ゆっこのカレシ

「なんや今日髪とぅるっとしとって可愛いなぁ」
 我が家から徒歩二分。今夜の待ち合わせ場所に選んだコンビニの雑誌売り場に現れた忍足君は、開口一番そう言った。
「とぅるっと……」
 心の中ではガッツポーズを決めてるくせに、訝しげな顔を作ってみせる私に、忍足君は首を傾ける。
「なんか変やった?」
「別にー……てか敬語、一応年上なんだからね」
 年上よりも、一応に力を込めて言いながら読みかけの雑誌を棚に戻す。
「ほんまに綺麗やなぁ。いつもひっつめとるとこしか見たことないもんなぁ」
「飲食店だからね。というか、変態ぽいよその言い方」
 素っ気ないそぶりで言いながらも、隣を歩く彼と、そのセリフが欲しかったのよ! と大袈裟に喜びながらスクラムを組みたい衝動に駆られる。
 忍足君が言うところのいつもの私の髪の毛は、とぅるとぅるとは程遠い。強いて言うならバサバサだ。多分百均で買った安物のホウキよりは少しマシってレベル。
 それをとぅるとぅるに整えてくれたのは、昼間に行った美容室で施術された七千円のトリートメントだ。七千円! どう考えたって高すぎる。
 それでも、トリートメントと毛先カットを終えた私の髪の毛は、美容師さんが「手触りいいでしょー」なんて声をかけてくれるまでもないくらいにとぅるとぅるで、私は、家に帰るまでの間も生まれ変わった自分の髪の感触を楽しむみたいに何度も何度もそれを触り続けながら、夜に会う約束をしていた忍足君のことばかり考えていた。
「なんでそんな黙り込んどん」
「別に、話題もないし」
 元々お喋りなタイプでもないから、と付け足す私の事を忍足君はどう思っているんだろう。まあ普通に、どうとも思ってないか。
「今日何作ってくれるん」
 ただの飯炊きババアとか……一応どころか、四つも歳上だし。
「秋刀魚買ってるよ」
「へぇ」
「青魚嫌い?」
「いや、魚はなんでも好き」
 そう言えば、ラインしてた時に魚の三枚おろしが得意だって言ってたな。
「内臓食べるかどうか分からなかったからとりあえず抜いたよ」
「つぼ抜き?」
「うん」
 内臓食べるかどうかは答えないのか。食べるって言われてももう捨てちゃったけど。
 取り留めのないやりとりを続けている間にマンションの前まで辿り着いて。私は階段を登り始める。後ろからついて来る足音は、私のそれより少し低い。部屋のある三階までが、普段よりも遠く感じられた。
 それでも永遠に階段を登り続けるわけにもいかなくて、三階の角部屋の前で、「ここ」と立ち止まってみせた私は顔を上げる。今日初めてまともに見れた忍足君の顔は、やっぱり私好みに整っていた。
「女の子の部屋入るん久しぶりやわ」
「ゆっこの家には行かないの?」
 ゆっこ実家やからなぁ、と忍足君が返すと同時に鍵穴に入れた鍵を回した。ゆっこは、忍足君の恋人だ。私が働いているカレー屋の後輩で、大学一回生。笑顔の可愛い邪気のない女の子だ。
 私と忍足君は、四ヶ月程前クミンとコリアンダーの香りに包まれたカレー屋の店内で出会った。ゆっこは、「私の彼氏君です。高校三年生なの、見えないでしょ」って無邪気に笑っていて、私はその隣で馬鹿みたいに口を半開きにして忍足君を見つめていた。
「部屋キレーにしとんやね」
「普段は滅茶苦茶だけどね」
「俺のために片付けてくれたんや」
「人が来るときくらいはね」
 友達はあまりいない。だから、というわけでもないけど、八畳の部屋には座椅子も座布団もない。
「適当に座って」
 私が声をかけると、忍足君は迷いもせずにベッドに腰掛ける。それを咎めれば、意識していると言っているようなものだから、私は何も言わずに部屋から出て行った。キッチンは玄関から入って浴室と向かい合わせに廊下についている。
「せっかく来たのに寂しいやん」
