ブルースカイブルー

 三十過ぎの独身女の体に、祝いの席でのアルコールは重たくのしかかる。赤いドレスにお色直しをしたかつての級友が、卓のキャンドルに火を灯そうとするのを眺めながら、私は小さく唇を震わせた。頬が馬鹿みたいに熱いのはきっと、しこたま飲んだ酒のせいでも、彼女とその夫が二人で握ったメルヘンな点火装置のせいでもない。
 キャンドルに火がともった瞬間、照明の落とされた会場の中で、彼女たちだけがスポットライトに照らしだされた。闇の中に浮かび上がった彼女が、一瞬だけ視線をこちらにやり、小さく微笑む。それだけのことで心臓が固まってしまう。呼吸を止めたら、鼻の奥がジンとしびれた。なんでおいていくの、と開きかけた口を無理矢理に閉じて、口角を持ち上げる。彼女が卓から離れていく。

 半年ほど前、彼女から近々結婚するのだと聞かされたときの衝撃はとんでもないものだった。暗闇の中で、鋭く尖った矢尻に、突然心臓を貫かれたような訳の分からない感覚に、目が回りそうになったのを覚えている。
 私は、「恋人がいるなんて知らなかった」と、言った。彼女は、「照れくさくて言えなかったのよ」と、言っていたが、台詞に似合わない複雑な表情を浮かべていた。そこにきてようやく私は、彼女が私の気持ちを知っていたのだと察したのだ。
 彼女とは、中学高校、それから学部は違うが、大学も一緒だった。私たちは、箱庭のような可愛らしい女子校で、青春時代を共に過ごしたのだ。
 彼女は中学三年生のときに、大阪からきた転校生で、当時いくらかの親密な友人を学内に得ていた私は、よそ者である彼女と親しくするつもりはなかった。彼女の方も、新しい学校ですぐに友達を作ることが出来たので、私の様な陰気な女と親しくするつもりはなかったと思う。
 そんな状況で、私達が親しくなれたのは、彼女が私が幼いころから通っていたバレエ教室に入ってきたからだ。大阪でもバレエを習っていたらしい彼女は、慣れない教室で、慣れない先生の指導を受けて、中学生だとは思えないほどに美しく踊った。発表会がひと月後に迫っていると、聞かされても、少しも焦った様子は見せず、「出ます」と、言った。
 教室の仲間の中には、彼女の才能に嫉妬するものもあったが、私はその限りではなかった。私は教室でただ一人だけ、惰性でバレエを続けていた人間だったからだ。
 私は自分にバレリーナとしての才能がないことを知っていた。体は柔らかく、バランス感覚には優れていたので、アラベスクやパッセなどは綺麗に決めることが出来たが、ひとたび音楽が流れ始めるともう駄目だった。音に乗り切ることが出来ず、一つ一つの動きがおざなりになってしまう。
 発表会の練習中、先生はいつも苛立たしげに音楽をとめて、私だけにそのまま動くなと言った。そうして、私の神経の通っていないような指先や、高度の低い足をぴしゃりと叩くのだ。手で叩かれるのはそう痛くないけど、ときたま30cm定規で打たれることもあって、そのときばかりは日頃はポーカーフェイスの私も眉間に皺を寄せた。
 そういうわけで、バレエの好きではなかった私は、彼女が踊るのを見ても綺麗だな、と思うだけだった。バレエ教室で彼女に見惚れ、しかし教室でも学校でも、彼女の意識の中に自分がいないことを知っていた私が、彼女と会話を交わすことは発表会の当日までなかった。
 一度目の出番をなんとかやり過ごし、楽屋でステージの様子が映し出されるブラウン管をぼんやりと眺めていた私のむき出しの肩を、彼女が叩いたのだ。なに、と尋ねると、「あなた美人ね」と、言われた。少しだけ動揺した私が、「あなたは私よりも踊るのが上手い」と、誰でも知っているようなことを言うと、彼女は心底おかしそうに笑った。たしかあの時は、「顔は自分の方が綺麗だって言いたいみたい」と、言われたはずだ。
