養父との暮らし

 父、という言葉をきいたとき、私の網膜に浮かぶのは、曇り一つない眼鏡を光らせた養父の顔である。血縁上の父と母の記憶はない。五歳までは普通の子供と同じように育てられていたときくが、その頃のことを思い出そうとしても、気がつけば養父のことを考えている。
 病院の跡継ぎとして養子にとった私を、父はとても可愛がっていた。声を荒げて叱られたことはもちろん、仕事で忙しかっただろうに、さみしい思いをさせられたこともない。
 そう、私は満たされていた。常識の範囲内で裕福な父に欲しいものを求めるだけ与えられ、飢えることを忘れ、次第に無欲になっていった私の部屋は、子供のそれとは思えぬほどに閑散としていた。
 あなたの部屋はいつもきれいに片付いていますね。
 夜になると父は私を子供部屋にいざない、決まってそう漏らす。大人びていると褒められているようで誇らしかったので、私はますます無欲になり、余暇には父がかつて好んでいたという特撮の映像物を延々と見ていた。
 父は私たちの家にときたま友人を連れてきた。友人らの容姿や性別に法則性はなかったが、夜に現れて翌日の昼まで滞在していくという点だけは共通していた。
 私にとって彼らはいつだって新鮮だった。また同時に恐ろしくもあった。自分の生活圏内にある未知の存在に対して、私たちは無意識のうちに壁を作ってしまうものだが、彼らに限ってはその壁がないのだ。それどころか、こちら側に踏み込んでくることすらあった。
 父が朝から仕事に出ている日に私と遊んでくれた“友人”の一人に、料理の上手いお姉さんがいた。年齢こそ三十路を大幅に過ぎていたように思うが、美しいひとだったので、今でもおばさんと呼ぶ気にはなれない。
 男と子供の二人暮らしじゃ偏るわよね。
 お姉さんはそれが口癖で、父のベッドから気怠げに体を起こすと、切り干し大根のサラダ、太ひじきの炒め物、缶詰の赤インゲンとトマトジュースで出来たスープなど、いかにも滋養のありそうなものをさらりと振舞ってくれた。しかしあの頃の私は幼く、父に漏らしたことこそなかったものの、野菜や海藻、豆などよりは、肉や卵を食べたがり、彼女を困らせた。
 ここには冷蔵庫がないから……でもそうね、次に来るときにはお肉の餡の入ったオムレツを食べさせてあげる。
 彼女の料理はどれもおいしかったのに、仕事を終え私一人のうちに戻ってきた父がそれに手をつけたことはなかった。それどころか、私がお姉さんのオムレツを食べる日はこなかった。
 次に父が連れてきたのはとても若いお兄ちゃんだった。父の“友人”はいつも一人だけである。父にお姉さんに会いたいと言っても、紳士的な笑顔で受け止められてしまって話にならなかった。父の笑顔にはそういう力がある。お兄ちゃんもそれに惹きつけられた一人なのだった。
 彼はお姉さんに比べると言葉尻こそきつかったものの、愛情深さという点で劣ることはなかった。なにより、彼は私に刺激的な遊びを教えてくれた。一度それを父と風呂に入っている折に披露したことがある。
 そういうのは可愛くありませんね。
 あのときの父の声の低さは忘れられない。その翌日の朝、父が勤めに出てもお兄ちゃんは私と遊んでくれなかった。お前はずっとここにいるのか、と呟いて、父が寝室で使っている眼鏡ケースを撫ぜた。お兄ちゃんは私に、父と自分は恋人同士で、そういう関係を続けていくにはお互いの努力が必要で、しかし、「あいつは人を区別する人間だから、いつまでも愛し続けることは出来ない」のだとうそぶいた。私は、男同士が恋人同士になれるはずがないと反発したが、その反発こそ、お兄ちゃんの言葉を半ば理解出来る年齢に達していたことの証明であった。
 しばらく誰も来ない日が続いて、次に父が肩を抱いて連れてきたのは、垂れ目の女の人だった。私は父に、お兄ちゃんに会いたいとは言わなかった。その代わり、自分はいつまでも父を愛している、とまとわりついた。垂れ目の女の人は、私の念願だった肉の餡の入ったオムレツを食べさせてくれ、それは幸せを押し固めたような味がしたものの、彼女が父の“友人”だった期間は、非常に短く、最後に顔を合わせた朝、こちらに視線を向けることもなく遠ざかっていった背中はあまりにも小さかった。
 しかし寂しくはなかった。私には父だけいれば充分だった。可愛くないと言われた遊びを、父とするようになった今でも、その気持ちに変わりはない。




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