 言いながら、一度は忍足君がこちらへ顔を覗かせる。ドア枠の上部と頭の距離がいやに近くて、背が高いんだな、としみじみ思う。
「テレビ見ててもいいよ」
 言いながら、私は家を出る前に塩をふっていた秋刀魚の中央に包丁を入れる。先に切っておいてから塩をふっておいても良かったのかもしれない。
「日曜は面白いのないやろ」
「それなら若者なんだからスマホでも弄ってたらいいでしょ」
 忍足君と話す時の私は、やけに年上ぶった言い回しばかりしてしまう。普段は、普通の大学生らしく、人並みに砕けた人間なのに。
「スマホに用もないしなぁ」
「もう、あんまり話しかけたら料理の邪魔だって」
 斜めに体を両断された秋刀魚は、フライパンのホイルシートの上。それ以外のおかずは美容室から帰ってきてから準備して、もう冷蔵庫に入っている。邪魔だと言うほどやらないといけないことなんて、本当はない。
「ゆっこにここに来ること言った?」
 私が忍足君を意識するように、彼が私を意識することはないだろう。男子高校生からしたら、大学四回生の女はオバさんみたいなもので、ここに来て二人きりになることにやらしい意図なんてあるはずもない。
「言わへんよ。流石に嫌がるやろうし」
「……嫌がるかな」
「彼氏が他の女の子と二人きりになるの嫌がらん女子はおらんやろ」
「女の子?」
 自分の鼻先を指差した私に向かって忍足君は頷いてみせた。
 彼氏は、私のことを友達や、身の回りの人に話す時に俺のオンナと呼ぶ。古臭い上に偉そうな、馬鹿っぽい言い回しだけど、本当は臆病で繊細なくせに人前では粋がってしまう彼の性質を私は愛しんでいた。
 それなのに、こんな四つも年下の、高校生男子に女の子呼ばわりされて、ポップコーンみたいに破裂しそうになるこの胸はなんなんだろう。
「俺にも多少のやましい気持ちはあるし」
「やましい……」
 動揺して、ハンドソープを三プッシュもしてしまった。当然、と返した忍足君が私の手のひらから出し過ぎたソープの一部を取って泡だて始める。
 二人並んで、手を洗う。ゆっくりと、丁寧に。忍足君は、指の一本一本まで長くて、綺麗で、私の下心は破裂寸前だ。
「指綺麗だね」
 うわ、キモい。何言ってんの私。
 セクハラ親父みたいな台詞を、一度吐き出してしまったのだから仕方ないと開き直って不敵に口角を上げてみる。
「よく言われるわ」
「さいですか」
「なんや含みあるなぁ」
「べっつにー」
「なんか手伝うことある?」
「いや特に」
 そこで無言。居心地の悪いような類のものではない。忍足君は私の顔をじっと見つめていた。
「さんまもう焼くね」
 換気扇のスイッチを入れて、ガスのつまみを回す。カチカチという音と共に火が灯るのを確認してから、忍足君をキッチンから追い出した。彼がベッドに腰掛けたので、私は向かい合うみたいに床に座る。
「隣座りや、寒いやろ」
「いいよ、ゆっこの彼氏だし」
「自分も彼氏おるもんなぁ」
「おりますよー」
 変なイントネーションで返したら、笑われた。
「付き合って三年目。二個上で、元々憧れの先輩で、たぶん結婚する、したい、するのだ」
 最後の一言は諦観に似た願望で、ベッドの上の忍足君はそれを見透かしてるみたいな目つきで私を見下ろしていた。
「なんでそんな説明口調なん」
「年下は対象外なの、私。とって食ったりしないから、安心して」
 自意識の塊みたいな台詞を吐き出してしまって、自己嫌悪の情に襲われる。
「そんなにはっきり言われるとショックやわ」
「うそっぽい」
 言葉とは裏腹に、忍足君はどこまでも泰然としている。ショックやわ、はこっちの台詞だ。バカ。
「俺が来ること彼氏に言った?」
「わざわざ言わないよ。高校生にご飯作ってあげるくらいのこと」
「高校生言うてももう十八やし。自分は対象外やと思っとっても彼氏はいい気せんのちゃう」
「そういう言い方子供っぽい……」