 それからというもの、私達は学内でも行動を共にするようになった。彼女と二人で過ごす時間はとても楽しくて、私は自分を他人より少しばかり美しく作ってくれた神様に感謝をした。
 当時今以上に閉鎖的だった学園内では、同性愛に走る生徒は珍しくはなかった。そうして、私もまた麻疹の様な病に溺れた者の一人だった。一時の私は、彼女のトウシューズになりたいと真面目に考えていたくらいだ。
 その病は大学を卒業し、彼女と離れるまで続き、私はその後何人かの異性と付き合ったが、彼女への甘苦い感情を完全に捨て去ることが出来ないまま今に至る。

 披露宴の段階ですっかり出来上がっていた私は、二次会の会場に移動しても酒を飲む気にもなれずぼんやりとしていた。こんなことなら、披露宴が終わった段階で家に帰ってしまえばよかったと考えたりもした。
 そんな私の隣に掛け、馴れ馴れしく声をかけてくる男が一人、恐らくは新郎の友人だ。整った顔立ちをしているが、古臭い丸眼鏡をかけている。愛想笑いを浮かべる余裕すらない酔いどれの私は、男がぺらぺらと喋るのに無表情のまま適当な相槌をうっていた。
「なあ、やっぱり女子高って女同士のカップルとかおるん?」
 つまらない質問に、閉口する。どうしてそんなことを答えないといけないのだ、と男を睨む。酒に酔っていたからだろうか、それが肯定と同義であることには気が付かなかった。
 男は、愉快げに笑っている。彼もまた、私と同じように酒に酔っているのだ。
「女同士で付き合うんて、どんな感じ?」
「私は、そういうのじゃない」
「そしたら、男が好きなん」
「普通」
「今、恋人おるん」
「それこそあなたには関係ない」
 言ってしまってから、もっと他に言い様があっただろう、と少しだけ悔やむ。彼女の大切な人の友人に、嫌な思いをさせてしまっては、彼女に合わせる顔がない。
「あなたは、どうなんですか」
 私は彼女のために、しぶしぶそんな質問をした。自分のことはやはり口には出さない。私は、初対面の人間との会話に花を添えられるような恋愛はしてきていないのだ。
「おらんよ」
 そう言った彼が机の下で、自らの左手薬指をなぞったのに私はきがついた。既婚者なのを、隠しているのだろうか。少しだけ気になって、目を細めてみてもそこに指輪の跡は見つけられない。
「しばらく前に離婚して、それきりや」
 なるほどそういうことか。今どきバツイチの三十男だなんて、珍しくもない。
「原因は」
 言ってしまってから、普段ならこんな失礼なことは絶対に尋ねないのに、と驚いた。この男に興味があるわけでもない。アルコールとは、恐ろしいものだと思う。
「不倫」
 男は笑いながら答えた。気を悪くしている風には見えないので安心する。
 随分大それたことをするのだな、と不倫男をまじまじ見つめてしまった自分が滑稽だった。男は、やはり整った顔立ちをしている。丸眼鏡は古臭いが、そんなことを気にするのは私だけかもしれない。いかにも女好きのしそうな男である。この年でフリーだと聞けば、私くらいの年の独身女は瞳をぎらつかせるだろう。
「俺の顔に、なんかついとる?」
「いえ、なにも」
 平たい声で答えながらも、酒のせいで元々赤みのさしていた頬には、熱が灯った。ビアグラスに口を付けたとき、会場を移す前に塗り直してきた口紅が、あらかたとれてしまっていることに気がつく。化粧を直しにいこうか、そんなことを考えていると、男が距離を詰めてきた。二次会の会場は、座敷なので、あぐらをかいた男の膝が、太股にぶつかる。
 男がこちらに笑顔をよこすので、私も口角を持ち上げた。悪くはない男だと思う。だけどそれだけだ。それだけ。
「なあ、アドレ、」
「あなたは、」
「……どうぞ」
 会話を遮るように口を開けば、苦笑を浮かべた男に先制権を譲られた。しかし、特段言いたいこともない。アドレスを交換することになってしまったら厄介だと思っただけなのだ。
