緑色した夏 色々な制汗剤の匂いが入り交じった更衣室で着替えを終えた私は棒立ちのまま自分の親指を眺めていた。 ネイルの具合をチェックしたりしているわけじゃない。 ただ昨日出来たささくれにシーブリーズが痛いのだ。 首に塗り込んで数十秒後にくる清涼感と、ささくれにしみた痛みを天秤にかけたけど痛みの方が重たくて顔をしかめる。 「シーブリーズしみる、最悪」 「人から借りておいてその言いぐさ……。 というか日笠はシーブリーズ買わないの? いっつも皆からいろんな色借りてるから好きな色くらい分かるでしょ?」 好きな色かあ。 確か使ったことがあるのは紫、ピンク、オレンジ、黄色、黄緑、青、水色でその中ではピンクと青が好き。 「真紀のピンク以外にもクラスの子が持ってるのは全部使ったことあるから全種類制覇したと思う」 「緑は?」 「緑なんかあるんだ? それが一番好きな匂いの可能性もあるよね」 「人気がないから誰も持ってないんじゃないの?」 「そうなのかな、」 そうかもね、と呟いて室内を見渡すと。 半数以上の子がシーブリーズを持っていた。 「……中学生がこんだけ使っててさ、きっと高校生も使ってるんだからシーブリーズの会社大儲けだよね。 そんなに瞬間あせキュンしたいのかーって感じ」 「日笠も使ってるじゃん……儲かってるだろうけどさ、他の中学の子が学校でシーブリーズ使ってたら叱られるって言ってたよ」 「なんで?」 「うちの学校みたいに緩くないんだよ。 お菓子駄目だし、靴も鞄も指定のだっさいのじゃないと駄目なんだから」 「厳しいね、お菓子駄目なんて死んじゃう」 持ってきたところで友達に一気に食べられちゃうんだけどね。 それにしても……お菓子はともかくシーブリーズも駄目なのか。 大変だな。 「受験してよかったよ」 ピンクのハイカットを見つめながら呟いたら、本当にね、と笑われた。 本当に、本当にだよ。 私はお気に入りのハイカットを家に置き去りになんか出来ないし、学校でお菓子食べたいし、暑いんだからシーブリーズは使いたい。 大体のことには目をつぶってくれる先生たちにほんの少し感謝しながら更衣室を離れた。 ***** 金曜日、体育のあとの四時間目は学活。 毎週のことでやることなんか残っていないから担任はなにも言わずに教卓の前に座っている。 三年生だし、一応は自習をするべき時間なんだろうけど、よっぽど不真面目にしているわけでもない限り立海大附属高校に進学出来てしまう私たちは一部の真面目な子を除いて皆くっちゃべっていた。 もちろん私は一部の真面目な子じゃない。 椅子を反転させて後ろの机に頬杖をつきながらさっき更衣室で聞いた話を丸井に伝える。 「……というわけでうちの学校は他の学校より恵まれておるのです」 「確かに菓子食えねえのは辛いな」 「でしょ? お菓子食べていいとこ、靴が自由なとこ、鞄も自由なとこ……三つも、いや四つもいいとこがあるんだよ」 「四つ? もう一つは何なんだよ?」 「んー」 そりゃあ秘密だよ、丸井には絶対言えない。 だけど最後の一つは私にとってはこの学校で一番好きなところ。 「とりあえずガムちょーだい。 さっきから青林檎の匂いしてるから欲しくなっちゃった」 「ほらよ。 朝ハイチュウの封切ってただろ? ガムやったんだから、よこせ」 「ラスいちなのに……まあいいけど」 ポケットに手をつっこんで残り一つになったハイチュウを丸井に手渡す。 一応授業中だから担任が見ていないかも確認した。 ガムが入っているはずなのにハイチュウを口に含んだ丸井は、私のラスいち発言に目ざとく反応する。 「朝開けて、もうラスいちって……お前食いすぎだろぃ」 「ブー太に言われたくない。 ていうか私が全部食べたわけじゃない」 「あー食われたのか」 「うん」 ハイチュウは学校で食べるもんじゃないね、一つしか食べられなかった。 そう言って笑うと、もう食ったから返せねえぞと言われる。 私はあんぐり口をあける。 「あーん」 「何だ?」 