お化けでいいから会いに来て ──こちら奥様でお間違いございませんか。 どこか決まりの悪そうな警察官の声がやけに遠くから響いた。 「間違いなく、妻です」 免許証から身元が割れたというのだから間違えようもない。別人のように人相が変わっていたらどうしようかと考えていたが、先日ローンを組んだばかりの車の運転席に乗っていたという妻には、服の外に露出している部分には目立った外傷は見られなかった。 眠っているのと変わらないようなその顔が、東方の心を冷やした。何者であるかの判別もつかないほどに相貌を崩していれば、流石にその場に崩れ落ちていたかもしれない。 お前はやっぱり俺を追いていくんだな。血色を失った女に、心の中で語りかける。 一生そばに置いておきたいと思っていたわけでもなかったが、自分より先に女が死ぬとは思っていなかった。殺しても死にそうにもない図太い女だった。 それなのに、電話で訃報を受けたときには、ああ遂に死んだか、と乾いた心でそれを受け入れた。病院に向かう足取りもいやにしっかりしていた。 妻に出会ったのは十年前だった。大学二年生、塾のバイト講師として働いていた時分だ。 その頃妻は受験生だった。当時の彼女は、人生が八十年続くとすれば、八十分の一にしか過ぎない高校三年生の一年間にほんの少し辛抱して学びに身をやつすことを億劫がるどこにでもいる普通の十七の女で、勉強にやる気を持たせるのに苦労した。もっとも彼女の人生が、三十三年ぽっきりでとじられることをあの頃に知っていたら好きに生きろと言ってやったかもしれないが。 若い彼女の肌は、初めて見た夏には白く輝いていて、そばに寄ると日焼け止めの匂いがした。死んだ女に対面したときに鼻腔をくすぐった血液と消毒液の匂いとは対照的な生の匂いだった。 妻は出会って間もない頃から何故だか東方のことを気に入っていた。清楚げな見かけとは裏腹にはすっぱな笑顔を、顔を合わせるたびにこちらに向ける。 「化学意味わかんなーい」 口癖みたいに言ってまとわりつかれても、初めの内は何とも思っていなかった。たとえ二つきりしか歳が離れていなくても、高校生、ましてやバイト先の教え子と関係を持つなんてありえない。 「先生、ライン教えて」 先生を、せんせいでなくせんせえという舌足らずな発音方法も彼女の子供らしい印象を助長させていた。 「スマホ持ってないんだ」 「つまんない嘘」 「嘘でも本当でもお前には教えない」 「彼女に怒られちゃう?」 小馬鹿にしたような声。妻はいつでも他人を舐めくさっていた。 「高校生のことなんか気にしないよ」 最近では半分同棲しているようになっている一つ年上の恋人の顔を思い浮かべる。彼女は美人ではなかったが、真面目で心根が良かった。実家が税理士事務所を営んでいて、国税に就職することを目標にしている。 「その人のこと大好きなの?」 大好き、子供っぽい言い回しだ。あえて幼げな振る舞いをすることを当時の妻は好んでいた。 「私が先生と同じ大学に行くようになったらその人とは別れてね」 答えずにいると追い討ちをかけるように続ける。東方はそれに対しても何の返答も示さなかったが、実際その通りになった。 春がきて、妻は東方の通う大学に入学してきた。東方は恋人と別れた。妻と付き合い始めたわけでもなく、自然と彼女の家に向かう足が遠のいた。 その頃から妻は東方の恋人のように振る舞うようになった。東方もそれを拒まなかった。その頃にはもうハタチも過ぎていたので、付き合おうという言葉もなしにそういう関係になることに抵抗もなかった。 「ねぇ、雅美の今までに見て一番いいなぁって思った映画ってなに」 妻は、ある時唐突にそんなことを尋ねてきた。たしか電車の中だったと思う。 「……お前は何なんだ」 真っ向から答えるのも照れ臭くて、尋ね返したら、「トトロかな」と白い前歯を見せる。嘘つけ、とも言いにくくて、自分も答えざるを得なくなった。 「白い犬とワルツを、だな。