望まない犬2 さらさらさらさら──シャープペンシルの先端が紙の表面をひっかく音だけが部屋に響いていた。 私のルーズリーフの上にはやけに緻密なカエルの胚の絵がいくつも並んでいる。時々陰影をつけてみたりして、「上手く描けたでしょ」なんて言って見せてみても、目の前の男の表情が変化することはない。 「雅美は私とセックスしたくないの」 喉が渇いていた。水の注がれたグラスを掴んだのと同時にそんな言葉が口をついて出ていた。 最近やけに喉が乾くのは、部屋の加湿器が壊れてしまっているからだ。雅美と二人きりでいることに緊張しているわけではない。 だって最近はセックスという言葉を口に出すことに随分と抵抗がなくなってきたし、雅美にこれを尋ねるのは、きっと三回目か四回目。 ちょっと進んだ友達との会話の中ではアレとか、えっちなんて表現を使うそれを、あえてはっきりした言葉で言い表したのは、そうすることによって、照れたり、戸惑ったりする雅美の姿を見ることが出来るかもしれないと期待したからだった。 初めてそれを尋ねたとき、私の心臓は寿命の短い小動物のように小刻みに素早く拍動していた。雅美が頷いて、自分に迫ってくるのを想像すると恐ろしいようなこそばゆいような心地がしたのだ。 喉を潤した私はグラスをコースターの上に戻す。コトリ、と控えめな音がするのと同時に顔を上げると、雅美の薄気味悪い程に底の深い黒い瞳と視線がかち合った。 雅美の唇は、ひくりとも動かない。無言のまま見つめ返してくることが、したいの意なのかしたくないの意なのか、上等なご主人様になりきれない私には分からなかった。 「気持ち悪い」 一度言って生唾を飲み込む。 「アンタは気持ち悪い」 今度は鼻の奥がツンとする。雅美の唇の端が少しだけ緩んだ気がした。 リノリウムの床を、上履きのかかとで叩く。二限目と三限目の間の十分の休み時間は、ほとんど終わりかけている。 それでも生徒達の行き来の激しい化学室の前の廊下で、私は俯いていた。 「そろそろ教室入らなきゃ」 雅美と付き合うようになってからすっかり愛想を失った私が言うと、目の前に立つ男は、「まだいいじゃん」と肩にかかった髪の毛に触れる。 彼とは一年の時に同じクラスで、それなりに親しかった。今は火曜日の一、二限ぶっ続きのリーディングの授業が一緒だ。 お互い勉強に熱心とは言い難いこともあり、授業中は落書きを回したり、小声で話しこんだりして、その流れで彼が三限の化学の授業を受ける教室までついてくることが慣例になっている。 「昨日お笑いのやつ見た?」 「見てない、と思う」 「まあ、あんま面白くなかったんだけどさ」 「あー」 授業が始まりつつあることが気になって、生返事を続けながら教室のドアの小窓に視線をやると、雅美がノートを開いているのが見えた。筆入れから取り出したシャーペンで、何かを書き込んでいる。 そういえば今日、組成式の宿題が出てたんだ。見せてもらえばよかった。 「──で、って聞いてるか」 「あ、ごめん。全然聞いてなかった。宿題忘れてたの気になっちゃって」 「お前って本当に受験生らしくないよな」 「アンタに言われたくないわ」 そうは言ったものの、サッカー部の彼は近場の私大からスポーツ推薦の誘いを受けているらしいので、私とは全く立場が異なる。 「……俺のことアンタとか言うのお前だけだよ」 「ごめん。嫌だった?」 私のことをお前と呼ぶ男だってそんなにはいない。 「嫌じゃない。俺、お前のことが好きなんだ」 は、の口で時が止まった。愛の告白を決行するにはあまりにも乱雑な場所。廊下に疎らに残っていた同級生達の視線が私達の体に突き刺さる。 つと顔を上げると、男の整った顔の造形が目に入った。彼はモテる。私なんかよりずっと。 もしかすると、今現在私の背中や横顔に不躾な目をやる女の子の中に、彼のことを好いている人間もいるのかもしれない。 