「口移ししてよ」 「ばーか」 そうか、馬鹿か。それもそうだ。 人の口の中でねっちょねちょになったハイチュウなんて普通は普通は食べたがらないし、相手だって渡したくないだろう。 だけど元の所有者は私なわけで、丸井の唾液でねちょねちょなら別に構わないような気がしちゃう恋する乙女なわけで。 というか頑張って理屈をコネては見たけどやっぱり私は馬鹿だった。 大馬鹿。 「ははは」 「間抜け面だな」 「間抜けでケッコーコケコッコー」 口を尖らせる私に丸井は呆れ顔。 せいぜい呆れればいい、いつか目に物見せてやる……って恋する乙女の台詞じゃないか。 ***** じっとり暑い廊下、だらしないと言われてしまうかもしれないけどネクタイを取り払って下敷きで顔をあおぎながら歩く。 だって暑いんだもん、夏なんだもん、仕方ないじゃん。 「やっぱ買っちゃおうかなあ……シーブリーズ」 「買っちゃいなよ。 いつまでも乞食みたいに皆から貰ってばっかじゃ窮屈でしょ?」 「乞食……」 そうか……私のことそんな風に思ってたのか。 「ショッキーング」 「……ばか」 「知ってるさ」 そして本日二度目だよ。 指を二本立てた手を振りあげようとした瞬間、誰かにぶつかる。 ああ、完全に前を見ていなかった私の過失だ。 謝らないと……そう思って顔を上げようとした瞬間にとある香りが鼻孔をくすぐった。 あれ? 「丸井?」 「え、俺?」 「あ……間違いました、すみません」 顔を上げる前に声で丸井じゃないと気がついて、更に顔を上げたらまったく知らない人だったからかしこまって謝る。 私の不可解な言動に首をひねった真紀が事の次第を尋ねてくる前に呟く。 「青林檎の匂いがしたんだもん」 「だから丸井?」 「うん」 「へえー林檎の匂いだけでねえ」 にやにやし始める小憎たらしい真紀の頭を下敷きで叩く。 ぺちんと音がしただけで真紀には少しもダメージがないみたいだった。 「あの人もガム噛んでたのかな?」 「口もごもごしてなかったから、シーブリーズじゃない?」 「シーブリーズ?」 「緑は青林檎の匂いなのよ」 「そうなんだ」 フイと顔を背けてどうでもいいフリ。 だけど内心未だ使ったことのない緑のシーブリーズのことで頭はいっぱいだ。 ……緑色、青林檎の匂い、丸井の匂い。 ***** 「緑色のシーブリーズってガムみたいな青林檎の匂いするんだよ、それでうちのクラスでは人気ないの」 「へえ」 「ピンクのはいい匂いなの」 「欲しいの、シーブリーズ?」 「うーん……」 家に帰って早々、シーブリーズの話を始めた私にお母さんは夕食に使うらしい人参を切りながら尋ねる。 欲しいのかって聞かれたらまあ欲しいんだと思う。 無意識の内にお母さんに要求するようなことを言ってしまったことを反省しながら言葉を濁している私にお母さんは更に質問を投げかけた。 「何色?」 「買ってくれるの?」 「ドンキなら安いでしょ。 で、ピンクがいいの?」 「……緑」 「人気ないんでしょ?」 「うちのクラスではね! でも私は嫌いじゃないし……というか皆とカブるのイヤだし」 なんて嘘。 丸井の匂いが欲しいだけだ。 「ふうん、じゃあ緑ね」 私が緑を欲する理由なんてまったく興味がないようにお母さんは言う。 言って、夕飯づくりにまた意識を傾けた。 「今日の夕飯なに?」 「決めてない」 人参切ってるのに、そんな馬鹿な。 「デザートは青林檎って決まってるけど」 「へえ」 ……タイミングいいなあ。 ***** 人参を刻むお母さんは気だるげな様子だったからなかなか買いに行ってくれないのは予想出来ていたけど、予想よりもお母さんの腰はずっと重たくて私の手元に緑のシーブリーズが届いたのは一週間後のことだった。 そんなにドンキに行きたくなかったのか……。 まあいっか、そんなことより……やったぜ、念願のまる……青林檎の香り! 「とーまーとー真っ赤なふーふーふん」 鼻歌通り過ぎて普通に歌なんか歌いながら手に出したシーブリーズを首や腕に塗り込む。 やっぱり体育後の火照った体にはいいな。 