中学生の時に見た」 「ああ」 恐らくは知るまいという予想に反してすぐさま頷いた妻は、「好きそう」と電車の外に視線を移す。 「死んだ奥さんが化けて出るんだよね」 「化けてって、随分な言い方だな」 「昔親が見て泣いてた。何がいいのか分からなかったけど」 「今見たらまた違うかもしれないな」 自分も、初めて見たときには人を好きになったことがなかった。 「どうだろう、その頃からあんまり成長してないし」 「俺も同じようなものだよ」 同調すると彼女はしばらく押し黙った。 「雅美、私のことずっと好きでいてね。そしたら私も先に死んでも、犬にでも猫にでもゴキブリにでもなって化けて出てあげる」 「ゴキブリはやめてくれないか。気づかずに殺しそうだ」 「それは困るね」 移り変わる景色を眺めながら呟いたその横顔は、やけに大人びて見えた、その頃には妻も成人していて、付き合い始めてから三年ほどが過ぎていたが、彼女のことを綺麗だと思ったのはその時が初めてだった。 西陽を浴びて輝いていたあの日の横顔に、先程網膜に焼き付けた死に顔が重なっていく。生きていた頃の顔を、綺麗だと素直に思えた頃のあの顔を忘れたくないのに、血色を失った紙のように白い顔はあまりに鮮烈で東方の胸を焦がした。 遺体を妻であると確認したその足のまま実家に向かう。流石にそのまま彼女を引き取るわけにもいかなかったので、しばしのお別れになった。 「雅美、大丈夫」 おおよその事情は電話で説明していたが、母親の表情には疲労の色が滲んでいた。父親と通夜や葬儀の相談をしていたのだろう。母子家庭で育った妻の母親は数年前に鬼籍に入っていた。 「あなたの手に追えるような人じゃなかったわね」 薄皮まで綺麗に剥いた夏みかんを詰めたタッパーを差し出しながら、母親は揶揄する風でもなく言った。間違いない、と思ったので黙って頷くと、「最後にどんなこと喋ったの」と聞かれる。 「そんなこと聞くもんじゃない」 言いながらも、胸の内には今朝出勤する前、最後に見た彼女の姿が描き出されている。 十年前、ほとんど仕事もしないままに自分と籍を入れてから、一度たりとも朝の見送りなどしたことのなかった妻が、今朝は珍しく東方が顔を洗っているタイミングで一階に降りてきた。 「おはよう」 眠たげなときにあげる声は、出会った時と変わらず舌たらずだ。 「おはよう。珍しいな、こんなに早くに」 顔をぬぐったタオルはおろしたてなのか、やけに柔らかかった。甘い柔軟剤の香りと、女の気怠げな雰囲気が眠気を誘う。 「なんか目が冴えて」 「普段からそうだといいのにな」 「いつも早起きしてほしい?」 「……いや、好きな時間に起きたんでいい」 毎朝顔を見られたら、少しはやる気が出る。そういう普通の夫婦のようなやりとりは自分たちの間にはきっと似合わない。寒い奴だと思われるのがオチだ。 「朝ごはんは」 「食べていく時間ないんだ」 意地を張っていたわけじゃない。今朝は夢見が悪くて、目を覚ますのが普段よりも二十分遅かった。 「そうなんだ。じゃあ明日は」 「もっと早く起きるよ」 「じゃあおにぎり握って、ツナマヨの」 「俺が作るのか」 困ったように眉を下げると、彼女もまた笑っていた。同じタオルでいいと言うので、手渡してから腕時計を確認すると、いよいよ時間がない。 「それじゃあ行ってくる」 「うん」 家を出るとき、振り返りもしなかった。それが最後になるとは夢にも思わなかったし、そうなると知っていても同じようにしただろう。 それでも一度くらいは、あの女と朝食を囲んでみたかった。 日本茶の注がれた湯飲みが机の上に置かれた音で妻の死んだ現実に引き戻される。慌てて握り込んだ湯飲みの表面がいやに熱くて、自分は生きているのだなと実感した。 「今晩泊まっていきなさいよ」 「いや、いいよ。一人で考えたいこともあるから」 「……お父さんにね、雅美を一人にするなって言われてるのよ。変な気起こしたら事だって」 「起こさないよ。案外冷静なんだ」 言葉に出してみるとますます平静になったようで、しばらく鞄にしまったままだったスマホを取り出す余裕も出来た。 