの仁王雅治が私の知っている仁王だと考えるのが一番自然だ。
私は手にしていた封の切られていない封筒を握りしめそうになって慌てて力を緩めた。


*****


仁王はサボり症だ。
保健のノートをとりながら校庭で行われている男子の体育を眺めて私はしみじみそう思った。
珍しいことに仁王は体育の授業に参加している。
サッカーボールを必死に追う集団の中に仁王が混じっているように……見えた。
実際上から見ていれば分かるのだが仁王雅治はグラウンドの真ん中に突っ立ったままでまったく動く気配がない。
開始したときからまったくブレない銀色に私は軽く脱力した。
そのくせボールが回ってきたら皆が求めているようなところに上手いこと蹴るのだから始末が悪い。
サッカーに集中している男子から見れば真面目にサッカーしているようにしか見えないに違いない。

「バカだなあ」

仁王なんかに騙されちゃってさ。
本当にバッカみたい。

「そうか古畑は先生のことをバカだと思っているか」
「へ?」

ノートに影が出来て、思わず見上げればずんぐりむっくりとした女子の保建兼体育の教師が私を見下ろしていた。
ヤバい、そう思ってひとまず否定してみる。

「先生はバカじゃありません」
「じゃあ、なにに対してバカだと言ったんだ?」
「グラウンドにいる男子です」
「はー……廊下に立ってなさい。
皆は授業を聞くように」

ごめんなさいと呟いて私は素直に廊下に立つ。
サッカーが見れなくなったのは残念だけどあの退屈な授業を受けなくてもいいと思うと嬉しくもあるのだ。
ああ、でもやっぱり仁王がいつまであそこに突っ立っているのか見てたかったな。

「どうして立たされとん?」
「……仁王アンタ体育は」
「飽きた」
「なんで急に飽きたりすんの?」

頭をかきながら呆れがちに尋ねれば仁王はこう言った。

「さっきまで俺を見とった真理佳がいきなりおらんなったからのう」
「私が見てたの知ってたんだ」
「当たり前じゃ、で、なんで立たされとん?」
「サッカー見てたから」
「俺を見とったから?」
「バーカ」

見てたのは仁王単体じゃなくてチームだ。
そりゃあ仁王を見ている時間が一番長かったけどうぬぼれないでほしい。

「いつまで立っとくつもりなん?」
「とりあえず授業終わったら先生に謝りに行ってーってちょっ離して!」

肩に仁王の腕がかかってぐいっと引き寄せられる。
そのまま仁王が歩きだしたから私もよたよたと歩き始めた。

「一緒に立っとくのは退屈ぜよ」
「じゃあアンタだけどっか行けばいいじゃん」

授業が終わって教室を出たときに私がいなくなっていたらあの教師は顔を真っ赤にして怒るだろうし、私は教師に叱られてもなんとも感じないないほどスレてはいない。
それなりに真面目にやって内申ためて出来ることなら都内の大学に通いたいのだ。

「はー……」

結局のところ小さな抵抗なんか無意味に近かった。
今は授業中で大声を出すことも、この場に留まろうとどたばたすることも出来ない。
私は仕方がないと苦い表情をして渋々仁王について行った。


*****


想像はしていたけど、

「やっぱり屋上なんだね」

仁王は私の言葉には何も返さずに屋上のやたら重たい扉付近に腰掛けて暑いと呟いた。
暑いなら屋上になんか来なければいいのに、そう思いながら隣にかけようとすると仁王が気だるげに目を細めた。

「俺の前立って」

そう言って私のスカートを引っ張る。
何事かとは思ったけどとりあえずあぐらをかく仁王の前に立ってやれば嬉しそうに頬を緩めた。

「いい日よけじゃ」
「女の子を日よけに使って自分はモヤシみたいに真っ白なんだからアンタって本当に情けないよね」
「手酷いのう」
「酷いのは仁王じゃん」

仁王の頭上の壁に手をついて右足で仁王の膝を踏みつけてやる。
一瞬顔をしかめた仁王に気分を良くして更にグリグリと足を押し付ける。
ズボンに白い足跡がついてしまっていたけど謝ったりはしない。

