ユスリカ揺れる

「あの水槽の中にいるのは何だ」
 ベッドの下に放っていた下着を拾い上げた拍子に尋ねると、女は「ああ、あれね」と中身の生き物をあれ呼ばわりした。「イモリだよ」
 言われてみれば腹が赤い。衣服を整えてから近づいていくと三匹もいた。
「帰るの?」
「帰った方がいいなら」
「よくないけど、服着たから」
 人の部屋で裸のままではいられない、と返すと顔だけで振り返って笑顔を見せた。ついさっきまで雅美の中心を握っていた手には泡だったスポンジが握られている。事後の剥き身の体のまま、花見で使った網を洗う女の背中は頼りない。
「何か貸してあげたいけど前の彼氏小さかったし無理だね」
「いいよ。これで寝られる」
「焼肉の夢が見られそう」
 彼女は大学と高校生の同級生だった。だったといっても高校に通っていた頃には一度も口を利いたことがない。卒業を控えた年の冬に、校舎の階段の手すりを滑る遊びに興じるあまりスカートを破いた女子の話を噂に聞いて、親泣かせな奴がいるものだと呆れていたがそれがこの女だ。
 大学でテニス部の片手間に入ったボランティアサークルの実態は、片手間の加入を許すだけあって各種奉仕活動を終えた晩に酒を飲むのが活動の主と化している飲みサーで、彼女はメンバーですらないのに夜にだけへらへらと顔を出しては誰よりも楽しそうにホッピーをあおっていた。
 昼から夜にかけて近場の河川敷で開催された今日の集会は奉仕活動抜きの純然たる花見で、殆どまばらになった桜を見上げては肉を焼き、アルコールで喉を焼いては、肉を食いというのを繰り返している内に、初めは二十人近くいた仲間が片手で数えられる程度にまで減っていた。
 お前らどっちでもいいから網持って帰って洗っといて。
 肉焼きコンロを場に提供した同級生は、へべれけになった恋人を支えながら去っていった。網には炭化した食材がぎっちりとこびりついている。ブルーシートの上に散った花びらを熱心にかき集める女にその役目を任せる気にはなれなかった。どんな状況であれ、常識の範囲を超えない限りは自分が面倒事を引き受けるべきだと考える癖が雅美にはついている。
 紙コップに残った烏龍茶をあおると、胡座をかいていた内腿に花びらが落とされた。それをかき混ぜるように触れてくる指は柔らかかったと思う。「網、うちで洗うから雅美が運んで」
 袖を通した服には確かに肉の匂いがこびりついていて、パンツだけ履いてりゃいいじゃんという彼女の言葉に甘えて雅美はもう一度下着一枚になった。
 洗い物を終えた女の指が肩に触れる。ハンドクリームを塗り込めたそこはしっとりとしていて、最中の記憶を呼び起こした。彼女と寝るのは今日で三度目だ。初めて繋がったときはホテルの休憩で、二時間のうちに慌ただしく済ませた。
「こいつらは何を食べるんだ」
「赤虫。水が汚れるから頻繁に掃除しなきゃ駄目だけど」
 あげてみる、と訊かれて頷くと彼女は冷蔵庫の前に立った。「こうしておかないと孵化して蚊になっちゃうの。ちょっとした恐怖だよね」
 タッパーの中で水に浸けられた赤い虫とピンセットが差し出される。数匹を一気につまんで水槽の中にさしのべると、気だるげに散っていたイモリ達が四本の指を見せつけながらむらがってきた。
「食いつきがいいな」
「少しずつにして、すごく少食なの」
 可愛いでしょ、と睫毛が揺らいだ。
「確かにな。名前はあるのか」
「ないよ」
 区別がつかないからつけられないという。
「お母さんの田舎でとってきたんだけどさ、そういうことしていいのか分からないからSNSとかにも載せずこっそり飼ってる。内緒にしてね」
「こうして時々会うことも?」
 彼女が小柄な彼氏と別れて以降、新しい恋人を見つけたかどうかすら雅美は知らない。
「二人きりで会ってることは知られてもいいけど、セックスしてるのがバレたら恥ずかしいよ」
 色々すごいし、とこちらに寄せられた肩には鳥肌がたっていた。彼女の頭の中には、生々しい最中の記憶が呼び戻されているのだろうか。反応しそうになる熱を赤虫のタッパーを見下ろすことで押し留めて、服を着るように促す。
「朝まではこのままでいいよ、お客さんだけ裸で寝かせられないし」
「そんな気遣いは聞いたこともない」
「この前シたあと雅美が部屋で貸してくれたパーカー、あれはかなり寝心地が悪かった」
「家にある中で一番分厚いのを出したんだ」
 赤虫のタッパーがとじられる。「薄々でいいのに」
 気が合う相手とは言い難いのに、この先も酒の席で二人残されれば何度も寝てしまう気がした。そういうことが続けば付き合っているということになるのだろうし、それを求めて次も終電を忘れたふりをする自分は容易に想像がつく。
「ベッド戻ろ」
 シーツの上で指を絡めて、薄い胸に顔をうずめる。女は僅かに苦しげに眉を顰めた。「雅美ってさ」
 足の指で脛をたどられた。
「絶食だと思ってた」
「よく食べる方だと思うぞ」
「違う。普通に下心があるから驚いたの。最初のとき、ホテルまで誘ってもシないだろうなって思ってたから」
「そんな男は滅多にいないな」
「ええ」
 何故だか傷ついたような顔をした女が布団の中に潜り込む。軽く芯を持ち始めた熱を包むボクサーを下ろしながら、
「尺ったげる」
 吐きかけられた呼気は冷たい。
「そんな言葉を使う人間に初めて出会った」
「私も初めて言った」
 膨れた突端を舌がさらう。やや乾燥した唇が挟む。いい加減もどかしくなってきたところで再び顔を上げた彼女は困り顔で雅美の外腿を撫でた。その指は震えている。
「ずっと聞きたかったんだけど、雅美って彼女いる?」
 頷いてみせたらどういう反応を見せるのか気になってしばらく黙っていると、あっさり口淫に戻ってしまう。苛立った分だけ、奉仕が執拗になる。彼の好きな女はいつもそんな風だった。




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