警察からの連絡に気がついたのは終業後だったから、仕事用のスマホに新しい通知はない。 プライベートのものには、南から一件着信が入っていた。遺体の確認に向かう道すがらに、妻の訃報をメッセージで報せたきりだった。 今は折り返す気にもなれない。妻の生前、律儀で心根の良い友人には気を揉ませるばかりだった。 妻との関係に翳りがさし始めたのは、結婚して三年ほどが過ぎた頃だった。その頃には妻はもう半分引きこもりのようになっていて、日がな一日ベッドから起き上がることもせず東方の帰りを待つだけの生活を送っていた。 つまらない、と言われたことはなかったが、退屈だったんだと思う。元々付き合いの良い女ではなかったから、連れ立って出かけるような友達もいなかったし、唯一の肉親である母親との関係にも行き詰まっていた。 雅美だけで充分よ、妻にそう思わせられるほど東方は面白い人間ではなかった。むしろ平々凡々。背が高いのと、いくらか体を鍛えている以外には特出したことのない男だ。 「子供、欲しくないか」 ある時そんなことを言った東方に、彼女は冷えた視線を向けた。これは違ったな、と後悔するよりも早く、「気持ち悪い」と吐き捨てられる。出会ってから八年ほどが過ぎていたが、そこまで直接的な否定の言葉を向けられたのは初めてのことだったので動揺する。 「悪かった」 反射的に頭を下げると、大きな溜息がリビングを舞った。 「いらないから」 そう吐き捨てて去っていく背中がやけに小さく見えた。 失敗した。言葉を間違えた。自分の力で彼女と向き合う努力をするべきだった。そんな風に思い悩んでいる内に、妻とはいよいよまともに向き合えなくなっていった。 彼女の産んだ子供を、彼女に似た子供を、育ててみたかったのは自分の方なのだと気がついてからはますますダメだった。 その内彼女は料理をしなくなり、連絡もなしに外泊することが増えた。 冷戦状態が一年ほど続いたある夏の日。その日は、地肌を焼かんばかりに日差しが強くて、駅から自宅までの道のりを歩くだけで額に汗が滲んだ。 アイスコーヒーを飲みたくて立ち寄ったコンビニで、自分は食べもしないのにアイスを買った。出会いたちの頃、塾の机に上半身を預けながら暑いのは苦手だとボヤいていた妻の姿を思い出したからだ。 「ただいま」 返事がないとわかっていても毎日帰宅するときには玄関から声をかける。妻が在宅であろうがなかろうが家中が静かなのはいつもの事だったが、その日は完全に人の気配が感じられなかった。 どこかに出かけたのか。社交性に欠けた女だったのに、関係に不和が生じて以降は余所で夕飯をすませてくることも増えていたから特別気にも留めずに靴を脱ぐ。洗面所で手洗いを済ませて、ネクタイをくつろげながらリビングのドアを開いたとき、東方は膝から崩れ落ちそうになった。 今朝家を出たときにはそれなりの生活感を保っていたその部屋から、主だった家財道具の殆どが失われていた。テレビやBluetoothのスピーカーはもちろん、結婚するときに購入した大理石のダイニングテーブルや、窓を覆っていたカーテンすらも引き剥がされている。 残されているのは冷蔵庫にエアコン、それから昨日取り入れたまま力尽きて畳めずにいた東方の洗濯された衣類。それを広げておいた二人がけのソファまで運び出されていることに気が付いた瞬間、頭の奥がスッと冷えた。 人間はあまりにも大きな驚き、不幸に晒されたとき、かえって冷静になろうとする生き物なのだとその時知った。 二階の妻の自室からは布団や洋服の入っていたカラーボックスが失われている。 妻がもう戻らないことを確信して、東方は彼女が婚約指輪をしまい込んでいた桐箱を開いてみた。 「ない」 それなりの大きさのダイヤを備えた指輪は忽然と姿を消していた。質にでも出して当座の小遣いにするつもりなのだろう。生活力に乏しい女だと思っていたが案外抜け目がない。 