爪痕

「ほぅ……」
「お前なにニヤついてるんだよ気持ちわりい」
「跡部は本当に顔がいいなあ」
「そういうお前は本当に上の下だな」
「声もいいなあ」
「聞いてるのか?」

怪訝そうに眉を潜める景吾にニヤケ顔のまま、うんと言う。
ああ、本当に私の彼氏は夢みたいに顔がいい。声もいい。
素晴らしいとしか言いようがない。

「アンタ、将来はホストにでもなったらいいと思うよ。
それでたくさんの女の人に愛を与えたらいいじゃん、うわー超適職」
「……お前なあ」
「跡部はさ、性格は悪いけど顔は本当にいいよね」
「喧嘩なら買うぞ」
「はは、喧嘩なんてする気ないって」

笑いながらムスっとした跡部の髪の毛を梳くと、瞳を細めて気持ちよさそうにしていた。
普段は俺様何様跡部様な跡部が私の前では動物のように扱いやすくなるのはなんとなく気分がいい。
他の、例えば彼のファンの女の子たちは私が面倒だと言って見に行かないテニス部の練習を毎日飽きもせずに眺めているはずで、それでもこんな表情は見れないのだ。
優越感を覚えてしまうのも無理はないと思う。

「お前は、好きな男がホストなんてやっててもいいのか」
「何それ、今すぐホスト始めるほど跡部の家苦しいの?」

若いのに大変だね、なんて付け足しながら喉の奥で笑うとまた跡部の眉間に皺が寄ってきた。
怒った顔もカッコいい、とかなんとか言おうと思ったけどやめた。
もっと機嫌が悪くなることは分かりきっていたから。

「大人になって俺がホスト初めてもいいのか、アーン?」
「アンパーンチ」
「ふざけるのもいい加減にしろよ、お前は真面目に会話することも出来ないのか」

出来ますよ、出来ちゃいますけど答えにくい質問だったらふざけるしかないじゃん。
恋人ならそれくらい察してほしい……まあ無理か。
これ以上ふざけて跡部の綺麗な顔が鬼みたいになって戻らなくなっても困るから私はしぶしぶ口を開いた。

「大人になったら私は跡部の恋人じゃないから関係ない」
「なんだと」
「真面目にしても怒った顔する、跡部のそういうとこ嫌だわ」
「お前俺のこと好きじゃないのか?」

跡部の顔、怒ってる。だけど悲しそうにも見えて、もしも跡部に猫みたいな耳が生えていたら今は垂れ下がってしまっているだろうな、なんて呑気に考えていた。

「好きだよ。
ナルシストで自分勝手で人の気持ち全然理解出来ない奴だけど跡部は私のこと大切にしてくれるから好き。」
「けなしてるじゃねえか……」
「とか言ってー嬉しいくせにー」
「つつくな、ウザったい」

うわ、跡部のほっぺぷにぷに。
なんか、甘ったるい。跡部とこうやってたわいもない話をしているとどうしようもないくらい幸せを感じる。
幸せすぎて目頭が熱くなって、だけど大人になっても一緒だなんてありえない。
そういうもんだよ、大人になった跡部はきっと私のことなんて滅多に思い出さなくなる。

「私は今の時間を無駄だと思ったことなんて一度もないよ、跡部。だって私独占欲の塊だもん」
「突然何言い出すんだ?」
「別にー」

もしも私と別れても、たまには思い出してほしい。
私がくだらないことを言っていたこととか、跡部が少し怒ったこととか、もちろん全部ずっと続くものではないけど、
だけど今の、思春期にしたこの穏やかな恋は跡部の一部になって一生生き続けるから、私はこの恋が無駄ではないと思う。


*****



「お前、昨日何してた?」
「日曜日?」
「電話出なかっただろ」
「あー」

月曜一時間目から体育でせっかく気分がいいのにこれだ。
本当に面倒な男。
跡部のことを無視するようにして体育館に敷かれたマットに狙いを定める。
静止する彼の声も聞かずに駆け出して、側転からの後方倒立回転。
周りの歓声でいい気になる私とは逆にスタート地点に立つ跡部は不機嫌そうだ。

「跡部ー見てたー? 私の超絶カッコいい姿」
「ああ、しっかり見てた。フィニッシュの調子に乗り切った顔が本気で苛立を誘ってきて不愉快だったな」
「昨日一日電話に出なかったくらいでそんなに怒らないでよ」
「……もういい、お前が昨日何をしていたかぐらい簡単に調べはつくからな」
「ちょっと待って、絶対調べないでよ」

跡部の家なら本当に簡単に調べてしまうであろうと思い私は焦ったような声を出した。
昨日の用事はマズい。跡部に知られてしまったら大変だ。

「調べてほしいなら自分で答えるんだな」
「調べてほしくないことなんだから自分で答えれるわけないでしょ、跡部は賢いのに馬鹿だなあ」
「浮気か?」
「そんな相手いません」

私たちが授業中に痴話喧嘩を始めてももはや誰も気にしない。
それぐらい日常的に、呼吸をするように私と跡部は揉めるのだ。
性格が合わないんだろうなと思ったことはある。
跡部は神経質すぎるし、私は大雑把すぎる。
だからすぐ喧嘩になる。
だけど喧嘩がヒートアップして別れる、だなんてことは想像したことがない。