「ていうか髪切ればいいじゃん、涼しくなるよ」

仁王の膝を解放してその場にしゃがみ込む。
日よけになってしまう位置関係だということには変わりないんだけどひとまずそこには目を瞑ってうっとうしく伸びた仁王の前髪をかき上げた。
暑さのせいか鋭さを失った瞳と目が合う。

「カッコいいんだからさ、前髪短くてもいいと思うけど」
「頻繁に切るのが面倒じゃ」
「私が切ってあげようか?」
「それはいいかもしれんな……でもよく考えたら駄目じゃ」

なんでよ、仁王お得意の人任せじゃん。
納得して大人しく私に髪を切らせればいいのに。

「真理佳は大学東京に出るんじゃろ」
「まだ先の話だし」
「もう三年の夏ぜよ、あんまり呑気なこと言えん。
来年の今頃にはお前さんとこうして話すこともないんじゃ」
「会いに来てよ、東京」
「真理佳が神奈川に帰って来い」
「えー面倒だし」

軽口をたたきあえるこの関係が好きだ、いつまでも仁王とは友達でいたい。
願いは小さい、きっと叶う。
神奈川と東京はそんなに遠くもないし、私が東京に行ったってなんだかんだで今みたいな関係が続いていくんだ。
二十歳過ぎたら一緒にお酒飲んだりとかしちゃってさ、彼氏の話したり彼女の話聞いたりするの。
あんまり遅くまで飲んでたら彼女に誤解されちゃうよ、なんて仁王をたしなめたりして……そんな未来があればいいな。

「結婚式には呼んでね」
「はあ?」

眉をひそめた仁王がおかしくて私は笑う。
青い空が私たちの未来を約束してくれているような、そんな気がした。


*****


神奈川に着いた。
実家に寄るのは後回しにしてひとまず仁王の家へ向かう。
高校生のときは何度も訪ねたから場所を忘れてはいない。
だけど仁王の家へと向かう私の足は重たかった。
燃えてしまった家が目に入ってしまったらどうしよう。
気が動転して泣くことすら出来ないかもしれない。

「約束破っちゃうよ」

鞄から鋏を取り出して手紙の封を切る。
見てはいけないという約束だったけど、燃えてしまった家が目に入ったら私はきっと封を切る余裕なんかなくなるから。


*****

卒業式は泣くものだと思っていた。
実際卒業の歌を歌っている途中視界がぼやけそうになって、ああヤバイなんて一人で焦ってしまった。
それでも泣かなかったのは下の段で仁王が歌いもせずに欠伸をしていたからだ。
急に全部馬鹿馬鹿しくなって、私は歌うことすらやめた。


たくさんの手紙を持って隣を歩く仁王を恨みがましく見つめる。
仁王へのLikeとLoveの比率は7:3といったところだと思う。
今まではLike100%だと思っていたけど仁王が女の子から手紙を貰っているときに感じたモヤモヤはきっと嫉妬だから30%位のラブはあるんだろう。

「モテる男はいいね」
「好きでもない女から手紙なんか貰っても気味が悪いだけじゃ」
「酷い男」

仁王と別れるのを悲しんで泣いていた彼女たちを気味が悪いなんて言える仁王の気がしれなくて私は一発どついてやろうと右手を振りあげ仁王に向かった。

「あれ?」

そこで気づいた。
仁王の制服から第二ボタンが消失していることに。

「アンタ第二ボタンどうしたの?
なくしたの?」
「好きな女に渡すために自分で外した」
「好きな女いるの?」
「ああ」
「へえ」

なぜだか酷く傷付いた。
心臓がバクバクして上手く仁王に焦点を定めさせられない。
ずっと一緒にいたのにいつの間に?
仁王の全てを知った気でいた浅ましい自分が恥ずかしくて無言のまま歩を進めていく。

「じゃあ、ばいばい」

別れ道で表面上はいつもと同じ調子でそう言って手を振る。
家へ向かって歩きだそうとしたら後ろから仁王に呼び止められた。
振り返った瞬間、私の意志とは関係なく右手が持ち上がる。