「はは……」 がらんどうになったリビングを改めて見渡した東方は、対面式のキッチンの片隅にそろそろ買い替え時かと考えていた炊飯器が残されていることを確認して眉を下げた。とりあえず米は食えることをありがたく感じている自分が惨めで情けない。 それから彼が、炊飯器は残されていても米びつの中身は空になっていることに気がつくまでには三十分程がかかった。 その後しばらくして発覚したことだが、妻は家を出る数日前に二人で積み立てていた定期預金(彼女は一円も入れたことがなかったが)から、三十万を引き出していた。その口座の暗証番号は彼女の亡くなった祖母の誕生日にしていたので、おろすことは容易だったのである。 まだ若い東方にとって三十万円という金額は端金とは言い難かったが、彼女を探し出して返金させるような気力はない。家を出た妻が男と暮らしているのを目の当たりにするのも嫌だった。 金を取られたことは流石に誰にも言わなかったが、妻に逃げられたことは特別秘密にもしなかった。周りの友人や、家族からの気遣いが身に染みて一時は随分と体重を減らしたが、しつこく慰められている内に一人の暮らしにも慣れてきた。 籍を抜いていないことは気がかりだったが、それでも男一人で暮らすのも悪くはないと思えるようになるまでには一年以上かかった。その頃出先で軽微な事故にあった。 郊外にあるアウトレットモールの駐車場で車を停めてエンジンを切ったタイミングで、隣に駐車しようとしていた車にミラーを擦られたのだ。 ぎょっとして車から降りると、隣の運転手は慌てて車を停め直して降りてきた。 「すみません」 姿が見えるより先に慌て切った声が鼓膜に届く。聞き覚えのあるような若い女の子の声だった。 まぶたを瞬かせながら助手席側に回ると、女は目を丸くする。 「あれ、雅美じゃん」 それは紛れもなく妻だった。謝って損したと言わんばかりに、尖らせた唇に触れた左手の薬指には、かつて東方のくれてやった婚約指輪が結婚指輪と対になって輝いている。 「その指輪、まだ持ってたのか」 金を返せだとか、どうして急にいなくなったというような言葉よりも先にそんな言葉が口をついて出ていた。彼女はそれを聞くとますます目を丸くして、「だって買うときどれにするかめちゃくちゃ悩んだでしょ」と笑う。 全く悪びれた様子はない。どうにかしている。 彼女がいなくなってから今日に至るまで、ろくに行方を探すこともしなかったので、「どれだけ探したと思っているんだ」などと家出人を見つけた人間のお決まりの二の句を継ぐことも出来ず東方は押し黙った。 とにかく混乱していたが、当の妻の方は、「あてたの雅美で良かったー警察呼ばなくていいよね」と東方の顔を覗き込んでくる。図々しいのは相変わらずらしい。 「そんなに傷いってないし」 白い亀裂の入ったミラーのカバーを撫でながら彼女は呟いた。 「警察は呼ばなくていい。ただ、」 正式に籍を抜かせてほしい。離婚届に判を押してほしい、自分が言うべきなのはそんな言葉なのだろう。 「ただ?」 しかし彼女は、家を出る寸前とは打って変わって明るい瞳を東方に真っ直ぐに向ける。その声色や立ち居振る舞いには邪気がなく、子供っぽさすら感じられ、一年の放流の後に、結婚生活で溜め込んでいた澱が抜け出てしまったようだった。 「ちゃんと食べてるのか」 想定とは全く異なる言葉が口をついて出ていた。うん、それなりに、と眩げに目を細める妻の手首は細い。 「離婚届、まだ出せてないぞ」 「うん。扶養にも入ったままだね、私ロクに働いてなかったし、住民票も移してないし」 「汗水垂らして働くのはお前には似合わないよ」 その言葉には多少のエゴも混じっていた。彼女の気持ちは分からない。東方が、妻を外で働かせたくないから専業主婦をさせていたのだ。彼女が社会で揉まれてすり減っているところを見たくなかった。 それから、どこで、誰と、どういう風に暮らしているのか尋ねることがどうしても出来ずに沈黙が流れた。妻もまた言葉を重ねるでもなく、かといってこの場から逃れようとするでもなく、東方の胸のあたりを見つめている。 