避妊に失敗したかもしれなくて凹む雅美

 彼女とのセックスの最中にコンドームが抜けた。彼女に任せきりにしていたコンドームの買い出しを、初めて自分でしたせいだ。彼女が買ってくるものより小さなサイズのコンドームを買ってしまったせいで酷く窮屈な思いをした。根本まで到達しない、窮屈なコンドームを使って、窮屈なセックスをしていたら、いつの間にかコンドームがナニから抜けていた。取り残されたコンドームが、彼女の中から抜け落ちてシーツを汚す。
 ヤバイ、そう呟いた彼女が下唇を噛む。無駄に成長した雅美の体の上から降りた彼女は、ベッドの脇に置いてあるティッシュ箱から数枚のティッシュを抜き出して、ベッドの上を拭った。
「ごめん、垂らしちゃった」
 におい残っちゃうかもね、などと呑気なことを言う彼女の下半身をまじまじと見つめる。やめてよ、恥ずかしいと笑う彼女の心に不安はないのだろうか。
「避妊、」
「失敗したかもね」
 震える声で絞り出した言葉に、あっけらかんとした声が付け足される。心臓の拍動が早まっていく。酷く気分が悪い。
 彼女が自分のそこに指をするりと忍び込ませる。暫くの間、中をかき回した彼女は、取り出した指をしげしげと見つめて、「たぶん大丈夫だよ」と、言った。
「だってゴムの入り口は中に入ってないもん。妊娠なんかしてるはずない」
 こちらの不安を取り除くために言ったであろう彼女の言葉の中に紛れ込んだ妊娠という言葉に心臓が刺激される。彼女は心配ないと言っているが、もしも彼女が妊娠していたらどうすればいいのだろうか。学生の自分が、子供を身ごもった彼女のためにやってやれることなんてきっとない。
「落ち込んでる?」
 小首を傾げた彼女が、雅美の太い首に腕を絡める。大丈夫だよー心配しないでーと、耳元で囁く彼女はどんな表情を浮かべているのだろうか。自分の体のことなのだから、不安がないはずはあるまいに、耳元で響く彼女の声は明るく、項垂れる雅美の後頭部を撫でる手は優しい。彼女と付き合い始めて1年以上が経つが、こんな風に優しくされたのは初めてだった。
 普段の彼女は、メールの返信すらまともにしないような女である。デートの誘いをしても、初めは必ず、「やだーめんどくさーい」と、こちらの心を挫くのだ。デートの日程を決めるところまでこぎつけたところで、気乗りがしないなどという理由でドタキャンされることも珍しくはない。とにかく気まぐれで、誠意のない女だ。そんな彼女が今、雅美を慰めようとしている。これは快挙である。こんなことはきっと、この先一生ないだろう。
 しょうもないことで感動し、避妊を失敗したかもしれないという衝撃を忘れつつある雅美の肩を、彼女の顎が刺激する。肩のこりをほぐすように顎をぐりぐりと動かした彼女が、掠れ声をあげる。
「もしも妊娠してたら、別れようって言ってあげる。子供の父親が誰なのかも言わない。うちの親、私が雅美と付き合ってること知らないし、私なんかどうせアバズレだから大丈夫だよ」
「そういう問題じゃ、」
「だから雅美はなにも心配しなくていいよ」
 必要以上に優しい声だった。無理をしているのが分かるから辛い。
 床に脱ぎ捨てた衣服を一枚一枚手に取り、身に纏った彼女が、大きな伸びをして、「今日は寒いねぇ」と、呟く。
「今日は家まで送ってくれなくていいよ。寒い思い、させたくないし」
 彼女のために寒さや暑さを感じることは苦痛ではない。雅美は、彼女のためならどんなことでも出来ると思っている、思っていた。しかし、子供だけはどうしようもない。まだ駄目だ。早すぎる。
「送るよ」
 こんな日に一人で帰ると言った彼女が心配でそう言うと、途端に冷めた表情を浮かべた彼女が溜息をついて俯いた。
「……私は、今日はもう雅美と一緒にいられないよ。雅美の顔見ると、もしも妊娠してたらどうしようって不安になるから」
 熱のない声だ。苦笑を浮かべた彼女が、頼りのない利き手をひらひらと振ってみせる。
「それじゃあ」
「ああ」
 弱みを見せた彼女に優しい言葉の一つもかけてやれない情けない自分が憎かった。
 雅美は、彼女以外の女を知らない。彼女以外の女の体を知らない。しかし彼女はそうではないのだ。彼女は、自分以外の男を知っている。その事実は、雅美の心に暗い陰を落とす。
 彼女の初めての男になりたかったわけではない。だけれど、他の男のことは忘れてほしい。他の男と比べられたくない。今までの男と比べられたら、もうおしまいだ。自分では彼女の一番にはなれない。それだけははっきりと分かっている。
 そうして鬱々としている内に、窓に西日が差し込み始めていた。彼女が家に帰ってから数時間、雅美は気持ちを浮上させることが出来ないままでいたのだ。