「そうなんだ」 呟いた瞬間、その辺でたむろしていたクラスメイトが化学室の扉を開いて、私が廊下で告白されている旨を半ば叫ぶようにクラスメイト達に伝えた。 「付き合ってくれるよな」 彼は、形の良い眉を僅かに歪ませて、私の返事を待っていた。 「アンタ去年ユウのこといいって言ってなかった?」 サッカー部のイケメン君ことユウからの告白を退けた日の昼休み、級友は弁当のウインナーを口に頬張ったまま呆れたように言った。 「言ってたよ。カッコいいし、案外優しいし」 「じゃあなんでフったの? まさかあの地味男に義理立てしてるの?」 人の彼氏を地味男呼ばわりした彼女は、ウインナーの端くれをこっくりと嚥下してから、教室内を見渡した。 「東方はクラスでご飯食べないよ」 「そうだっけ?」 「うん」 雅美はもっぱらの学食派だ。以前弁当を忘れてしまったときに、テニス部の南君と卓を囲んでいるのを見たことがある。私と二人でいるときはいつもむっつりとしている男が、南君の前では普通の男子高校生のような笑顔を浮かべていたのが印象的だった。 「アンタって東方のどこが好きなの」 「よく分かんない。背は、低いより高い方が好きだけど、あいつは高すぎて気味が悪いし、髪型がオールバックなの軽く引くし、顔は……目つきがちょっと怖い」 「いいとこないじゃん」 私は小さく頷いて、ペットボトルの中の綾鷹を口に含んだ。舌の上を走る苦味が、昼食時の気だるい眠気を吹き飛ばす。 雅美の好きなとこ……嫌いなところならいくらでも思いつくのに。 「あー……声はいいよ。わりと渋くて、」 あんまり聞いたことないけど、という言葉は胸に閉じて、下唇に軽く前歯を立てる。 「声ねぇ。他にはないの、性格は?」 優しくなかったらいつまでも付き合えないでしょ、と彼女は続けた。 私は曖昧に笑って、それに応じた。雅美は少しも優しくない。少なくとも私には。 「私告白されたときも自分に彼氏がいることとか、少しも考えなかったよ。モテ系の男子に告白されてわりと嬉しかったし」 「じゃあなんで、」 会話がフリダシに戻って、彼女は不満げに眉根を寄せた。それに答えるでもなく、僅かに音を立てた教室の入り口の扉を見やると、財布を片手に立つ雅美と視線がかち合った、気がした。 窓の外は幕を下ろしたような闇に覆われている。数十分前までは西日が差し込んでいたのに、近頃は随分と日が落ちるのが早くなった。 「組成式覚えられないし、覚える気にもなれない」 遮光性のカーテンをきっちりと閉じながら私が言うと、 「お手上げだな」 雅美は平坦な声でそう返す。 化学の宿題がちんぷんかんぷんだから教えてくれ、と部活終わりの雅美を待ち伏せていた私が顔を覗かせとき、真っ先に声をあげたのは雅美じゃなくて、南君と一緒にそこに伴っていた千石だった。 今日告白されたらしいね。断ったよ。東方気にしてたよ。嘘つき。どうかな。くだらない。 千石が肩をすくめる。本当にくだらない。私達のやりとりを聞いていた雅美の表情には一分の乱れもなかった。言葉に険の混じる私と、それをからかうように口元を緩める千石の隣で、南君だけが気遣わしげに眉を下げていた。 東方早く──私は木偶の坊みたいに突っ立っている雅美の腕を、まるで自分の所有物であるかのような乱雑さで掴んで、その場から立ち去った。 コトリ、雅美がルイボスティーの注がれたグラスを机に置いた音で、私の意識は午後六時半現在の自室に引き戻される。 「次に宿題忘れたら留年させるって」 「それくらいのことで留年なんてさせられないだろ」 「化学のフジワラ、すぐにそういうこと言うから」 フジワラは、三十前の痩せ型の男でボート部の副顧問をしていた。私は化学がちんぷんかんぷんで、授業中もぼんやりしているからか、フジワラに頻繁に呼びつけられる。 ガラス戸の張られたスチール製の棚のいくつも敷き詰められた薄暗な化学準備室は、いつ訪れても埃っぽい匂いがするから苦手だった。 宿題が分からないなら、彼氏に教えてもらえ。