「私、今お母さんと暮らしてるよ」 沈黙を打ち破ったのは妻の方だった。 「この前電話したときにはそんなこと聞かなかったぞ」 先日東方の電話を受けた義母は、あの子はどこに行ったのかしらね、と呑気な声で漏らしていた。 「いくら仲が悪くても、ここ一番ってときには娘と母親は結託するんだよ」 「……仲直りが出来たならよかったな」 「ぷっ」 「なにがおかしいんだよ」 「いやおかしくないけど、雅美って相変わらずめちゃくちゃ普通だなって」 「普通で何が悪い」 言いながらも、“普通”ならとっくの昔に離婚届を提出していただろうと思った。 「悪くない。むしろ嬉しい、変わんなくて安心した」 そういうところを好きになったんだよ、と囁くように言われて、目の奥が痛んだ。頭痛にも似たその痛みをやり過ごそうとしていると、妻は東方の左手の薬指を指先でなぞりながら、 「指輪、まだ捨ててないでしょ。帰ってもいいよね」 いけしゃあしゃあと言う。流石の東方も腹が立ってきて、都合が良すぎると返したのだが、彼女は不敵に笑みを深めるばかりだった。 「なんとなく、雅美は自分が死ぬまで待ってそうな気がしてた」 あれだけのことをして家を出ておきながら、憎まれているという発想はないらしい。 「先に死んで化けてでるって言ったのはお前の方じゃないか」 「ああ、そっか。そうだったね。私が先に死ななきゃね」 つまらないやりとりを続ける内に面倒になってきて、家に戻るという彼女を受け入れた。どうせまたすぐに出て行くだろうと思っていたのに、気がつけば今日までの数年間喧嘩をすることもなく二人で暮らし続けていた。 妻が戻ってきたと告げた時の周りの反応は様々だった。母親は物言いたげに眉をひそめながらも「よかったわね」と東方の肩を叩いた。父親は、「お前がいいならいいが」と難しい表情を浮かべていた。 一番激しい反応を見せたのは、意外にも南で、飲みに行きがてらに彼女が戻ってきたことを伝えると、普段の温厚さからは想像のつかないような強い語気で、「そんなのすぐに追い出せばいいだろ」と言い放った。 妻がいなくなってからその日に至るまで、自分はこの優しい親友の前で随分と情けない表情を見せ続けていたのだろう。心配してくれていることが分かっているだけに返事に困る。 「ただ出て行っただけならともかくカーテンまで剥ぎ取っていかれたんだぞ。ああいう子はお前には似合わないよ」 「あの時は、俺も悪かったんだよ。夫婦なのにまともに関係を修復する努力もしなかったんだから」 「まともじゃない相手とまともに関わろうとするのが間違いだ。……ずっと友達でいたのにお前の考えてることが分からなくなることがある」 南はビアジョッキの表面に浮き出た結露を見つめていた。 「家を出てからしばらくは男のところで暮らしてたんだろ。慰謝料とって追い出せばいいのに」 実家に戻るまでの間妻がどうして暮らしていたのかは未だに分からない。 「どうせ支払い能力もないし面倒なだけだよ」 口では現実的なことを言いながらも、彼女から慰謝料をせしめるようなことは元々思いつきもしなかった。睡眠欲以外の全ての欲に乏しい女は、家に置いておいたところで大して金もかからない。 「もうしばらくは続けてみるよ」 まだ籍も抜いてなかったし、と続けたが返事がないので独り言のようだった。 それ以降はしばらく気まずい時間が続いたが、別れ際には普段の調子を取り戻した南は、「言いすぎた。また何かあったら、いや何もなくても呼んでくれ」と去っていった。たかだか一人の女のことでそこまで親友の気を揉ませる自分が情けなかった。 家に戻ってきてからの妻は、憑き物が落ちたかのように明るくなった。まるで出会った当初に戻ったかのようによく笑い、家事に勤しんだ。相変わらず朝早くには起きられないようだったが、昼からのパートも始めた。 週末の昼食は東方の担当だった。とはいえ、それほど難しいものは作れない。 ──雅美はトーストを焼くのがうまいね、おにぎりは強く握り過ぎてて石みたいだけど。 