 恋人のこととなるとネガティブになりすぎる自分に、雅美は気付いている。しかし、雅美をそんな風にしたのは彼女なのだ。
 彼女は、いずれ訪れる二人の別れを常に見据えている。別れるときまでは楽しくやろうよ、それが彼女の口癖だ。
 今日だって、雅美を慰めるためとはいえ、あんなことを――自身の何気ない言動が、雅美の心をどれだけ傷付けるのか、彼女は知らないのだ。
 ベッドの上に転がった携帯が「ユーガッタメール」と、やる気のない外国人の声をあげる。
 その拍子に、シーツに精液をこぼしたまま、後始末をしていないことを思い出してしまった。せめて換気だけでもしようと窓を開くと、二月の冷たい風に体を刺される。
 メールの送り主は彼女だった。落ち込まないでね、という内容のメールである。現在進行形で落ち込んでいる雅美は、大きな溜息をこぼしながら彼女のメールの文面を見つめていた。滅多に使われることのない顔文字が、文章の最後にくっついている。
 胡散臭いな、そう思ってしまった。


 それから半月が過ぎるまで、次のメールは届かなかった。まさかとは思いつつ、彼女が妊娠していたら、と思うと不安で仕方がなかった。こんなときに普通のメールをよこすのもおかしい気がして、雅美の方からも彼女に連絡は入れなかった。
 昼休みに彼女からのメールが届いた。三年生が自由登校に入ったせいで人もまばらな学生食堂で、雅美は南と昼食をとっていた。
 マナーモードに設定していた携帯を、何の気なしに開いた雅美が大きく肩を揺らすと、怪訝な表情を浮かべた南がこちらを見つめる。どうしたんだ、と問われて、彼女からメールが来たのだと返すと、「驚きすぎだろ」と、ますます訝しまれた。
「半月ぶりだからな」
「相変わらず淡白だな」
 南は彼女とは面識がないが、ときたま雅美が話をするので彼女がどんな女であるかは知っている。南は雅美と彼女は変わった付き合い方をしていると言う。否定する気にはなれなかった。
「なんて」
「まだ見てない」
 そう言いながらメールを開いた雅美の、視界に飛び込んできた一文は彼の心に深く切り込んだ。心臓が早鐘を打ち始め、額には汗が滲んだ。南が再び、「なんて」と、言う。
「今何してるのって書いてた」
「平日の昼間なんだから昼飯食べてるに決まってるだろ」
「たしかにな」
 笑おうとした。それなのに口角が上手く上がらなくて、不恰好で中途半端な笑顔が出来上がる。
 箸を動かし始めた南から顔を背けるようにして、彼女への返信を打つ。あとで電話をかけてもいいか、それだけ書いたメールに返事が来ることはなかった。


 数週間前、昼休みに届いた彼女からのメールには、「もう別れよう」とだけ書いてあった。生理が来ないのだとも、妊娠したかもとも書いてはいなくて、雅美に避妊に失敗した日の彼女の発言を思い出させた。
 もしものことが起きてしまったのだろうか。真偽は分からない。あれからというもの、幾度となく電話をかけ、メールを送ったが、彼女はそれに応じなかった。彼女の顔が見たい。しかしもしも彼女が本当に子供を孕んでいたとして、雅美に何が出来るのだろう。最後に見た彼女の姿がいつまでも網膜から離れない。
「だらだらせずにおつかいにでも行ってきなさいよ」
 部活のない休日に、彼女のことで鬱々としながら引きこもっていた雅美に母が声をかけた。こっちの気持ちも知らないで、そう思いはしたが、親に対して反抗らしい反抗もしたことのない彼は、溜息の一つも漏らすこともなく重い腰を上げた。
 春がすぐ傍までやって来ていた。避妊に失敗したあの日、あれほどまでに冷たかった大気が今はもう暖かい。
 あれからもうひと月が過ぎたのだ。外の風景も少しばかり変わったように思える。
 春の訪れを嗅覚で感じ、花粉症の人間は大変だな、などと考えていると、視界に松葉杖をついた女の姿が映りこんだ。折り曲げられた右腕には、スーパーの袋がかかっている。雅美は言葉を失った。松葉杖の女は彼の恋人だった。
 利き足を重たげに引きずる女の元に駆け寄ろうと一歩だけ足を踏み出して、しかしふんぎりがつかずに二歩目は宙ぶらりんになった。身長186cmの男の片足立ちは不恰好である。
 松葉杖の女が、不恰好な男の存在に気付いた。苛立っている様な戸惑っている様な、よく分からない表情を浮かべた彼女は、雅美からフイと視線を逸らし、脇道にそれようとする。しかし、慣れない松葉杖で立っているせいなのか、方向転換が上手くいかずにその場でよろめいた。雅美の宙ぶらりんだった足がアスファルトを蹴る。彼の手によって支えられた彼女は、松葉杖の一本を地面に落とし、自分を支える男を睨んだ。