「その子供っぽい男とご飯食べたらなんするん?」
 忍足君は時々、というかほとんどいつも私よりも大人びた顔をする。
「大富豪とか」
「トランプあるん」
「……ない。だから、ご飯食べたら、」
 すぐに帰りなさい――と、言わないといけないんだと思う。だけど、普段は素直な私の舌の根は、今はタコ糸かなんかでぐるぐるに縛られちゃったみたいに固まっていた。


 忍足君とどうにかなりたいわけじゃない。
 私は、忍足君の顔が好き。誰にも邪魔されることなくずっと眺めてたいって思ってしまうくらい、彼の見かけは私の好みにドンピシャだ。
 ゆっこに初めて連れてこられた日以降、忍足君が店に足を運ぶ回数は加速度的に増えていった。はじめのうちはゆっこの出勤日にやってきて、ゆっこのバイトの退勤時間に二人で帰る姿をよく見かけたけど、通い始めてしばらく経つと、忍足君は私しかバイトがいない日にも来るようになった。
 俺のカレーがよほど気に入ったんだな! って店長は嬉しそうにしてたけど、後から聞いたら住んでるマンションからうちの店まで徒歩五分くらいらしい。
 すっかり店の常連になった忍足君は、ごく稀に学校帰りやねんと言って制服のブレザー姿で店に現れる。普段は未成年にはとても見えないけど、その姿を見ると本当に高校生なんだなと、しみじみ実感する。大学四回生の私からすると、忍足君は四つも年下で、そもそも後輩の彼氏で、いくら見かけが好みだからって意識していいような対象じゃない。
 ゆっこが今度三人でどっか行きましょーよーと三人のライングループを作ってくれたのは、ふた月くらい前。大学生的には夏休み真っ盛りの八月の終わりだった。その日の夜、「俺はもうすぐガッコー始まるんやけど」と、マターパニールを食みながら笑っていた忍足君を、ラインの友達に個別に追加するかどうかで、私は二時間も三時間もiPhoneを握りしめたまま悩んでいた。
 彼とどんなやりとりをしたいわけでもなかった。ただ、己の好みどんぴしゃな男の子を、自分の友だちリストにコレクションみたいに追加しておきたい欲求が私の胸の中で渦巻いていた。その時点では、忍足君は私の中でまだそれくらいの存在でしかなかった。
 ゆっこの彼氏。店の常連で、ゆっこありきで顔を合わせれば多少の会話はする程度の薄い縁。
 深夜零時まで悩んだくせに、グループトークだけ出来れば充分だなって日和った結論を出した私が、iPhoneをベッドに放ろうとしたその時、ラインに新しい友達が追加された。相手は忍足君だった。
 その後すぐに、「今晩電話してもええ?」なんてメッセージまで届いて、頭の中はますます大混乱だったけど、「遅くならないならいいよ」って返したら、すぐさま電話がかかってきた。その日は、二十六時まで話した。
 結局グループトークはほとんど動かなかったけど、それからも毎日個別にメッセージのやりとりをして、お互い恋人と会わない日は長電話もして、だけど顔を合わせるのは店の中だけで、しかもその店の中では相変わらず殆ど言葉は交わさない。
 ゆっこはとても可愛くて、人懐っこくて、店が暇になると私に忍足君の話をした。素敵な彼氏を自慢したいって気持ちと、大好きな先輩と彼氏に仲良くしてほしいって気持ちが同時に存在してるみたいで、忍足君と三人揃った時には、彼に繰り返し私の話をしていた。
 忍足君は、私が一人っ子だってこともうちのお父さんが警察官だってことも電話で聞いてて知ってたはずだけど、ゆっこの話を聞くたびに「へぇそうなんや」って初めて聞いたような顔をして頷く。
 私は、ゆっこから「侑士君はお姉ちゃんいるんですよ」とか「侑士君のお父さんはお医者さんなんですよ」なんて聞かされるたびに、この前電話で聞いたなぁ私と同い年で地方の大学の医学部なんだよねとか、大学病院の先生なんだっけ? なんて考えてしまう自分が大嫌いだった。