「あなたは、今まで生きてきて後悔したことはある?」
 苦し紛れに、おかしなことを尋ねると、「大なり小なり、後悔は誰にでもあるやろ」と、返された。もっともである。
「それじゃあ一番大きな後悔は」
 私が尋ねると、男はしばらく黙り込んだ。なにやら考えこんでいるらしい。途中で、「初恋、」と一言洩らし、しかし次の瞬間頭を振る。私は自分の初恋の相手を思い出そうとした。しかし彼女より以前に好きだった相手の記憶は頭からごっそりと抜け落ちてしまっている。あれこれ考えていると、男がようやく口を開いた。
「一番の後悔は、間違った相手と結婚したことやな」
 自分が不倫をしたくせに、よくもそんなことを言えたものだ――そんな風に男を責める気にはなれなかった。私の背負っている罪は、彼のそれと同等か、それ以上に重たい。
「自分は?」
 そう尋ねられ、改めて自分の人生と向かい合う。しかし、男のように悩むこともなく、答えは出た。
「間違った人を、好きになったこと」


 重たい体を引きずりながらリビングに入ると、座椅子に腰掛けてテレビを眺めていた女がこちらを振り返る。ほんのりと湿り気を帯びた長い髪と、未だ見慣れないすっぴんの白い顔、私の恋人はとても美しかった。しかし、それ故に傲慢で、身勝手だ。
「遅かったのね」
「久しぶりに会った友達と、積もる話があって」
「昔の友達って女でしょ、浮気してない?」
 結局は二次会が終わるまで私の隣から離れなかった男のことを、息をするように自然に隠した私を彼女が睨む。ああそうだ、忘れていた。私たちはレズビアンなのだ。彼女が嫉妬する対象が女なのは、極々自然なことだった。
「そんなこと、するはずないでしょ」
 これだから同性愛は面倒臭い。異性と付き合っていれば気にせずにいられることまで、こと細かく気遣ってやらねばならない。しかも結局は男にも嫉妬するのだ。
「女子校育ちのビアンって、学生時代に目覚めたのが多いでしょ」
「ああ、そうかもしれない」
「あなたもそうじゃないの」
「さあ、どうだったかな……覚えてないや」
「もう、いつもそうやって流すんだから」
 私は、可愛らしくこちらを睨む彼女が、掴みどころのない女を好んで選ぶ性癖をしているのだと知っていた。だからこそ、他人に対する誠意を持たない自分の本質を隠すこともせず、彼女の好む女を演じる。
 彼女は掴みどころのない冷たい女に弄ばれる美しい自分、という構図に酔っているのだ。ナルシストの彼女は悲劇のヒロインを気取り、リアリストの私は、いい年こいて夢見がちな彼女に引いている。バランスが取れているとは言い難いこの状況で、私たちは既に一年も寄り添っている。
 彼女が私のマンションに上がり込んできたのは、半年程前のことだった。普段なら決して外出をしない夜の九時過ぎに、彼女はひょっこりと姿を現したのだ。
 そうして、「今離婚届を役所に出してきたわ」と、ちょっと散歩に出ていたのよ、とでも言うような気軽さで言って、「これからよろしくね」と、笑った。
 私と彼女が初めて出会ったとき、彼女には既に夫があった。家庭に入って五年も経つくせに、酷く少女めいたところのある彼女は、年齢を感じさせない美しさで、私の心をすぐさま捕えた。
 彼女には、私の級友に似たようなところがあった。もっとも、私の級友は彼女ほど性格が悪くはなかったが。
 疲れを感じた私が、寝室に移動しようとすると、座椅子から立ち上がった彼女が、抱きついてきた。メイク落とさないの、と可愛らしい声で問われる。彼女は私と二つしか歳が変わらないが、随分と若く見えた。
「……化粧だけ、落としたら寝る」
「待ってたのに」
 彼女は拗ねたような表情を浮かべて、私の首元に鼻を擦り付けた。それだけのことにげんなりする。彼女は、何を期待していたのだろう。セックス、だろうか。
