望まない犬

 私の男は変態だ。男というよりは犬に近い。なにせマゾなのだ。男子高校生のくせに、身長187cmのくせにマゾ。気持ちが悪いったらありゃしない。
「ほら、舐めて。三分間だけ、私の足を好きにさせてあげるわ」
 そうして雅美の部屋のベッドに腰掛ける私は床に這いつくばる彼の目の前に小さな足を差し出す。雅美は私の足をお高い宝石にでも触るような優しい手つきで持ち上げると、言われたようにそれに舌を這わせ始めた。それがすごく気持ち悪くて顔をしかめるけど、気持ち悪いとは言ってやらない。必要以上に雅美を喜ばせてやりたくないからだ。
 雅美がマゾヒストであることに私が気付いたのは、こいつの告白によって私達の関係が始まってひと月も経たない内のことだった。それは三度目のデートの帰り道で、私たちはそのときまだキスはおろか手を繋ぐことすらしていなかった。私はそういうことは男の方から仕掛けてくるべきだと思っていたのに、臆病な雅美は私に指の一本も触れようとしなかったからだ。そんなこともあって、その日の私はとても腹を立てていた。
 どうしてなにもしてこないわけ? 初めはそう言ったはずだ。雅美はだんまりを決め込んで、私を見つめていた。見つめるといっても雅美はとても背が高いから、見下されている感じ。それでますます腹が立って、私は言ったのだ。
『この木偶の坊っ 気持ち悪いのよ』
 そのときのことはきっと一生忘れられない。夕焼け色に染まった細い道路で、長い長い影の先に立つ雅美はほんの少しだけだけれど嬉しそうな顔をしたのだ。訳が分からなかった。今のやりとり、というよりは私の一方的な暴言のどこにこいつは喜んでいるのだと心底不思議だった。不思議で、不思議で、どうしてだろうと考え込んだ私は一つの結論に辿り着いたのだ。こいつ、マゾなのか――と。
 事実雅美はマゾだった。それからというもの私がいくら挑発的な態度を取っても文句を言うようなことはなく、むしろ喜んでいるようだったのだ。
 私は雅美に幻滅した。私にとって雅美は初めての恋人だったのだ。顔はかっこ良くないけど、背が高くて一見頼りになりそうなところが好きだった。
「私、普通の恋がしたかったのに」
 かすれ声で呟くと、雅美が舌の動きを止めた。それでも顔は上げずに、こちらに後頭部を見せたままでいる男に腹が立って自由な方の足で横っ面を蹴り飛ばす。さほど力は込めなかったので、雅美はびくりともしない。
 私は雅美に掴まれていた方の足を彼の手から無理矢理に引きぬいてベッドの上に上げた。雅美の唾液で濡れた足の指が冷たい。何故だか涙が出そうになる。
 元々私はワガママな女だったけど、サディストなんかじゃなかった。雅美のことが好きだから、マゾヒストの雅美に合わせてサディスティックな振る舞いをしていただけだ。私は女王様の役割を演じることによって犬の雅美に尽くしている。
「たまには普通の恋人みたいにしたい」
 か細い声を重ねると、雅美の視線がこちらに向いた。床に投げ出されていた、雅美のよく鍛えられた太い腕がベッドに上がってくる。それを気味悪く感じた私は、ベッドの上で後退りをする。白い壁に背中がぶつかって、俯けていた視線を持ち上げると無言の雅美と視線がかち合った。
 小柄な私の大きな瞳は、雅美の姿をときどき恐ろしいもののように湾曲させる。今がそのときだった。私は、体を硬直させて自分の犬を睨んだ。震える唇で、「だから、普通がいいんだってば」と、呟く。
 雅美は無言で、私の体に覆いかぶさった。半開きの唇に、雅美のそれが重ねられる。雅美とキスをしたのはそれが初めてだった。足を舐められたことも、平手打ちをしたこともあるのに、キスをしたのは初めてだった。
 改めて、私達の関係は異常なのだと意識し、それと同時に私は雅美の頬を打った。普通の恋人のようにしたいと言ったくせに、キスをされたらこうなのだから、私は私が分からない。お前は何をしたいんだ、と問いたくなる。
「雅美、」
 名前を呼んだものの、言葉の続きは出てこない。今の私は、自分が何を望んでいるのかが分からない。
 沈黙に押し潰されそうになりながら、私は雅美が口を開くのを期待している。雅美は、私と二人きりでいると、殆ど口を利かない。犬には犬のこだわりがあるらしい。
 東方と付き合っていると、自分が馬鹿みたいに思えてくる。何も言わない男を相手に、高慢な態度をとっている自分が情けない。
 雅美がマゾだということは親しい友人にも話していない。校内ではそこそこの人格者である雅美の評判を落としてしまうのが怖いからだ。
 東方くんは優しくしてくれるでしょ、羨ましいなあ     現在は浮気を繰り返す年上の男と付き合っているのだという友人に、そんなことを言われたことがある。理由もなく殴られても文句の一つも漏らさない雅美、こうして見つめあっていても口を開いてはくれない雅美、雅美は本当に優しいのだろうか。私は雅美のことを優しい男だとは思えない。酷い男だと思うことすらある。
 乗馬をしたことのない人間に手綱を握らせたって、意味がない。雅美が私にさせているのはそういうことだ。私は、雅美以外の男を知らない。イニシアチブなんて欲しくない。
 近頃の私は、雅美にどんな言葉をかけてやればいいのか分からなくなってきている。女王様ごっこだって、いい加減にもう限界だ。
 普通の恋人のようにしたいは言ったけど、本当は普通の恋人がどんな風に二人の時間を過ごしているのかも分からない。
「雅美、ベッドの下に降りて」
 怖いから、と付け足すと、雅美はあっけなく身を退こうとする。
 雅美は犬だから、飼い主である私の命令には決して逆らわない。私はそれが嫌だった。なんとなく、普通じゃない気がするからだ。だからといって、「私に逆らって」と、言って聞かせるのはちょっと違うと思う。
「雅美は、私とキスがしたかった?」
 尋ねてみても、応えは返ってこない。お前のその口は飾り物か、と言いたくなる。
「セックスは?」
 やはり雅美はなにも応えない。私たちはまだセックスをしたことがない。近いことは何度かしたことがあるけど、最後まではしたことがない。雅美は、私を求めないからだ。
 私は、つと雅美とするセックスはどんな感じだろうかと考えた。マゾの男は、どうやって女を抱くのだろう。やはりイニシアチブは女に握らせるのだろうか。そうだとしたら、私は雅美とはセックスしたくない。処女の自分が、この大きな犬とのセックスの主導権を握るだなんて無茶な話だ。
 そもそも、私は雅美が自分とセックスをしたいのかどうかも分からないのだ。雅美が何を考えているのか知りたいのに、分からないのが歯がゆい。
「雅美、もう一度キスして」
 どうにかして雅美の気持ちを探ろうと、私はベッドから降りた。キスをするときの表情を見れば、何かが分かる気がした。
 雅美の唇が、私のそれに重なる。平手打ちは、もうしない。
 私は、うっすらと瞼を開いた。熱のない男と目が合って、心臓が縮こまる。
「どうして」
 唇が離れると同時に、そう呟いて、雅美の首に腕を回した。どうしてそんな目をするの、と質問を重ねながら、首筋に爪を立てる。雅美が、息を詰めるのが分かった。私は、半ば絶望的な気分になりながら、再び口を開く。
「雅美のしたいようにして」
 そう言って首に回していた腕を解いた。だけど雅美は動かなかった。私の瞳を見つめて、私が次に口を開くのを、じぃっと待っていた。




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