先週の日曜日、妻はそんなことを言って目を細めていた。 幸せだった。普通の人間並みに子供を持ちたいと考えたこともあったが、このまま夫婦二人で老いていくのも悪くないと思っていた。 それでも時たま、彼女がまた前触れもなくいなくなってしまうのではないかという不安が胸を掠めた。出来ることならいつまでもそばに置いておきたかった。 もしも自分が妻よりも先に死ぬようなことがあれば、化けて出ていたかもしれない。 だけど死んだのは妻だった。 死というのは、もっと劇的な物だと思っていた。まともに体を動かすことも出来なったような老人が亡くなるのならまだしも、妻はまだ若い。 妻はあっけなく死んだ。交通事故だった。信号無視をして交差点に突っ込んできた車が、運転席に突っ込んできたのだという。 そこにドラマはなかった。彼女は愛人を助手席に乗せていたわけでもなく、実は二人の子供を妊娠していたというようなこともなかった。買い物に出ようとしていたのだろうが、行き先も分からない。 本当に突然だった。未だ思考が妻の死に追いついていない。だから涙も流せない。 「ただいま」 いつもの癖で玄関から声をかける。妻からの返事はもちろんない。 妻が化けて出るかもしれない、革靴の踵を揃えながら、つまらないことを考えたが、家中には人の気配どころか、自分以外の生き物の呼吸すら感じられなかった。 そのくせ、リビングの戸を開くと対面式のキッチンの内側で炊飯器の液晶が輝いているのが見える。食欲もないのに蓋を開けてみると、透き通った湯気があたりに広がった。炊き上がった米の甘だるい匂いが鼻腔をくすぐる。 粒の立った白米の上にはふやけた昆布が鎮座していた。おにぎりを握るとき、妻は必ず米を昆布と炊き込むことにしている。 冷蔵庫を開くと、小さなタッパーの中にマヨネーズの絡んだツナが入っていた。 「明日の朝まで待てなかったのか」 喉元から苦い物がせり上がってきた。たまらなくやるせないのに、どういう表情を浮かべたらいいのか分からなくて口角を持ち上げた。涙の一滴でも溢そうものなら、もう二度と立ち直れなくなってしまう気がした。 すぐさまおにぎりを作る気にもなれずにツナマヨを残したまま扉を閉めると、目線の高さのところにメモが貼り付けられているのに気がついた。 ──お誕生日おめでとー! プレゼントはベッドサイドの引き出しの中に入れてます。 気の抜けた筆跡で残されたメッセージを見て初めて、今日が自分の誕生日だと気がついた。 「口で言えばいいのに」 ぽつりと呟くと、「だって恥ずかしいでしょ」という声が聞こえた気がした。誕生日の夕食がツナマヨのおにぎり、というのもいかにも妻らしい。 部屋の中に残された女の痕跡を辿るたび、頭の奥が鈍く痺れていった。東方はこみ上げるものを堪えながら、二階の夫婦の寝室に向かった。 昼間の内に洗濯をしたらしく、シーツが新しいものに変わっている。妻の残り香が消えてしまったことを口惜しく思いながら、ベッドサイドのキャビネットの引き出しを開いた。 婚約指輪の入った桐箱と、六枚入りのコンドームの箱の並んだ下には、茶封筒が伏せられていた。まさかこれが、と思いながら持ち上げてみると、存外に厚みがある。 中にはピンと角の立った一万円札と、“お金返すね、いつもありがとう”と書かれた紙切れが入っていた。数えてみると札は十五枚入っている。 「足りないな」 お前らしいよ、と笑いながらしばらくそれを見つめていると、いきなり視界が滲んだ。 一度は愛想を尽かして出ていった、面白いとはお世辞にも言い難い男の部屋に過ごした数年間、妻は何を想っていたのだろう。 この味気のない誕生日プレゼントを、引き出しの内側に忍ばせた瞬間の妻の悪戯っぽい笑顔を想像して東方は唇を噛んだ。 妻は、幸せだったはずだ。そう思うことを、東方は自分に許した。 彼女は幸せだった。自分を愛していた。 押し殺そうとしても漏れる東方の泣き声を、窓際の花瓶に挿された向日葵の花だけが聞いていた。 [back book next] |