「お酒のにおいがする」
 熱い呼気に耳をくすぐられる。私は、体を反転させて、彼女をその場に押し倒した。うっとりした表情を浮かべた彼女が、こちらを見上げている。
 化粧品と、酒のにおいが入り交じっていて、不愉快だ。しかしそれらは全て私のにおいで、私の手によって寝間着のパーカーをたくし上げられた彼女の白い谷間からは、淡いボディソープの香りがしている。この女は、どうして私なんかと不倫をしたのだろう。
「どうして、」
「なに?」
     なんでもない」
 そう言って私は、彼女のパーカーを元の位置に戻した。そのまま立ち上がろうとすると、手首を掴まれる。
「しないの?」
「爪、ちょっと伸びてるし」
「切ればいいじゃん」
「疲れてる」
 溜息をつくと、手首が開放された。洗面所に向かって歩き出すと、「酷い」と、未練がましい声が背中にぶつけられる。
「全部捨ててきたのに、冷たい」
 彼女の恨み事はポーズでしかない。それが分かっているから、私は振り向きもしない。彼女が家を出ていってしまっても構わないと思っている。
 私は、彼女に旦那と別れてほしいだなんて言ったことは一度もなかった。思ったこともなかった。全てを捨てる決断をしたのは他ならぬ彼女自身なのだ。
 そこまで考えて、私は髪の毛をかきあげた。彼女に全ての罪を押し付けようとしている私は最低だ。最低だと思っているから、彼女に、「間違ってた」の一言が言えない。
 私は、レズビアンではなかったのだ。彼女と付き合い始めてから、気付かされた。女性に対して抱くどうしようもない胸のときめき、心臓の揺らぎに責任を持つことが出来ない。
 私は先程自分のことを、リアリストであると言ったが、やはりそれは間違っているのかもしれない。私は、美しい女を眺めて、感傷的な気分になるのは好きだが、美しい女に触れたいとは思わないのである。現実を見るのが怖いのだと思う。つまり私も、薄皮一枚めくれば、彼女と変わらない、いや……それ以上に夢見がちな女なのだ。


 級友から自宅に電話がかかってきたのは、彼女の式に参加してからひと月が過ぎたころだった。幸い恋人はどこかへ出かけてしまっていたので、私は新婚旅行から帰ってきたばかりだという彼女と、長々と話し込んだ。彼女はハネムーンで、ハワイに行ったのだと言う。景気のいい話だ。しかし金はあるに越したことはない。
 しばらくハワイでの思い出話を語っていた彼女は、つと思い出したように話題を変えた。
「あなた、この前の二次会で侑士と話し込んでたでしょ」
 私は、先日の二次会で隣に座っていた眼鏡の男の顔を思い浮かべた。あの日は、あの男以外の異性とは口をきいていない。しかしあれだけ話し込んでおいて、お互い名前も連絡先も知らないままに帰宅したので、もう思い出すこともないだろうと思っていた。
「あの人、侑士って言うの?」
「名前くらい聞いてあげてよ」
「人見知りするから」
 そう言いながらも、私は彼女と侑士という男の関係について考えていた。二次会の席では、この男は新郎の友人に違いないと思い込んでいたが、彼女の口ぶりから察するに、あれは彼女の知人だったようだ。それも、かなり親しくしているらしい。彼女が恋人以外の男を下の名前で呼ぶのを、私は初めて聞いた。
「あの人、なに?」
「なにって、」
 彼女が怪訝な声をあげたので、私はちょっと微妙な気分になる。私、彼のこと何も知らないのよ、と言ってやると、「知らない相手と話し込んでいたの?」と呆れられた。
「それで、あの人何なの? あなたとどういう関係?」
「弟よ。披露宴のとき親族席に座っていたの、気づかなかった?」
「……気づかなかった。そんなところ、見るはずないでしょ」
