えくぼ

「部活と俺どっちが大切?」

そうやって引かれた手を振り払えない自分が嫌い。
比べる対象じゃないと言ってしまえない自分も嫌い。
最後には彼に身を委ねて、また部活をズル休みしてしまう自分が大嫌い。
……こんな奴になりたくなかったのに。

*****

教室でチームメイトが次の試合の話をしているのをぼんやり聞いていた。
いや、違う。
ぼんやり聞いているようなフリをして、本当はしっかり盗み聞きしていた。
レギュラーになれて嬉しいと笑う彼女が憎たらしい。
少し前までは私がレギュラーだったのに。

自分が部活に出ないのが悪いのに彼女に憎しみの情を向けるなんて理不尽だ。
彼女には何の過失もない。
そう分かっていても憎まずには、妬まずはいられない私はとても醜い。
……うんざりする。
今朝彼と喧嘩した。
私が待ち合わせの時間に遅れて彼を怒らせたのだ。
殴られて、文句を言って、また殴られる……いつも通りのたわいもない諍い。
喧嘩してしまったから今日は彼のクラスには行っていない。
お昼もこうして一人で食べようとしている。
否、本当は食べようとなんてしていない。
彼に呼ばれることを期待してパンの袋は開かずに机の上に置かれた携帯をじっと睨んでいるのだ。
あの人が私なしに昼を過ごせるはずがない。

『ブルル』

机の上で携帯が振動した。
ほら、やっぱり。
ホっとため息をつきながら彼からのメールを確認する。
一分以内に俺のクラス来い、か。
相変わらず偉そう、偉くもないくせに。
そう思いながらもすぐに席を立って、彼のクラスに向かってしまう私はやっぱり駄目な女だ。
駄目男に駄目女のカップル、お似合い過ぎて笑えない。

*****

彼のクラスに着いたとき、メールが来てから既に二分が経っていた。
当たり前のように一発殴られた。
今朝とは違って素直に謝る。
彼がこれ以上手をあげる気配はなかったから、彼の前の席の椅子を引いてそこに座る。
彼の机にパンを置いて、無言のまま食事が始まった。
……なんか言わないと。
また殴られる。
パンを咀嚼しながら話題を考えるんだけど、特には思いつかない。
今の感じだと何を言っても怒られそうだ。

「なんで謝りに来なかったんだよ?」
「え……」

口を開いたと思ったらそんなこと?
そんな気持ちが表情に出てしまったのか、また殴られる。

「馬鹿女!」

更に怒鳴られたけど、いつものことだから周りの彼のクラスメートも何も言わない。

「馬鹿男のくせに」

訂正、何故だか口を開いた人が約一名だ。

「跡部……お前今なんつった?」

しかも跡部君。
テニス部部長、生徒会長、顔よし、頭よし、家よし、の彼とは比べ物にならないくらい高貴な人間だ。

「その女は馬鹿女だが、お前はそれ以上に馬鹿男だと言ったんだ」

跡部君の言葉に彼は勿論キレた。
だけど殴りかかりはしない、彼は自分より弱い相手にしか強く出られない情けない男なのだ。

「今日は帰る。真理佳、教師に適当言い訳しとけ」
「……うん」

帰っちゃうんだ。
この状況で帰るなんてとんでもなく小者。
……カッコワルイ。
君らしいとは思うけどさ。

彼が教室を出ていってしばらく経つと、皆さっきのことなんてなかったみたいに通常の状態に戻っていた。
自分のクラスでもないのにいつまでもここに留まるのも悪いからもう帰ろう。
そう思って席を立った私の方に誰かが手をかけた。

「おい」
「跡部君?」

声で相手が跡部君だと分かって、彼の手を振り払うようにして振り返った。
万が一彼が戻ってきて見られたら大変なことになるから。

「何?」

俺のクラスでもめ事起こすなとか?
だとしたら今更だけど。

「何、じゃねえよ。
今日の放課後生徒会室に来い。
書記の仕事がある」

彼と付き合い出す前の私は真面目だった。
生徒会総選挙で書記に立候補して、当選しちゃったりなんかもした。
まともに仕事が始まる前に彼と付き合いだして自堕落になっていたからそんなことすっかり忘れていたけど。
……今までの私の仕事、誰がしてたんだろう?
なんて疑問に跡部君は答えてくれる。