「お前が好きじゃなくても好かれてる可能性があるだろうが」
「……はー」

跡部は私が好きで好きで仕方ないらしい。
他の人から見たらじゃがいもみたいな私が跡部にはダイアモンドの塊みたいに見えるみたいだ。
これだけ猛烈に惚れられてしまっているんだから喧嘩別れなんてありえない。

「私を本気で好きになるような人は跡部だけだよ」

こうやって殊勝なことを言っておけば跡部はしばらく大人しくなる。
今だって人前なのに私の頭を撫でてくれている。
跡部の手は私の手よりずっと大きくて暖かくて、何故か泣きたくなる。
涙をこらえようとして跡部の体操着をギュッと握ったら跡部が私を抱きよせてくれた。
跡部のお気に入りのコロンの匂いに包まれて心地良かったけど、跡部と付き合い始める前に人前でイチャつくカップルに自己流の呪いをかけていたことを思い出してしまったから苦笑いした。
今この瞬間私も誰かに呪いをかけられているかもしれない。
今になって分かったことだけど、いや、分かるとかそういうレベルじゃない当たり前のことだけど、カップルに呪いをかけるのは無駄なことだ。
二人の世界に入っている幸せな二人に一人のネガティヴなパワーが効くわけがない。
現に今私も跡部と一緒ならなんでも出来るんじゃないだろうかなんていうよく分からない自信に満ち溢れているから。

*****

病院は嫌いじゃない。
私にとってここは幼いころから慣れ親しんだ場所だ。
誰にも何も隠す必要がない唯一の場所だから。

白い壁に前に来たときにはなかったはずの染みがあるのに気づいてからはその染みをずっと眺めている。
初めて目に入ったときは丸い形をしているように見えていたけどじっと眺めていると少しずつ形が変わっていっているような気がする。
この感覚はあれだ、漢字をずっと眺めていたらそれで正しいのか不安になる感覚とよく似ている。

「聞いてる?」
「ああ、はい。最近のマイブームはテニスです」
「スポーツは禁止しているはずだけど」
「どうせ死ぬなら、好きなことやっておきたいって思うのが人情ですよ。先生」

若い眼鏡をかけた医師は困ったように笑っている。
いかにも人の良さそうな彼は私の扱い方がよく分からないらしい。

「君にもう時間がないというのは聞いていた?」
「ええ、染みを眺めつつもしかと聞いていましたよ」
「君は死ぬのが怖くないの?」
「先生はどうですか?」
「僕は死を身近に感じたことがないから分からないんだ」

相変わらず、正直な人だ。
こういうときは嘘でも適当なことを答えるのが大人だろうに。

「怖いですよ、先生。私死にたくありません、なんとかして下さい」
「……ごめん」
「謝らないで下さい、悲しくなる」

私の体に欠陥があっただけだ。
この人は何も悪くない。
誰も悪くない、私の、運が悪かっただけだ。
私を好きでいる跡部も運が悪かったかもしれない。

「水曜日から入院生活に移ってもらうことになったのは聞いた?」
「聞きました、火曜日は祝日なので明日は人生最後の学校です」
「……明日は運動してもいいよ」
「言われなくても、体操は得意分野なんです」

人生最後の大技を決めて、人生最後の歓声を浴びる。
悪くない締めだ。

*****


“大切な話があります”

そうメールしたのが30分前のこと、そろそろ跡部が到着するころだろう。
今、家には誰もいない。
そんな風に言ったら忍足みたいな奴は下卑た想像をするんだろうけど今日跡部を呼び出したのはそんな桃色の理由からじゃない。
跡部に私の爪痕を残そうとしているのだ。
ああ、この言い回しもいやらしいかもしれないけど。



「どうぞ」
「お邪魔します」
「かしこまってるところ悪いけど今日お母さんいないよ」
「先に言え、馬鹿」

苦笑いした跡部が私の頭を小突いた。
だから、やめてよそういうの。
泣きそうになるじゃん、幸せ……感じちゃうじゃん。

「お前の家ウサギ小屋かよ、とか言うなら早く言えば」
「お前は俺のことを何だと思ってるんだ……?」
「俺様何様アホ部様ーアトベッキンガム宮殿の王子様」
「前半部分は見逃してやる、後半はなんだ?」
「あれ、跡部知らないの?
テニス部員が跡部の家に行ったあと忍足が学校で首捻っててさ。
黙って見てたら急にアトベッキンガム宮殿や! とか言い出しちゃってさーマジ爆笑だったわ。
アンタあのときいなかったんだっけ? めっちゃ楽しかったのに」
「あの眼鏡、殴り飛ばす」
「更に笑ったのがさ、技術の時間パソコンでバッキンガム宮殿画像検索したら微妙に地味でさ、跡部の家意外に地味ーマジウケるーみたいな感じになりました」
「お前ら本当にくだらねえな」
「うん、だけど今日はくだらない話これでおしまい。こっから真剣な話」