 あのときの私はドレスを身に纏った彼女にばかり目がいっていたのだ。人生で一番美しい日を迎えた彼女から視線を外して、乾いた親族席を見る馬鹿は存在しないだろう。
「他の子は皆、うちの弟がいい男だって騒いでたわよ」
「いい男ではあったけど」
「そう思うの? 意外ね、あなたは異性には興味がないものだとばかり思ってたわ」
 彼女がそんなストレートなことを言うとは思っていなかった私は、馬鹿みたいに動揺して黙り込んだ。
「侑士は、あなたのことが好きなんだって」
「好きって、あのときちょっと話しただけなのに」
「バレエの発表会のとき、楽屋であなたを見たことがあるみたい。一目惚れだって」
「そんなこと、ありえるかな」
「あなたは本当に綺麗だったから」
 そう言った彼女の声が冷たかった。私は彼女のことを親友だと思っていたが、彼女は、私が思っている程には私のことが好きではないのかもしれない。ごめんね、と反射的に呟けば、彼女は数秒の沈黙の後、口を開いた。
「どうして謝るの」
「怒ってる気がしたから」
「怒ってはないけど、嫉妬はしてるわ。私、ずっと昔からあなたに嫉妬してた」
「私の方が勝ってるとこなんてないでしょ」
 バレエも勉強もなにもかも、彼女は私より秀でていた。
「だけどあなたは、綺麗だわ。それにすごくモテる」
「モテないよ」
「知らないだけよ。私が学生時代に好きになった人は皆、あなたのことが好きだったもの。あなたみたいに、年中気だるげにしてる女は女にモテるのよ」
「女の子を好きになったことがあるなんて知らなかった」
「あなたのことが好きな人を好きになったなんて、みっともなくて言えなかった」
「……ごめん」
「謝らないでよ。馬鹿にされてるみたいに感じちゃうから」
 そう言われてしまうと、私は彼女にどんな言葉をかけてやればいいのか分からなくなった。再び黙り込んだ私に、彼女は急に声色を変えてこんなことを言う。
「全部、終わりにしましょ」
「友達でいることを?」
「違うわよ。私の醜い嫉妬心も、あなたの複雑な感情も、全部なかったことにしようって言ってるの」
「私は、」
 あなたのことが忘れられない、そう言い切るよりも早く、彼女は話題を変えた。先ほどまでとは打って変わって明るい口調で、自分の弟について語りだす。
 彼女は自分の弟がいかに将来有望であるかについて語りきると、「今度二人で飲みにいってやってよ」などと言い、返答に困った私が口ごもっていると、「返事は弟に直接してあげて」と、言って通話を打ち切った。
 それからしばらくして、彼女から届いたメールには、彼女の弟の電話番号が添付されていた。
「身勝手な女」
 そう呟いた私は、その電話番号を連絡帳に登録した。

 彼と二人で飲みにいくことにしたのは、変わり映えのない恋人との同棲生活疲れていたからだった。会社から、彼が待ち合わせ場所に指定した駅に向かい、恋人への言い訳を考えながら彼を待つ。
 その駅は、彼女が人の妻だったときによく降りた駅だった。彼女が夫と住んでいたマンションは、ここから十分も歩かないところに建っている。
 どこか懐かしい気分になった私は、帰り道に彼女に甘い物でも買って帰ってやろうかと考えた。しかし彼女は疑り深い。慣れない優しさを見せればなにかやましいことがあるのでは、と疑いにかかってくることだろう。私は小さく溜息をついて、視線を上向けた。
 いよいよ考えることもなくなって、ぼんやりとしていると、道行く人々の中の一人がこちらを見つめているのに気がついた。忍足侑士だ。私が軽く会釈をすると、こちらに歩み寄ってくる。
「こんばんは」
「こんばんは。先日はどうも。酔っていたから、失礼なことを言ってしまったでしょ」
「いや、面白かったで」