 よくよく考えたら変な関係だな……殆ど毎日電話してるのに、直接会ったら知らんぷりって――そんなことを私が考え始めていたある日、忍足君が突然、「もうカレー飽きたわ」と電話口で言った。
「家のご飯食べなよ。お母さん料理してくれないの?」
 素気無い態度で返すと、「うち、親おらんで」と一言。
「えっ」
 触れてはいけない部分に触れてしまったかと思って焦ったけど、詳しく聞いてみると何のことはない。お父さんが仕事の都合で大阪に移ることになったので、お母さんもついて行ったのだと言う。
 大人びているとはいえ、忍足君は高校生だ。高校生を一人残してついて行くなんて、親御さんたちアツアツなんだねとからかう私に、忍足君は、「うちの親父何度か不倫しとるからなぁ」と今度は本当に反応に困る言葉を返した。
「ブランド物のバッグとかアクセサリーくらいならまだええけど、愛人に車とか買われたら困るやろ? 見張りが必要やってお袋が出て行ってから、俺一人やねん」
「なんか……すごいね」
「オモロイやろ」
 少しも面白くはない。だけどスマホの向こう側の忍足君の声は飄々としているので、「うーん」と濁しておいた。
「やから外食か出前ばっかりでつまらんわ」
「料理しないの?」
「出来ると思うん?」
「ううん。でもそれならゆっこに来てもらえば?」
「男の一人暮らしで散らかっとるから呼びにくいねん。付き合っとる子、料理させるためだけに呼ぶんってなんか嫌やし」
 忍足君は、ゆっこにすごく優しい。ゆっこが店のテーブルで、まかないを食べる時なんて、椅子まで引いてあげる。
「ふぅん。じゃあうちきたら、なんか食べさせてあげる」
 その台詞は、あまりにも滑らかに口から零れ落ちた。忍足君のやけに艶っぽい声は、私に前のめりの下心を隠す術すら忘れさせる。
「じょ、」
「ほな行かせてもらうな。今度バイト休みで、彼氏と会わん日いつ?」
 冗談だよって言い切るよりも随分早く詰められて、私はベッドの上で身悶えした。今度の火曜日、と返した声が分かりやすく震える。
「分かった。楽しみにしとくわ」
 そのまま通話が終了する。普段なら絶対日をまたぐまで話をするのに、時計を見るとまだ十一時半を少し回ったところだ。
 心臓が痛くなってきて、彼氏に電話をかけたら、普段通りのちょっと粗野な声が胸に沁みた。今度高校生の男の子にご飯作ってあげるんだよーとは、ふざけた口調でも言えなかった。


「ご飯食べたら?」
 忍足君の眼鏡の下の、冷えてるのか温いのか分かりにくい瞳が私の内側のどろどろした物を搦めとっていく。
「……あなたはどうしたいの?」
 口に出してみながら、卑怯な質問だとは自覚していた。四つも年下の高校生の男の子にこんなことの選択権を委ねるなんて馬鹿げてる。
 一度深呼吸をしてみる。波打つ心が治まることはないけど、少しはマシになった。
「今のなし。今日はやっぱりご飯食べたら帰って。それでもうここには来ないで。ごめんね誘ったりして、ゆっこには、」
 矢継ぎ早に言ったくせに、「内緒にして」の一言が続かない。それを言ってしまうと、本当に悪いことをしてしまったと自分の首を締めることになりそうで恐ろしかった。
 きっと忍足君は、口止めなんかしなくたってゆっこに今日のことを話したりはしない。忍足君は、ゆっこを傷つけるようなことは絶対に口にしないのだ。
 それ以上何も語れないまま、忍足君の、薄いけど形のいい唇が、言葉を紡ぎ出す前に立ち上がる。今は食事の準備に集中しよう。美味しくご飯を食べてもらわないと、彼を帰すことも出来ない。
 キッチンからさんまの皮の焼けるいい匂いがする。火を途中で弱くしようと思ってたことを忘れてた。
 ここからではその気配は感じられないけど、蓋を開けて焦げてたらかなりショックだ。だって去年上がったものだとは書いていたけど、一尾六十九円の塩さんまはどう考えたってお値打ち品だもん。