「今まで代わってやってたんだから、今日はしっかり働いてもらうぜ」
「跡部君が私の分まで働いてくれてたの?」
「会長の勤めだからな」
「……ありがとう、今日はしっかり働くからね」

急に申し訳なくなった私は跡部君に向かって深々と頭を下げた。
部活に出なくなってから伸びてきた髪がはらりと頬にかかる。

*****


生徒会室での跡部君との作業は静かに進んでいった。
だけど彼と一緒にいるときのような居心地の悪さはなくて、今の私はむしろ落ち着いていると言ってもいいくらいだった。
カリカリとシャーペンの芯が紙の上を走る音が耳をなぞるのが心地いい。

「こうしていると、選挙の後に生徒会役員でやった顔合わせのときのことを思い出す」

突然口を開いた跡部君に、私はなんと返したらいいのか分からなかった。
とりあえず作業を中断して手元の書類に視線をおろしたままの跡部君を見つめる。

「あのときのお前は笑っていたな」
「そりゃあ笑うよ、普通じゃん」
「笑ったときに出来るえくぼが印象的だった」
「ちょっとコンプレックスなんだよ」
「最近見ねえな」

跡部君が視線を上げて私を見つめる。
私は口を開けなかった。
何を? なんて尋ねなくても分かる。
えくぼのことだ。
跡部君は私に最近お前笑わねえなと言いたいに違いない。

「あいつと一緒にいるからだろ?」
「それは……」
「違うのか?」
「……違わないけど」

彼と一緒にいると酷く窮屈だ。
怒らせてしまったら殴られる、そんな意識でがんじがらめになって、笑うことすら出来ない。

「お前はさっき笑うことが普通だと言ったが」
「うん」
「あいつと付き合っていると普通のことも出来なくなっているんだぞ」
「……分かってるよ」
「じゃあ何で、」
「別れられないの……!」

私は声を荒げる。
今更だ、彼と別れるなんてもう出来るはずがない。

「もう何も残ってないんだもん……」
「なにもない?」
「あの人と付き合いだしてから部活に行かなくなった。
レギュラー落ちして、チームメイトからは白い目で見られて、監督に見放された。
勉強もロクにしてない。
友達とも話せてない……そんな私にはあの人しか残ってないの。
あの人と別れて、何もない奴になるのは怖いよ……」
「何もない奴になるのが嫌だから別れないのか?」

そうだよ。
答えようとしたとき携帯が震えた。
……彼だ。
今すぐ家に来いと書いてある。

「私、行かなきゃ……」
「行くな」

立ち上がった私の手首を跡部君が掴む。
私を見つめる跡部君の瞳があまりにも真っ直ぐで、辛くなった私は跡部君から目を反らした。

「あいつと別れて何も残らないのが怖いのか?
それなら俺様が残ってやるよ」
「な、に言ってるの……」
「そのままの意味だ。
あんな奴とは別れろ」
「意味分からない」

おかしなこと言わないで、言って私は笑った。
乾いた笑い声が生徒会室に響く。

「涙がえくぼまで伝ってる」
「涙? 私、泣いてるの?」
「ああ……泣いてる」
「ヤダな……恥ずかしい。
あの人にみっともない顔見せるなって言われちゃう」

自由な方の手で必死に涙を拭うけれど、拭いきれない涙がえくぼを通り過ぎて顎からぽたぽたと落ちる。
……この涙はなんなんだろう?
私、悲しくて泣いてるの?
それとも、

「あいつのところになんかもう行かせねえ。
お前は俺様の女だ」

嬉しくて?
分からない。

「おかしいよ、跡部君私のことなんか殆ど知らないのに」
「知ってる。
殴られるお前を何度も見た、泣いてるお前も何度も見た。
だけど笑ってるお前が見たいから、俺はお前を俺の女にしてえんだよ」
「……ずるいよ」

そんな殺し文句。
跡部君みたいにカッコいい人に言われて嬉しくないはずないのに……。

「行くな」
「……駄目」
「行くな」
「……駄目」
「好きだ」
「……」

駄目だ……私、もう。
あの人のところには行けない。
心を跡部君に捕らわれてしまった。
何も残らない女じゃなくなってしまった。

「好きだ」
「……うん」

頷いて、携帯を握りしめていた手をゆるめた。
からんと音を立てて携帯が床に落ちる。
跡部君が私を抱き寄せる。
……私は跡部君に完全に身を委ねた。



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