彼氏ってなんですか。東方だろ。なんで先生が知ってるんですか。先生はなんでも知ってるんだ、次宿題忘れたら留年だぞ。 「先生はなんでも知ってるんだ」 フジワラの言葉を、小さく反復する。雅美はじっと私を見上げた。その視線が鼻について、私は彼の頬を軽く力を込めて張る。雅美はそれを待ち望んでいたみたいに瞬きをした。 先生の目つきは暗く淀んでいて、執拗に私のことを探っているようだった。 「続きをやろう」 雅美は私に殴られた拍子に乱れた髪を整えながら、諭すような口調で言う。 「続きって」 「宿題だ。目をつけられているんだからやっておくにこしたことはない」 「今はやりたくない」 自分では何もしたくないの、そう言ってベッドに腰掛けて手招きする。雅美は静かに頷いて、私の足元に跪いた。 「靴下を脱がせて」 気だるげな所作で足を組みながら言うと、雅美は私のふくらはぎに触れた。靴下の布地と、肌の間に差し込まれた指はしっかりとした存在感をたたえている。 紺色のそれを二足とも脱がされて素足になった私は、雅美の胸板を足の指先で玩びながら、「制服も、全部よ」と呟いた。 雅美の唇が僅かに開く。 「自分で脱げって思った?」 先回りして尋ねると、私の制服のジッパーに指をかけながら雅美は首を横に振った。 「怠惰だな、と思った」 「そうかな」 「初めて口をきいたころよりもずっとな」 「……雅美は前より喋るようになったね」 ジッパーがヘソの位置まで下ろされて、私はゆるく肩を丸めた。雅美は、肩に引っかかったきりの制服の布地を落としてから、私の腰のベルトを緩めた。それを合図にゆっくり立ち上がると、ワンピースに似た形をした制服はストンと音を立てて床に落ちて、私の素肌はほとんど産まれたままの姿で彼の眼前に晒される。 それでも上下揃いの下着は体にぴっちりと張り付いたまま。彼と付き合い始めてから半年が過ぎたけどこの白い布地の奥はまだ見せたことがなかった。 「ショーツは口でおろして」 ブラジャーの金具を自分で外しながら、そう命じたとき、私の皮膚の表面は張り詰めていた。喉がカラカラに乾いて、壊れたきりの加湿器に視線をやりながら息を詰める。そうしていれば雅美のいっそ不気味な程に情欲の宿らない視線のありかも分からなくなるから。 ほのぬるく柔らかな感触が腸骨のあたりに触れる。それが雅美の唇だと意識した瞬間、頭にさっと血が上って、私は自らの足元で跪くその男の肩口を蹴り飛ばしていた。 しかし体格の良い男なので、その程度の衝撃にはビクともせず、その場に泰然としていて、私が何も言えずにいると、一度は離した唇を、再びショーツに添わせる。 さわさわと皮膚の表面が一斉に泡立った。 今度は身じろぎもせずにいると、雅美の唇は緩やかに隆起した恥丘のあたりで止まる。 「雅美、」 怖いと制すればいいのか、もっとと煽ればいいのかも分からずに、私は何度も繰り返し男の名前を呼んだ。 雅美、雅美──雅美。 その間中ずっと、雅美は口を開くこともなく、ショーツの生地越しに私の皮膚を食んだり、ウエストのゴムに歯列を添わせたりしていた。 その内名前を呼ぶのにも飽きてくると、鳥肌もひいてきて、あれだけ怯えていたくせして、いつまでもショーツをおろさない男に腹が立ってくる。 「雅美っ」 今度は僅かに怒気を滲ませて呼ぶと、男はショーツから唇を離した。そうじゃない、と私が漏らすよりも先に、 「告白、なんで断ったんだ」 静かに尋ねてきた。 私は、雅美がそんなことを気にかけるとは思いもよらなかったので脱力して、彼にあぐらをかかせてその膝の上に座り込んだ。 肩にだらしなくぶら下がったままのブラジャーは、雅美が取り払ってしまった。乳首が露出するのが恥ずかしくて、雅美の体にしがみつくと、腰に手を回される。いつになく普通のお付き合いじみた空気感が流れ、私は雅美からの問いかけに答えるのが億劫になった。 「だってユウはカッコいいんだもん」 放り投げるように言う。