 ベッドに腰掛けている男の子のことは極力考えないようにして、部屋を出ようとした。だけど手首を掴まれて、それは叶わない。初めて触れた忍足君の指は、私の尺骨にぴたりと絡みついてくる。
「俺がどうしたいのか言うたらあかんの」
「さんま、焦げちゃう」
 サラサラしてると思っていた忍足君の手の平が、やけにしっとりしていたから、案外冷静な声で返せた。
 手首を掴まれた状態のままゆっくりとコンロの前まで移動して、火を弱める。さんまをひっくり返すために恐る恐る蓋を開いたけど、幸い焦げたりはしていなかった。
 百均で買ったトングを使って、さんまの身を一つ一つ裏返しながら口を開く。
「私もどうしてほしいか言ったわけじゃないから、忍足君も言わないで」
「そういうのズルない?」
「ズルいよ。大人だもん」
 頭側と尾っぽ側で分断されたさんまの、四枚目の切り身を裏返して、また蓋を閉じる。
「もうすぐ出来るから、待ってて」
 物言いたげな顔をした忍足君の手をそっと振り払った。
 冷蔵庫からひじきの炒り煮と、春菊のお浸し、味噌汁の入った小鍋を取り出していく。味噌汁の具は、油揚げとなめこ。あとは温めて、青ネギを散らすだけだ。
 ご飯ももうすぐ炊けるかな、と炊飯器に視線を向けようときた時、パーカーのポケットに入れていたiPhoneがバイブした。ポケットから取り出して見てみると彼からの着信で、心臓の拍動が俄かに早まる。多少冷静さを取り戻したところで、この状況の疚しさに変わりはない。
 また一つ深呼吸をして、電話を取った。もしもし、と極力平坦な声で言うと、「今何してんの」と呑気な声が返ってくる。
 すぐそばに立っている忍足君の口が、「かれし?」という形に動く。頷くでもなく睨み付けると、肩をすくめて部屋に戻ってくれた。
「もしもし?」
 訝しむような声が電話口から漏れる。
「ごめん、今ご飯作ってて。さんま返してたから」
「今度は換気扇回し忘れるなよ」
 笑いの混じった声で言われて、「同じ失敗はしません」ムッとしながら返す。先日彼の家で塩鯖を焼いてあげたとき、換気扇を回し忘れて部屋中が煙たくなってしまったのだ。
「夕飯さんまと何?」
「んー? ひじきと、春菊のおひたしと、味噌汁」
「年寄りみたいな献立」
「うわ、やな感じ……そんなこと言うなら二度とご飯作ってあげない」
「いやいや、俺はそういうメシ好きなのよ」
「謝って」
「……ごめんな」
「じゃあ許す」
 私と彼が、恋人同士特有の少しの面白味もないじゃれ合うような会話を楽しんでいる間、忍足君はベッドに腰掛けてスマホに視線を落としていた。今日はゆっこは店で働いている日だけど、そろそろ休憩に入る頃合いだから連絡を取り合っているのかもしれない。
「なあ、今から行ってもいい?」
 忍足君の横顔の造作を、やっぱりイイなぁなんてキモい目つきで眺め見ていた私の耳は、彼のその言葉を一度は聞き逃して、「聞こえてるか? もう駅までついてんだけど」ここまで言われて、ようやく「えっ」と間抜けな声を上げた。我が家から最寄駅までは徒歩十分程だ。
「何か買ってこうか、酒とか」
「えっ、と……」
 なんで急にとか、今は来ないでなんて言ったら疾しいことがあると宣言するようなものだから、私はしばらく考え込むふりをして、言葉を濁した。
「何もないなら直接行くけど」
「いや、あるある。あの、駅の近くにスーパーあるでしょ。あそこでゼロカクのファジーネーブル買ってきて」
「スーパーってちょっと道逸れるじゃん。コンビニでいいだろ?」
「ファジーネーブルだけはスーパーにしかないんだもん。お願い、楽しみにしてる!」
 こういう頼み方をしたら彼が断れないことは知っている。スーパー行く道通り過ぎてんだけど、と零す彼に、「部屋片付けるから切るね!」と言って、返事も聞かずに通話を終わらせた。