 それだけのやりとりを交わすと、男は、「行こか」と、言って歩きはじめた。会話はない。私は元々社交的だとは言いがたい性格で、ほとんど初対面に近い相手と素面の状態で会話をはずませるようなテクニックは持ちあわせてはいなかった。そして、私の隣を歩く彼もまたあまり多弁な方ではないようだ。
 早く酒に酔ってしまいたい、私はそんなことを思いながら、俯いた。ハイヒールのかかとがカツンカツンと音を立ててアスファルトを叩いている。その音を聞いていると、トウシューズがレッスン場の床を叩く音が思い出されて、苦笑した。
 リズム感のない私は、他の生徒がシューズのつま先で規則正しいリズムを刻んでいる中で、一人だけ不協和音を奏でていた。バレエを続けている限り、私は劣等生でしかなかったのだ。
 発表会のあとには、必ず生徒全員を褒めてくれた普段は厳しい先生が、私の番になると、「衣装が似合っているわ」なんて、演技とは少しも関係のない部分を褒めたものだ。
 彼は楽屋で見た私に一目惚れをしたのだと言う。私の演技を見てどうこう思ったわけではないのだ。たまらなくなった私は、彼の腕を叩いて口をひらいた。
「どうして、黙ってたの」
「なんを」
「私のこと、知ってたんでしょ」
「三十路前の男なんやから、初恋の話なんか、気恥ずかくしてようせんやろ」
「あれから十年以上も経つのに、よく私だって分かったね」
 そもそもあのときの私は、舞台に立つために馬鹿みたいに濃い化粧をしていたはずだ。私のそんな心中を悟ったのか、忍足は小さく笑ってこんなことを言った。
「姉貴の出してくるプリクラやら、写真やら見とったら、自分の素顔なんかすぐ分かった」
「名前も知らないのに?」
「姉貴の友達の中で1番自分好みの顔しとんが、あの日惚れた女やと思っとった」
「テキトーだ」
「テキトーでもよかったんや。どうこうなろうなんか思っとらんかった」
 そこまで言うと、彼は笑顔を引っ込めて真面目な顔になった。私はそんな彼の横顔を黙ったまま見つめる。じっくりと眺め見てみると、彼はどことなく私の級友に似ていた。
「式に参加しとった人間の中で、1番綺麗やったんが自分やった。俺は、あのとき二度目の恋をしたんや」
「ナンパ男」
 軽口を叩く私の頬には熱がこもっていた。異性にこうもまっすぐに好意を向けられるのは久しぶりなのだ。これくらいのことで心がゆらいでしまうのは、男が美形だからなのか、かつて恋した女に似ているからなのか     どちらも正しく思える。どちらにせよあまりいい理由ではない。私は場の雰囲気に飲まれているだけだ。調子のいいことを言ってはいるがこの男は、バツイチ不倫男だし、私は全てを捨てた恋人を背負っている。


 その日の晩はたしかに何もなかった。私は忍足の行きつけの小洒落た居酒屋で少量の酒とつまみを嚥下した。想像に反して、酒の席での会話は盛り上がり、私は彼と次に会う約束をしてしまった。
 妻を失った男は、随分と寂しい思いをしているようだ。酒に酔った彼は、私に密着し、「また会われへん」と、苦しげに問うた。さして呑んでもいなかったので、意識のはっきりしていたのに、私は彼を拒むことが出来なかった。正直な話をすれば、私はその時点でもう彼を好きになりかけていたのだ。
 それからというもの、私は彼と頻繁に逢瀬を重ねている。自然と家を留守にすることも増えた。
 私の浮気を疑う彼女は、いつだって胡乱な目をして帰りの遅い私を責めたが、事実浮気まがいのことをしている私は、いつだってだんまりを決め込んでいた。
 そんな私の態度に嫉妬深い彼女は怒り狂い、旦那のところに戻る、とまで言い出す始末だ。そんな状況で、本当に出て行ってくれればいいのに、などと思ってしまう私は、自分の性格の悪さを自覚している。
 そして遂に今晩、私は彼に家に来ないかと誘われた。今晩私は、彼とセックスをする。
 待ち合わせ場所は、彼と初めて二人で飲みに行ったときと同じ駅だった。彼の自宅もまた、この近くに建っているらしい。