なんの考えもなしに溢れた言葉だったけど、案外真理を突いている気がした。 「それにモテるし」 付け足してみてから、今度はカクンと頷く。雅美はモテないし、カッコ良くもない。 雅美は、私にとって初めての恋人なので私はそういう男≠ニしか付き合ったことがないことになる。 「ああいうのと付き合ったらやけに卑屈になっちゃいそうだし」 言いながら、雅美はマゾヒストだけど私に対して卑屈なわけではないことに気がつく。 「男相手に気を遣ってへり下ったりする自分はなんかヤなの」 考えを咀嚼するでもなく、ぽんぽん言葉を投げ出す私を見つめていた雅美は、しばらく黙りこくっていたが、 「お前に限ってそれはないだろ」 そういえばこの男も私のことをお前と呼ぶ。 「どういう意味」 分かったような口をきく男のうなじを引っ掻きながら問うと、「不遜だからな」とかえってきた。 殆ど素っ裸で男の膝の上に跨っているような状況なのに、すこしもやらしい雰囲気にならないことに私は焦れていた。 「私たち大人だったら、もうとっくにお酒飲んだ勢いとかでセックスしてたのかもね」 セックスをすれば、処女を失えば何かが変わると思っていること自体が子供じみている。 そんなことを考えている間も、裸の肌の表面は冷えていく一方で、 「鳥肌が」 と雅美が腕のラインを撫でたのに驚いて、肩が大きく震える。 元来私は人一倍臆病なのだ。嗜虐趣味も持ち合わせていない。雅美は私のことを不遜だと言うが、それは大きな間違いである。 「恋人に、こうやって裸で跨られても雅美はなんともないのね。もしかして不能なの?」 不能の二文字は、流石に口に出すことも躊躇われて、自然と小声になる。 「なんともなくはない」 「そうは思えないけど」 上滑りしたようなやりとりを終えて、私はしばらく雅美の体を撫でていた。雅美は、ジムに通うのが趣味だというだけあって、大抵の成人男性に引けを取らないような体つきをしている。筋肉を鍛えるのが好きなような男にはマゾヒストが多いという仮説を私は近ごろ打ち出していた。 「私に、」 魅力がないから、とは何があっても口に出せなかった。それを言った瞬間、私はこの男よりも下の存在になり下がる。それだけは嫌だ。 私は雅美みたいに運動が出来るわけでもないし、英語も化学もちんぷんかんぷん、だからといって絵が上手いわけでもない。雅美と違って、優しそうとか、優しいなんて言われたこともない。 それでも雅美に、他人に、屈服することだけは許容出来ない。そして私を、そういう女にしたのは、この男だ。雅美が、初めて出来た自分の男が、ひざまずくから私はこんな風に。 「萎えた」 体からすっと熱が引いていった。脱ぎ散らかした下着を拾い上げて、今度は雅美の手を借りたりはせずに自分で身につける。 「私、雅美とセックスしてもいいけど、初めての相手がアンタなのは絶対に嫌だ」 言い切って俯いた瞬間、自分はきっとこの男のことが好きでたまらないのだな、と自覚した。 雅美は、しばらく沈黙した後に首を縦に振った。 別れよう、と言ったらまた頷く。 「雅美は、いつでも私の言う通りにしてくれるけど、少しも優しくないね」 私は、この男に優しくされたかったのだろうか。そんなことを考えるとゾッとした。 雅美と別れた翌日から、私はユウと付き合い始めた。カッコいいと思っていた男も、一度自分のものにしてしまえば所有意識が芽生えてしまう。 彼は雅美に比べれば多弁で、私の欲しがる言葉をくれたけど、その付き合いは長くは続かなかった。 「もう会うこともないと思うけど、何か言い残したことは」 卒業式の日、不遜な態度で自分を呼び止めた私に、雅美はどこか眩げな目を向けて、 「別れた日、俺の誕生日だったんだ」 この上なくつまらないことを呟いた。 [back book next] ×
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