サドとマゾは中和しない 「おいドM」 「あのね……」 背中に投げかけられた呼びかけに、唇の端をひきつらせながらも振り返ってしまうのは何故だろうか? ドM、不本意な呼びかけだった。 振り返っているのだから説得力はないかもしれないが、真理佳は自分のこともドMだとは思っていなかった。 自分を呼び止めた赤毛の彼に、そう訴えかけるのだが彼は聞く耳を持たない。 「でもお前好きな奴に殴られたいんだろ」 「殴られたいとまでは言ってない。 背中とか頬とか、尻だとかをパシって打たれたいだけ。 そんだけだよ、ドMとは言えないでしょ?」 マゾの道は長く険しい。 この世に生まれ落ちて十五年の真理佳が極められるような甘っちょろいものではないのだ。 それなのに、ちょっくらいたぶられるのが好きなだけの真理佳をドMと呼ぶ者の多いこと多いこと……しまいには自称サドの男がクラスまでやって来て「俺言葉攻めとか好きなんだけど」だなんて言ってくる始末だった。 学年が同じなだけの接点もない男がサドだろうがなんだろうが真理佳の知ったことではないし、そもそも少し言葉攻めが好きな位でサディストを気取るようなにわか者に真理佳は興味などなかった。 「十分だと思うけどな」 「丸井から見ればそうかもしれないけどさ、私はドMどころかノーマルだよ」 「……お前のノーマルの基準はおかしい」 「いーやノーマルだね。 上手く中和させてるから」 「中和?」 「そうだよ」 得意げに胸を張る真理佳を眺めて、丸井はボソりと呟いた。 無い胸張ってみっともねえな、と。 可愛らしい顔立ちをした彼の口から飛び出した冷たい言葉に真理佳は瞳を輝かせた。 「私、丸井のそういうさらっと私を喜ばせること言ってくれるとこ大好きだよ」 「俺はお前の何を言ってもキレもしねえし悲しみもしないどころか、嬉しそうにニヤニヤするとこが大嫌いだっての」 「傷つくわあ」 わざとらしい言葉とは裏腹に、真理佳の口元は緩みっぱなしである。 真理佳は丸井の口から飛び出す暴言が大好きだった。 彼の罵倒にはわざとらしさやあざとさが少しもないのだ。 丸井はナチュラルに真理佳を罵倒して、喜ばせる。 その後に見せる心底不愉快そうな顔もたまらなかった。 「クソマゾ」 「私はね、丸井みたいなサドじゃない人が嫌そうな顔して私の喜ぶことを言うところを見るのが好きなの。 ノーマルの人に嫌々スパンキングされるのが理想系、ぞくぞくする」 「最低だ……」 「でもマゾではない! だって相手の嫌がる顔が見たいっていうのはサディスティックな性癖でしょ? いたぶられたいってのはマゾヒスティックな性癖……正反対な両者が酸と塩基のように打ち消しあうのよ。 つまり私はサドとマゾの中和して出来上がったノーマル人間、はい論破!」 勢いよく言葉を並べる真理佳は普段の数倍輝いた瞳をしていて空恐ろしかった。 それでも彼女の勢いに負けてしまえば自分の中で何かが折れてしまうと感じた丸井は、一つ深呼吸してしっかりと真理佳を見据える。 冷静になれば焦ることはないのだ。 真理佳の言葉は全面的におかしい。 「何が論破だよ。 人間の性癖は酸と塩基みたいに単純なもんじゃねえだろぃ。 サドとマゾは中和しねえよ、お前そんなことも分からねえのによくマゾの道は長く険しいだなんだってうんちくたれられるな。 恥ずかしくねえの?」 「あっ……う」 「お前はノーマルなんかじゃねえ、ただのド変態だ」 「……ううっ」 ***** SMに関しては素人のはずの丸井に論破され返した真理佳は、その赤らんだ顔を両手で覆って、ああだとかううだなどと短い母音を漏らしている。 言い過ぎたか? そう思った丸井が真理佳に手を差し伸べようとした瞬間、自らの顔から手を下ろした真理佳が口を開いた。 「感動したよ……丸井がSMについてこんなに語れる人だったなんて! 道を誤りかけてた私に正しい道を示して、更にさらっと罵倒してくれるなんて……。 ねえ、丸井のこと変態師匠って呼んでいい?」 愛の告白をするときのような熱に浮かされた表情で、真理佳はあまりにもどうしようもないことを語り、問う。 丸井が首を縦に振ると、少しでも思っているのだろうか? もしも思っているのだとすればとんでもない女だ。 