 彼の宅に続く道を歩いていると、彼女と過ごした日々のことが思い出されてきた。はじめの内は、たしかに楽しかったのだ。初めて彼女に自宅に誘われたとき、私は飛び上がらんばかりに喜んだ。
 そして、今歩いているこの道で、私は彼女に、本気で好きになった相手を恋人にしたことはないのだという話をした。その日、ベッドの中で彼女は、「私に本気になって」と、言った。
 はっきりとは覚えていないが、私は彼女に甘ったるい台詞は返せなかったはずだ。もう少し付き合ってみなければ分からないだとか、あなたには家庭があるでしょうだとか、お茶を濁すようなことしか言えなかった。
 その日私は、彼女と初めてセックスをした。生まれたままの姿の彼女を美しいとは思ったが、その体に触れることにはやんわりとした嫌悪感を覚えてしまったのである。やはり私は、女子校で養殖されたバッタ物の同性愛者だったのだ。彼女の体に触れた瞬間に、私の恋は終わっていた。
 そこから1年近くも行き詰まりの関係を続けられたのは奇跡だとも言える。私はいつだって彼女と別れる機会を伺っていた。こんな関係、いつまでも続くはずがない。
「黙りこくって、何考えとん」
「……なにも」
 気がつくと随分と長いこと歩いていた。もうすぐ着くで、と彼は言う。
 この男とのセックスはそう悪いものでもないだろう。私は彼女と別れて、この男を選ぶかもしれない。だけどそれもきっと長くは続かないだろう。私はそういう女なのだ。恋に溺れるのはみっともないことだといつだって思っている。
 忍足侑士が足を止めた。着いたで、と呟いて、こちらを一瞥する。私は口をぽかんと開いて、その場に立ち尽くした。目の前に建つマンションを、私はよく知っている。これは彼女の住んでいたマンションだ。
 私は絶望的な気分になりながら、彼の後ろについて歩いた。一つのマンションに、離婚したばかりの男が何人も住んでいるはずはない。案の定、エレベーターの中で彼は、私や彼女の指紋のこびりついたボタンを押した。
 偶然にしては出来すぎている。彼は私が妻の愛人だと知っているのだろうか。
「知ってたの?」
「なんのこと?」
「それは、」
 彼は、彼女の部屋の前で足を止めた。表札には、彼女の苗字が書かれていた。
「苗字……」
「婿養子やったから」
 そういえば、彼女から実家は病院を経営しているのだという話を聞いたことがある。もしも彼女の姓が忍足だったとすれば、私はきっとこんなところまでは来なかった。
「入らんの」
 ドアを開いた忍足が、こちらを見つめる。これは、罠なのだろうか。彼は全てを知っていて、妻を寝取った憎い女に復讐をくわえようとしている     もしもそうだとしても構わない。
 私は、彼女との生活に心底うんざりしていた。出来ることなら、今日だって家には帰りたくない。このままこの愛しているのかすらも分からない男に殺されてしまいたいとすら思う。
「早く、楽にしてよ」
 かすれ声で呟いた私に、彼は怪訝な表情を向けた。意味分からへん、と手首を引かれる。
 彼の、彼女の家は、最後に訪れたときとは随分と様変わりしていた。元々は少女趣味だったインテリアが、殆ど撤去され、白と黒を貴重としたシンプルなものに変わっている。
「何飲む? 一応色々買っとるけど」
「お酒、飲むの?」
「飲まへんの」
「そっか」
 それもそうだ。恋人でもない女を部屋に招いてすぐさま事に及ぶような成人男性は普通じゃない。
「そっか、て」
「お酒はいいよ」
「そしたら、何か食う? 大したもんあらへんけど」
「食べ物もいい」
 普通ではないが、私はもう、酒を飲んで、つまみを食って、毒にも薬にもならないような会話をして、セックスをするためにじわじわと追い込まれる過程を楽しみたいとは思えない。面倒くさいのだ。