「彼氏来るって?」
「うん……もう十分くらいで来ちゃうから、悪いけど急いで出て。おかずは詰めてあげるし」
「高校生は対象外なら、彼氏にも仲良い男子高校生に料理作ってあげてたのって言えばええやん」
「仲良くないし、それとこれとは話別だから」
「なんで?」
 射すくめるような瞳に貫かれて、iPhoneを握る手に思わず力がこもる。本当はめちゃくちゃ対象内じゃーい疾しい気持ちありまくりじゃーいと心の中の私は叫びまくっていた。だけどそんなこといえるはずもないから、
「なんでも」
 便利な言葉に逃げて、棚からジップロックを取り出す。
「また来てもええ?」
 気が付けば、忍足君はまた私の傍に立っていて、更にどんどん距離を詰めてくる。
「ダメだよ」
「なんで?」
「……なんでも」
「そればっかやん」
 それ以上の言葉を吐き出せばボロが出てしまいそうで恐ろしかった。キッチンと向かい合った浴室のドアを背に立つ私の頭のてっぺんに、忍足君が顔を寄せる。
「ごめん」
 吐息にも似た声だった。
「どうして忍足君が謝るの?」
「なんでなんでって、ガキ臭いこと言うて自分のこと困らせてしもて」
「……忍足君は私よりずっと大人だよ。今は高校生だけど、私と同じくらいの歳になったら、うちの彼氏の精神年齢はもう越しちゃってるだろうな」
「自分、彼氏と話すときはちゃっと違わへん?」
「そうかな?」
「なんとなく甘えとるみたいで、俺と、」
 忍足君はそこまで言って、黙り込んでしまった。俺と話すときとは違うとか、そういうことを言おうとして、だけどそれこそ子どもじみているような気がして口を噤んでしまったのだろう。
「忍足君は、ゆっこと話すとき……なんか違うよね。すごく優しいし、感じいいし、大切にしてるの伝わってくる」
「それは彼女やから」
「私もあの人は彼氏だから、年上だし、多少甘えた感じにはなっちゃうよ」
「自分は――」
 額に忍足君の吐息がかかる。それをこそばゆく思っていると、ピンポンと、玄関のチャイムが鳴らされた。
「……宅配便では、ないわな」
「頼んでないよ! やばい……どうしよ、とりあえずどっか隠れて」
「隠れてって……ワンルームやん」
 半分揉めているような言葉の応酬を小声で繰り広げながら、足音を潜めて玄関の忍足君の靴を引っ掴む。二度目のピンポンが鳴り響いたかと思うと、ドアが軽く叩かれて、「ファジーネーブル買ってきたぞー」と声がかかる。
 焦りすぎて顔面を蒼白にした私の隣で、「あー……もう」と忍足君が頭を掻きむしった。
「ベランダおるから、出来るだけ早く彼氏は帰して」
 そう言って私の手から自分の靴を引ったくって、十月の冷たい空気でいっぱいのベランダに消えていく。私は、忍足君の姿が完全にカーテンの裏側に隠れてしまったのを確認してから、玄関のドアを開いた。
「ごめん! さんまが焦げかけてて」
「うー……中入ってもいい? 今晩わりと冷えるわ」
 開かれたドアから吹き込む風は確かに冷たい。早く入りなよ、と答えながら、彼を部屋に招き入れる。ベランダに締め出された忍足君は、薄手のシャツを一枚羽織ったきりだった。
「夕飯食べる?」
「いや、いいよ。そんなに腹減ってない。今日は部署ぐるみで軽く残業してたから、部長が差し入れしてくれた」
「そうなんだ」
「お前はこれからだよな。気にせず食ってくれよ」
「気にせずって言っても……自分だけ食べてたら少しは気になるよ。冷奴だけでも食べない?」
「豆腐……もう十月だから、ミョウガはないよな」
「ふふ、それがあるんですよ」
「じゃあ食べる」
 彼はにやりと口角を上げた。