「封筒?」

手にのせられた封筒をつまみあげてその場で封を切ろうとすると仁王が慌てた様子で私を制した。

「それは開けたらいかん」
「なんで? なんか固形物入ってるじゃん。
お菓子じゃないの?」
「腐らんものじゃけ開けるな」
「変なの、じゃあ渡さなきゃいいのに」

ええからええからと言って仁王が振り返っていた私の体をひっくり返して背中をぽんと押す。

「今度こそさよならじゃ、気をつけて帰りんしゃい」
「うん、ばいばい」


*****


正真正銘あれが最後の別れだった。
仁王に好きな人がいると分かってしまったからなんとなく気まずくてメールしたりもしなくなった、携帯が水没しても名簿を使って電話番号を調べたりしなかったのもそのせいだ。
このまま縁が切れてしまうのは嫌だと思っていた。
だけどなんとかしようと思うたびに第二ボタンの取れた制服がちらついてしまって何も出来なかった。

「こんなのがきっかけになるなんてな……」

仁王は死んでしまっているかもしれないのに……。
立ち止まってぎゅっと目をつむる。
既に涙が出そうになるのを堪えて封を切った封筒を逆さにしてみた。
手のひらに何か軽いものが落ちた感覚があった。
恐る恐る目を開く。

「……嘘」

手のひらにのっかっていたのは懐かしい立海の男子のボタン、きっと……いや絶対に仁王の第二ボタンだ。

「好きな女って私のことかよ」

そんなのってない。
悩んでたのが馬鹿みたいじゃん、仁王が封を切るななんて言わなきゃもっと早く神奈川に帰ってきたのに。

「もう手遅れかもしれないのに……」

この角を曲がったら仁王の家がある。
燃えていなかったらすぐにでもチャイムを鳴らそう、そして仁王に文句を言ってやるのだ。
燃えていたら……いや燃えてるわけがない。
仁王が死ぬなんてことあるわけない。
歩く速度を早めて、めいっぱい目を見開いて……私は角を曲がった。

「……」

仁王の家はススだらけだった。
庭に生えていた沢山の花が炭を作っている。

「バカ」

涙がこぼれた。
必死に堪えようとするのに頬を濡らし続ける涙は顎をつたって首にまで達する。

「死なないでよ、バカ……もやもやするじゃん」

返事くらいさせてよ。
文句言わせてよ。
LoveとLikeの比率入れ替わったのに、アンタがいないと意味ないじゃん……。

「仁王のバカ」
「は?」
「へ?」

仁王の家の前に座り込んでいると背後から聞きなれた声が聞こえてきた。
間抜けな声を出して振り返る。

「不細工な泣き顔じゃ」
「仁王なんで生きてるの?」

相変わらずうっとうしい前髪の仁王が私を見下ろしていた。

「逆に何で死んだことにされとるんじゃ」
「家、燃えてるし」

ニュースで言ってたし。

「家は燃えたが家族も俺もぴんぴんしとるよ」
「じゃあ別の仁王さん?
……泣いて損した」
「人の告白無視したまま一年も放置しとったくせに死んだと思ったら泣くんじゃな」
「ボタンのこと? アンタが封切るなって言ったんじゃん」

涙を拭いながら小さな声でそう言った。
私の手に握られた封筒に気が付いたらしい仁王は酷く驚いた顔をする。

「今開けたんか?」
「そうだよ、律儀にアンタの約束守ってたんだから……」
「開けるなって言ったら速攻開けると思っとったのに!」
「そんな天野邪気じゃない!」

出来ることなら仁王に殴りかかってやりたいのに、仁王が生きていたという安心から力の抜けた足は上手く機能しない。

「立てない、立たせてよ」
「返事次第じゃ」
「脅しじゃん、それ」
「NOでもいずれ立てるじゃろ。
で、返事は?」
「今度東京に会いにきて」
「はあ?」
「一回じゃやだ、月に一回は来て」

仁王の白い手が伸びてきて力強く抱き上げられた。
どちらかと言えば、昔言ったようにモヤシみたいに細い腕なのに筋肉はしっかり付いているようだ。

「好きじゃ」
「さっき知った」
「好いとる」
「ありがとう」
「本当に……好いとる」
「……私だってそうだよ」

だから、月に一回東京に来て。
私は月に一回神奈川に帰るから。

耳元で呟いた、仁王の私を抱きしめる力が強くなる。
高校三年生の夏思い浮かべていた未来とは違うけど、私達を見下ろす空は今も変わらずに青い。




企画サイト花天月地様に提出しました。



[back book next]

×