 ヤりたいのなら、ヤればいい。殴りたいなら、殴ればいい。殺したいなら、殺してくれ。何も知らないなら、何も知らないでいい。私はもう、何も考えたくない。
「もういいよ。面倒くさいし」
 そう言って、彼の体にもたれかかる。困ったような顔をした彼が、腰におずおずと腕を回した。
「ねえ、もしかして本当に何も知らない?」
「やから、なんのこと、」
 忍足は、本当に何も知らないのかもしれない。そうだとすれば、不憫な男だ。私は彼のことが急に愛おしく思えてきて、その形の良い唇を塞いでやった。彼が戸惑ったような表情を浮かべるのを見て、そういえばこの男は私よりも二つも歳下なのだな、と思い出す。ますます愛おしいし、可愛い。
 酒を飲んでいるわけでもないのに、今日の私の心は宙ぶらりんだ。躁鬱病の患者のように、浮かれたり沈んたりしている。
「なんや、いい匂いする」
「中学生みたいなこと言わないでよ。笑いそう」
「中坊の頃から好きなんやから、仕方ないやろ」
「仕方ないかな。よく分からないけど、とりあえず、」
 セックスしよ。そう言った瞬間、視界が暗転した……ような気がした。

 東京ラブストーリーのような台詞を吐いてから、小一時間が過ぎ、私は彼女と寝たベッドの上で、彼女の旦那と絡まり合っていた。やはり私は、同性愛者ではないのだ。
 私は、自分の体を蹂躙する男に嫌悪感を覚えていない。むしろこの体は、男の体を受け入れて、悦びに震えているのだ。だけどそんな自分を、男とセックスをする自分を、心のどこかで嫌悪してもいるから面倒臭い。
 私にのしかかって腰を振る忍足侑士が、渋い表情を浮かべた。ヤっとるときに考え事すんなや、と擦れ声で言われる。
「声が、エロいなって」
「はあ」
「思ってただけ」
 適当に誤魔化して笑う。だけど彼の声にくらくらしてしまったのは事実だ。私はちょっとした声フェチで、彼の姉の声も大好きだった。
 深々と貫かれて、嬌声が自然と零れる。このまま彼と瓶詰めにさろてしまいたい。彼のことを愛せるかどうかは分からないけど、彼女のところに戻るよりは、この男と繋がり続けている方がまだマシだ。
「なあ、今何考えとん」
「だから、声が、」
「本当は恋人がおるんやろ」
 気がつけば律動が止まっている。快楽を欲する私は、彼の腰に自分の足を絡ませて、体を揺さぶった。彼の質問には、答えたくなかった。
「浮気相手になるんは、嫌や」
「その方が気楽でいいでしょ」
 私は浮気相手がよかった。彼女に、本気になられたくなかった。こんな窮屈な思い、したくなかった。
「浮気より、本気の方がええに決まっとる」
 夫婦というのは、似るものなのだろうか。彼と彼女は、私に同じようなことを言う。
 彼は何も知らない。知らないから、こんなことが言えるのだ。私が自分から妻を奪った女だということを知っていれば、流石の彼もこんな馬鹿馬鹿しいことは言えないだろう。
 彼女も、忍足も、運がない。私なんかを好きになるんだから、馬鹿だ。だけど私は、彼女には愛想を尽かしているが、忍足のことは愛おしく思える。中学1年生の彼が、バレエの衣装に身を包む自分に見とれる姿を想像して、私は笑った。
 この男を、愛してみようか。本気になってみようか。いや、駄目だ。
 だって私がこの男を選び、彼女を捨てれば、彼女はここに戻ってくるかもしれない。彼は妻に逃げられた悲しみを私で埋めようとしているだけだ。彼女が戻ってくれば、私は捨てられてしまう。そんなことになるくらいなら初めから、本気になんてならない方がいい。
「もっと動いて、気持ちいいから」
 心ない台詞を呟いて、男を見上げる。苦しげな表情を浮かべた彼はとても美しかった。




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