 野菜室から、青ネギと袋に余った端くれのミョウガを二つ取り出して、細く刻む。テレビでミョウガ寿司というものが取り上げられてるのを見て、季節外れだけど買ってしまったのだ。冷蔵庫の中では、たっぷりの甘酢漬けられたシャリにのる前のミョウガが、ガラス製の保存容器の中でひっそりと陽の目を見るのを待っている。
 彼にそれを食べさせるつもりはない。勿論侑士君にも。私は本当に好きな食べ物は独り占めしたい子供じみた人間なのだ。
「寒いのに湯豆腐じゃなくてごめんね。昆布切らしてるから」
「俺は冬でも豆腐は冷たい方がいいよ」
「それならいいけど」
「秋刀魚のいい匂いがする」
「去年のらしいけど、安かったから」
「だからって二匹も食ったら、白メシ進みすぎて太るぞ」
 けらりと笑う彼の視線は、さんまの並んだフライパンに注がれている。その目つきに他意がないか注意深く観察しながら、「一匹は明日の朝食べるんだよ」と何気ない風を装って返した。
「あーお前朝ギリギリまで寝てるくせに絶対食いたがるもんな」
 うんうんと頷きながら、先程まで忍足君の腰掛けていたベッドに尻を預けた彼は、窓一枚隔てた先にそのさんまを食べるはずだった男が潜んでいることなんて想像もつかないみたいだった。


 醤油のかかった冷奴に、茗荷を絡めて食べて、「美味い」と顔を綻ばせた彼を、愛おしく思えなくなったわけじゃない。
 テレビと、食事をとる私を眺めながら十分程かけて冷奴を平らげた彼は、「風呂まだ? 一緒に入ろう」と腕を取ってきた。
「このチーズケーキのくだり気になるからヤダ」
「じゃあ終わってから」
「ううん……仕事帰りにわざわざ寄ってくれて嬉しいんだけど、明日朝一卒論のことでゼミの先生に呼ばれてて、今日の夜はそっちに集中したいから」
「帰れって?」
「うん……マツコ終わるまではいてもいいけど」
「それなら先に言ってくれたらよかったのに」
 口調に反して、彼に腹を立てている様子はない。そういう奴だよな、お前は……という顔をして溜息をこぼしている。
「ご飯多めに作ってたから、一緒に食べるだけ食べたらいいなって思ってて」
「まあいいよ。俺も急に来たし、少しでも顔見れたし」
 そう言って、醤油の跡の残る冷奴の皿を手に持った彼が立ち上がった。
「え、もう帰るの? 砂時計の世界までは一緒に見ようよ」
「明日朝一ならそんなに夜更かし出来ないだろ。テレビなんか見ずに早く卒論やっとけよ」
「分かりましたよー」
 言いながらも、テレビに釘付けになっているフリをする。自然体の私のフリ。
  彼はそんな私の頭にとんと触れてから、流しに皿をさげた。そのまま、玄関に放っていたビジネスバッグを手に取って、鍵を回す。私はそれを、廊下に出ることすらせずに「ばいばーい」と見送った。
 いつもこんな感じなのだ。玄関まで見送って、ハグの一つもしてやろうかと思ったけど、きっとその方がよほど怪しい。
「鍵閉めとけよ」
「分かったー」
「じゃあ」
 シンプルな別れの言葉と共に、彼の体はドアの隙間から消えていった。私はホッと胸を撫で下ろして、テレビの電源を切る。
 ベランダの鍵は、当たり前だけど開いたままで、「忍足君大丈夫?」と声をかけながら窓を開くと、部屋の明かりに照らされた忍足君と目があった。
「眼鏡……」
「寒すぎて曇るからとった」
 ああそうか、伊達眼鏡なんだっけ。
 初めて見る素顔の彼は、
「結構目つき悪いんだね」
「そんなんええからはよ中入れてぇな。凍え死ぬわ」
 時間にして三十分強、冷え切ったベランダに佇んでいた忍足君は流石に苛立った様子で私の肩に触れた。
 冷え切った手のひらの感触に肌が泡立つ。眼鏡をかけ直した彼を、部屋の中に引き込んで、今冬初めてエアコンを稼働させた。
 部屋が温もるのを待っている間に白湯を沸かして、シロクマの絵のプリントされたマグカップに注ぐ。HUG MEの吹き出しを背負ったシロクマと目のあった忍足君はなんともいえない表情を浮かべていた。
「……ごめんね。寒かったよね」