二人掛けソファの隣に座る跡部の袖を引っ張って、こっち来てと言ったら少し距離を詰めた跡部の唇が私の唇に触れた。
キスしろなんて言ってないんだけど。
ああ、だけどやっぱり跡部とするキス気持ちいいなあ。
私って跡部のこと好きなんだなあ。

長いとも短いとも言えない口づけのあと、跡部の整った顔を見つめる。
跡部の方も私を見つめていて気恥ずかしく思いながらも、今しかないと決断した。
誰かの邪魔が入ることもない、時間もたっぷりある、それに何より最高に幸せな今のタイミングでなら言える。
口内が乾いていくのを感じながら私は口を開いた。

「跡部、私もうすぐ死ぬの」
「は?」

事実をのせたその振動はあまりにもすんなりと跡部へと届いた。
だけど一度では通じない、理解してもらえない。
私はまくし立てるように言葉を続けた。

「私、中学生まで生きられないって言われてて、だから今まで生きていられたのは奇跡なんだって」
「何言ってるんだよ?」
「だけどもう駄目らしい、高校生までは絶対持たないって言われちゃった」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘だろ」
「こんな笑えない冗談、言ったことないでしょ?」

急に空気が冷たくなった気がした。
声はすんなりと出ていったのに体は震えている。

「すごく不思議なの、今まで生きていたことが奇跡だなんて言われても全然感謝できない。
もっともっと生きてたいなって思っちゃうの、人間って本当に欲張りだよね」

跡部の顔が青ざめていてこれ以上言葉なんていらないんじゃないかと思った。
だけど私の舌が止まる気配はない。

「私が欲張りになったの跡部のせいだよ。
跡部が好きだから死にたくない、言ったでしょ? 私独占欲が強いの。
私がいなくなったあと跡部が他の誰かに取られちゃうと思ったら耐えられないくらい苦しい」
「もう、やめろ……」
「何? 跡部、泣いてんの? 初めて見た、跡部の泣き顔。
可愛いね、そんなに悲しい?」
「っ……悲しいに決まってるだろ! 悲しいし混乱してるし、何なんだよ……」

嗚咽を漏らすような泣き方ではなかった。
跡部は男にしては大きい瞳からとめどなく涙を溢れさせていて、私はその涙がとても綺麗だと思った。
私を想って泣いているんだと思ったら尚更だった。

「跡部は本当に私が好きなんだね、嬉しいな」
「当たり前だろ、そうじゃなかったらこんな……!」
「でも知ってた? 私も跡部のこと相当好きなんだよ。
前に大人になるまでは跡部と一緒にいられないって言ったじゃん。
あのとき跡部は捨て猫みたいな顔をしたけどさ、私が跡部を捨てることなんてありえないよ。
跡部は誰からでも愛されてるけど、私ほど跡部を愛してる人はいない」
「古畑……古畑」
「犬じゃないんだから、そんなに何度も呼ばなくても返事くらいするよ。
ていうか跡部、知ってる? アンタ今初めて私の名前呼んだんだ。
それで私、こんな状況なのにそれがすごく嬉しいの」

ああ、跡部の顔涙でぐしゃぐしゃだ。
綺麗な顔なのにもったいないなあ。
私が泣かせてるんだけど。

「跡部、私と一緒にいて楽しかった?」
「楽しかった、お前がいると何でもないことでも楽しかった」
「それはよかった。じゃあ私跡部の一部になれたかな」
「俺の、一部?」
「うん、跡部の一部。
一緒にしたテニスの打ち合いとか、勉強教えて貰ったこととかさ、跡部が楽しいと思ってくれてたなら、跡部の人生が私のせいで少しでも変わったならさ……私は死んでも跡部の一部として残り続けると思うんだ。
跡部が私のこと思い出さなくなっても、私が与えた影響は跡部の中に残り続けるの、すごくない?」
「お前のこと忘れられるわけねえだろ……!」
「ああそう、私カッコいいこと言えないんだ。
跡部に私が死んだら他に好きな人見つけて、なんて言えない。
私のことを忘れないのなら、ついでにさ……私より好きな人も作らないでよ」
「当たり前だ」
「……ありがとう」

その言葉がいつか偽りになったとしても、とりあえず今の言葉で救われたなあなんて思う。
いい恋人を持ったと実感し直して、今の生にどんどん未練が出来る。

「これ以上喋ったら未練出て化けてでちゃうかも」
「お前ならいくら来ても構わない」
「はは、安請け合いしないでよ。
跡部ー私さ、」
「何だ?」
「私、跡部の心に爪痕残せた?」
「ああ、一生消えねえよ」
「うれしいなあ……」
「……古畑、愛してる」
「中学生のくせにマセてるなあ……跡部、だっこして」

私を抱き上げて膝にのせた跡部は軽いと言って笑った。
跡部の首元にぎゅっとしがみついて耳元で嘘つきと言って笑う。
笑っているのに私の頬には涙が伝っていて、少し戸惑った。
跡部の私の名前を呼ぶ声が聞こえて更に涙が溢れてきた。
ぶつけ場所のなくなった感情を発散させるように跡部の背中をひっかく。
力いっぱいひっかく……。



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