元々頭のネジの何本か飛んだ奴だとは思っていたがここまでとは……この尋常ではなくポジティヴな思考回路を全ての人間が得ることが出来るのなら世界から戦争はなくなるのではないかと思う、それくらいに真理佳はおかしい。 「変態師匠なんて呼んだら、もう一生お前のこと罵らないからな」 「普通に接してくれるならそれはそれで友達として嬉しいよ」 「じゃあ一生無視だな」 言ってしまってから丸井は後悔する。 そんなことを言ってもこの変態は放置プレイだなどと言ってヘラヘラ笑うに違いないのだ。 次に口を開くときにためらいなく自分を変態師匠と呼ぶ真理佳を頭に思い浮かべることはあまりにもたやすかった。 しかし、への字型に口を開いた真理佳の言葉は丸井が想像していたものとは随分違っていた。 「……じゃあ変態師匠とは呼ばない」 「意外だな、お前なら放置プレイだなんだ言って喜びそうなもんだろぃ」 「だけどこれから先ずっと丸井と話せないのは嫌だよ。 私がどんなに馬鹿なことを言っても、丸井はいつも返事してくれるでしょ? 私はそれが好きなの、それがすごく幸せなの。 だから丸井に一生無視される位なら丸井の嫌がることはしないよ」 ぽつりぽつりと語る真理佳は酷く寂しげな表情をしていた。 初めて見る表情だった。 思い返せば丸井は笑顔以外の真理佳を殆ど見たことがない。 立海一と言っても過言ではない程におめでたい頭をした真理佳が自分の、あんな何気ない発言でこうまでしょげてしまうだなんて思いもしなかった。 その場で黙り込んで真理佳の珍しい表情を眺めていた丸井はギョっとした。 先ほどまで口と眉をへの字にして目尻を下げていただけだった真理佳がポロポロと涙をこぼし始めたのだ。 「おま……何で泣いてんだよ」 「丸井に無視される毎日を想像したら泣けてきた」 「想像でかよ!」 さすが変態、想像力も人並みではない。 あるはずもない未来を想像して涙を流す真理佳に、丸井は呆れた。 それと同時に、自分にしかとされるのが辛くて、袖口に口元を押さえつけて音を殺して嗚咽を漏らし続ける真理佳を愛おしいとも思うのだ。 「無視なんかしねえよ」 「本当でございますか……丸井さん」 「んなかしこまるなって。 たぶんしようと思っても出来ねえし」 「出来ないの?」 「だってお前、」 可愛いだろぃ。 なんて勿論言えるはずはなくて、 「ウザいだろぃ。 俺が黙ってたら調子に乗って好き放題言いそうだからな」 「まあ、これがチャンスとばかりに大騒ぎするね」 「やっぱりかよ」 「うむ、やっぱりだ。 だけどさ、やっぱ丸井がいないと騒いでも楽しくないね。 さっき想像でシュミレートしたけどそこはどうにもならなかった。 やっぱり私はドMではないんだよね。 愛がないと生きていけない」 「……お前俺に愛されてるつもりなのかよ」 「違うの? いつも本気でウザそうにしてるのに一緒にいてくれるのは愛故えだと思ってたんだけど」 恥ずかしい言葉をサラっと差し出されて丸井は困惑した。 冷静になって、真理佳と自分の関係を頭の中で洗い直す。 彼女は丸井のクラスメイトだ。 恋人というくくりではない、それで正しいはずだった。 それなのに彼女は丸井は自分を愛しているのだと主張している。 ワケが分からない。 「ねえ丸井、私のこと愛してないの?」 ねえねえと、真理佳は丸井に体を寄せて問い続ける。 自分が立っている場所が廊下のど真ん中であることなど少しも気にしていないようだった。 しまいには、 「愛してるって言いなさいよ」 などと、低い声音を出して脅すようなことを言ってくるのだ。 やっぱり少しも可愛くない。 「逆に、お前は俺のこと愛してるのかよ?」 「愛してる」 丸井の問いに微塵のつっかえもなく答えた真理佳は丸井との距離を更に詰めて何度目になるのかも分からない問いかけをする。 「私のこと愛してる?」 「……っ」 完全に詰んだ、諦めの表情を浮かべた丸井は瞳をぎゅっと閉じて真理佳の耳元へ口を寄せる。 廊下にいる他の人間には聞こえないようにして、たった五文字のその言葉を呟いた。 [back book next] ×
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