「そらこの格好やからなぁ」
 小さく肩を竦めて見せた忍足君は、黒いデニムの上に白シャツ一枚という寒々しい出で立ちだった。
「もう少し色味使ったコーデにしてもいいと思うけど」
「そういう話しとんとちゃうわ」
 呆れた風に上がったその声が少し掠れているのを私は認めた。
「本当に、もっと早く帰せたらよかったんだけど……」
「もうええよ。冷えすぎて死にかけとったけど、思ったほど長い時間やなかったし」
「急いで帰したもん。彼とのやりとり、聞こえてないよね」
「殆ど聞こえへんかったけど、このままおっ始まったらどないしよう、とか多少は考えとったわ」
「おっぱじ……」
 サラっとした口調で言われて、一瞬固まってしまった。
「す、するわけないでしょ……! 人がベランダにいるのに」
「カレシの方は、自分の彼女が連れ込んだ間男がベランダでシャツ一枚で凍えとるとは夢にも思ってへんやろ」
「間男って、変な言い方しないでよ。私達、なにも疚しいことなんて」
「……ちゃん」
 初めて名前を呼ばれた気がした。寒さのせいか、掠れきって、普段よりもずっと聞き取りにくい声だったから定かじゃないけど。
 返事はせずに、背筋だけ伸ばす。
 忍足君の、平素通り胡散臭い丸眼鏡の、奥に隠された瞳からは感情は読み取れない。ただ、彼のすっと伸びた長い指がこちらに伸びてきて、私の耳に触れた。
「冷たいよ」
 喉奥から絞り出した私の声も掠れている。
「さんま、一人で食うたん?」
「食べないと、変に思われるでしょ」
「歳下の男は対象外なんやろ? 知り合いの高校生に飯食わそうとしてたって素直に言うたら良かったやん」
 徐々に迫ってくる忍足君の顔があまりにも自分好みで、「うわーん、めちゃくちゃ対象内よ!」と叫びだしたかった。
 おろおろと視線を彷徨わせる私の耳を軽く引っ張って、忍足君は囁くように言った。
「少なくとも俺は、疚しい気持ちでここまで来たし、自分のことも完全に対象内やから」
「それは言わない決まりでしょ」
 暗黙の了解のつもりでいたのだ。
「……なんなんそれ。自分相当面倒臭いで、そのままやったらその内男にも愛想尽かされるわ」
「そんな女と関わらなきゃいいじゃない」
 硬い声で返すと、「そうやなぁ」と耳に触れていた忍足君の指が後退していく。近づきすぎた顔も、ゆっくりと離れていった。
「やけど、俺は面倒な女の子わりと好きやから」
「はぁ」
 私の性根に負けず劣らず、忍足君も中々に面倒な性格をしている。
「……もうどうでもいいから、シャワーでも浴びたら? なんかちょっと震えてるよ」
「めっちゃ魅力的やけど、帰り絶対寒いやん」
「泊まっていけばいいじゃん。客用布団出すよ」
「とま、けほっ」
 唐突に河岸を変えた私の発言に、忍足君は静かにむせ込んだ。
 ざまあみろ。年上のお姉さんをいつまでも手玉に取れると思ったら大間違いなんだから。
「お泊りのお誘いは嬉しいんやけど、その挑むような顔はやめてほしいわ」
 どうやらざまあみろが前面に押し出てしまっていたらしい。
「変なことしないなら何泊でもどうぞ」
「それは約束出来んけど」
 お互いに肩を竦めて、見つめあいながら笑う。少しも悪びれずに、だけど二人とも自分の恋人のことは一瞬だって忘れてない。
「バスタオルこれ使って」
 家にあるタオルの中で一番繊維の柔らかい物を選んで手渡して、忍足君をユニットバスに誘う。
 すっと伸びた彼の背中がバスルームの中に消えていくのを見届けてから、「ふ」と溜息をこぼした。
 味噌汁の鍋を火にかけると、合わせ出汁の柔らかい匂いが鼻腔をくすぐった。背後からシャワーの音が聞こえる、鍋の中のなめこが、私の心臓の拍動にに合わせて踊っている。




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