「大丈夫か」
 そう声をかけた雅美の腕を払いのけた彼女が、「触らないで」と、彼を睨む。痛む胸をおさえそうになるのを堪えながら地面におちた松葉杖を拾ってやった雅美に対してお礼の一言もなしに、「私たちはもう無関係でしょ」と、彼女はひんやりとした声で呟き、松葉杖を器用に扱って雅美の元から二歩、三歩と離れていく。しかし、長身の男によってすぐさま距離を詰められてしまい苛立ちを眉ににじませた。
「なんなの」
 足に負傷を負ってはいるものの、雅美の目に映る彼女はいたって健康そうである。自らの顔、それから腹をまじまじと見つめる雅美に彼女は、「できてないよ」と、睫毛を震わせる。だけど雅美とはもう付き合っていられない、そう付けたされて心臓が跳ね上がった。彼女の黒々とした瞳が先程までとは打って変わってはっきりと、雅美の姿を捉えていた。
「子供、出来ちゃうかもしれないって思ったとき、すごく嫌な感じがした」
「……それは、そうだろ。まだ学生なんだから」
「ううん、違うの。いや、違わないんだけど、私……なんていうか、」
 そこまで言って言葉を切った彼女が、松葉杖を使って雅美との距離を詰める。それだけのことでどきまぎしてしまう雅美を目の前にして、彼女の舌がぬらりと動いた。
「雅美の子供は産みたくないの」
 心臓を握り潰されるような衝撃を受けて、雅美は他人よりも大きな図体をよろめかせた。
「今だからだけじゃない、雅美だから嫌。今日でも、明日でも、十年後だって嫌だと思う」
「どうして」
 カラカラに乾いた喉から掠れ声が漏れる。理由なんてないよ、と彼女は応えた。無表情に、淡々と、気まずさなんて、少しも感じてない様子の女が憎たらしい。彼女は、全てが終わったような顔をしているが、雅美の中では何も終わっていないのだ。目の前に立つこの女は未だに雅美の恋人なのである。
「ねえ、もしかして傷ついてるの」
 小馬鹿にしたように問いかける彼女に腹が立つ。だんまりを決め込む雅美に彼女は、「怒ってるんだね」と、言った。苛立ちやら、悲しみやら、それからこんな思いをさせられてもなお残る彼女への愛しさがごちゃまぜになって体温が上昇した。
「別れられてよかったでしょ」
「……それをお前が言うのか」
「いけない?」
「別れてよかったのか、悪かったのかは自分で決める」
「こんな酷い女他にいないのに、それを知らない雅美は馬鹿だね」
 そう言われた瞬間、頭にカッと血が登った。彼女の細い手根を力任せに掴みかけ、しかし視界に松葉杖が映り込んでしまったので暴力的な衝動は抑え込んだ。行き場を失った右腕が震える。そうして明らかに冷静さを欠いた雅美を、彼女はまばたきの一つもせずに見つめていた。
「お前が酷い女だってことくらい知ってる」
「それじゃあどうして私と付き合ってたの? 今までだって何度も傷つけられてきたくせに。今回なんか酷すぎるアンタの子供は産みたくないって存在否定と一緒じゃん」
「それを俺に言わせるのか」
 怒りで肩を震わせる雅美を目の前にして、彼女の瞳が初めて揺らいだ。どことなく心細げに肩を震わせながら、しかし平坦な声で、「言って、なんで私なんかと付き合ってたの」と、問いかける。
「好きだからに決まってるだろ。待ち合わせの一時間前にデートの約束を反故にされても、気持ち悪いだのなんだの言われても、お前の子供は産みたくないないなんて、突然ふられそうになっても、嫌いにはなれない。好きで好きでたまらない。こんなに惨めなことがあるのか。お前以上に俺を惨めにさせる女なんて、この先一生現れない」
 酸欠にでもなりそうな勢いで言い切ってから、ここが公道であることを思い出す。額に手を当てて俯くと、「ごめんね」というか細い声が鼓膜を震わせた。
「最低だって分かってるならいいじゃん。私はもう雅美を傷つけたらいけないよ。もうやめる、もうやめよう」
 自分から別れを切り出したくせに、彼女は苦しげな表情を浮かべている。
「勝手に終わらせるな」
「嫌だ、嫌だよ。だって私変態だもん」
「変態って……」
 この場にはそぐわない言葉に驚いて眉をひそめると、いたって真面目な顔をした彼女が、「私、変態なの」と、重ねた。
「自分の好きな人を苦しめるのが好きなの。私の心ない言葉を聞いて、悲しんだり怒ったりする雅美に興奮させられてる。最低でしょ。私に好かれて、私を好きでいる限り、雅美はずっと傷つき続けるよ」
 だから別れよう、と彼女は言う。なんとも身勝手な話である。彼女の中に雅美を傷付けずにすむように自分が変わるという発想はないのだ。




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