売れるのも頷ける。 「歌うたったりニヤニヤしながら頷いたり……学活とはいえ自由すぎるだろ」 「アンタだってガム噛んでるじゃん」 微妙な表情をする丸井を軽く睨んでガムちょうだい、と手を出す。 「イヤだ」 「……じゃあどうすればいいのよ、この暇な時間。 もうやることない、眠い」 「じゃあ寝ろよ」 「そんな簡単に寝れな……」 欠伸がでそうになって、焦って口を手で覆い隠す。 さすがの私も好きな男に大口開けたとこを見られるのはイヤだ。 「ふぁ……」 ああ、ヤバい。 さっきシーブリーズを手にだしたから青林檎の匂いがすごい。 丸井の匂いだ……目の前にいるんだけどもっと近く感じる。 「古畑? 顔赤いぜ」 「別に……」 「熱でもあんのか?」 「私ビョーキ」 頭の病気じゃないよ、心の病気。 丸井の丸っこくて大きな瞳をじっと見つめて言う。 「恋の病にかかっておるのです」 「は?」 驚いて目を見開く丸井はやっぱり可愛い顔してる。 熱に浮かされたような頭は何故だか今しかないと、私に信号を出していた。 いや、絶対今じゃない。 もっといいタイミングある、そう思うんだけどどうしようもなく舌の動きは止まらない。 「うちの学校のいいところ、覚えてる?」 「完全に話変えてきたな……たしか靴が自由なとこと、鞄が自由なとこと、シーブリーズの類使ってても何も言われないとこだろ」 「うん、だから私は緑のシーブリーズ買ったの」 「なんで緑にしたんだ? 人気ないって言ってただろぃ」 「だって丸井と同じ匂いするんだもん」 「……」 あー……ヤバい、引かれちゃった? まあいいや、引かれても。 このまま言っちゃえ。 「この学校の一番好きなところは丸井がいるところだな、なんて……思ってたりするんですが」 「お前」 「あー! ごめん、やっぱ今のナシ。 丸井みたいなモテ男に告白なんて私ってばおこがましすぎ」 「……ネガティヴかよ! いつもは馬鹿面してるくせに真面目な顔して告白してきたかと思ったら、やっぱ今のナシって……それがナシだろぃ」 おおっとー……丸井君そこで怒っちゃいますか、そうですか。 でも仕方ないじゃん。 フラれて気まずくなって友達ですらいられないとか最悪じゃん……。 「なんで泣くんだよ?」 「フラれたくない……好きなんだもん」 なかったことにしてよ、友達でいさせてよ。 勝手なこと言ってるのは分かってるからさ。 「フったりしねえよ」 「丸井……」 「だから」 「ありがとう! これからも友達でいてね」 「は?」 やっぱり丸井最高。 丸井の手を握りしめて何度も礼を言う。 「おま……そういうことじゃなくて」 「私、このラブがライクに変わるように頑張る!」 「頑張るな!」 「なんでよ?」 「……それは」 俺がお前を、と言いかけて丸井は口をつぐんだ。 周りのクラスメイトが私たちに注目していることに気がついたらしい。 知らない間に髪と同じように赤くなっていた顔からほんのり赤みを引かせて丸井は再度口を開いた。 「馬鹿だと思ってるからだ」 「馬鹿には頑張る権利もないと……!?」 「……バーカ、マジでバカ」 知ってますとも、私は馬鹿です。 だから言葉通りにしか受け取れません。 少しスネくれた私がブスっとした顔をしていると丸井がガムを握らせてくれた。 「ありがとう」 口に含んで噛む。 カリっという音と同時に人工的な青林檎の甘みが私の咥内に広がった。 「暑い、シーブリーズ」 「ほい」 「熱い」 「夏だもの」 「暑いっつうか熱いんだよ、お前のせいで」 「私?」 まったく意味が分からない。 私のせいで熱いという丸井の言葉の真意を追求したりはせずに、不機嫌な丸井がシーブリーズを首に塗り込むのを眺めて、 ああ、丸井の首綺麗だなあ、なんて思ってしまう私の恋が進展するのはまだまだ先の、夏も過ぎ去ってしまったころの話。 [back book next] ×
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