受け身の男にお似合い

「鯛を貰ったから三枚おろしにしてほしい」
 発泡スチロールの箱に収まった赤い魚を見せびらかすと、侑士は「ええけど、昔ほどうまないで」とキッチンに立った。研ぎ器で念入りに包丁の刃を研いでから、ペットボトルのキャップで鱗をとり始める。ブランクがあると言っていたのに、その手つきは淀みない。横に立ってじっと見つめていると「穴あくわ」とパーマのかかった髪を揺らがせた。前の方がいい。でも今だって嫌になるほどカッコいい。
「その髪型ヘンだよ」
 大幅なイメチェンへの感想を三年越しにもらすと、顔だけで振り返って目を細めて見せる。そこに眼鏡がないのもヘン。侑士がヘンなんじゃなくて、私の心が昔の彼の面影を追って歪に揺らぐのだ。
「いらんこと言うてへんで、髪束ねて。邪魔臭くてかなわんわ」
 手首に引っ掛けていたゴムを指に持ち替えて、背伸びをする。侑士が多少しゃがんだところでその頭は遠い。届かない、と漏らすと溜息をついて手を洗った。ゴムを手渡すときに指先が触れる。侑士の指は長い。侑士の指は、痛い。

 いつかの夏に両親が車を借りて山奥にある旅館に連れて行ってくれたことがある。長くしなる木々に縁取られるようにして建った木造の建物は、いかにも古めかしかったけど、中はそれなりに清潔で、客室にはベッドが二つと布団が一組用意されていた。部屋にたどり着くなり、私は迷いもせずその布団を窓際に敷いて、髪の毛を束ね直した。
 ベッドで寝てもいいんだよ。父が控えめに漏らすのを無視して、窓枠に手をかけた。川のせせらぐ音に引きずられるように、外に目をやった。一匹の蝉が透明な尿を撒き散らかしながら飛び立っていくのが見えたが、それ以外には何もない。蕾もつけない枝葉が揺れ、川の水が流れていくばかりだ。周辺にも目立った名所はなく、キャニオニングやカヤックなどといった渓流を活かしたアクティビティが展開されているわけでもなかった。
 悪くないけど、温泉でもあればよかったのに。
 あの頃は充分に若かった母は、控えめに父をなじったものの、私はその場所の足りなさが嬉しかった。当時の私の難しさ≠ヘ深刻で、長期休暇に人の集まる場所で羽根を休める自分の姿は想像もつかなかった。
 小さく言い争う夫婦を残して、私は散策に出かけた。中学に入学した年に母の買ってくれたレモンイエローのクリアバッグに水筒と文庫本を押し込んで。
 廊下に出るなりきれいな女の人に出会った。その日は私たち家族ともう一組しか客はいないと聞かされていたはずだ。こちらが会釈するとその人は薄い目を更に細めて笑った。きれいな人は一瞬、一秒の形を長く人の心に留めておくことが出来る。彼女は「うちの弟に会ったらこれを」と虫除けスプレーを私に託した。川べりに辿り着いても、その西の訛りのある声は私の心を引っ掻いていた。
 灰色の石の敷き詰まった川原を歩く内に、開けた場所に出た。そこに座るのにちょうど良さそうな大きさの岩を見つけ、私は足を止めた。サンダルを脱いで、水辺に近づく。小さなおたまじゃくしが無数に泳ぐ透明な水に、麦わら帽子の影がさした。バッグを岩に置いて、指を差し込むと、水の冷たいあまりに肩がぐらつく。ふ、と漏らした吐息が空気に霧散するより先に背中に声がぶつかった。「捕まりそうか」
 西の訛り。反射的に水から手を引いてクリアバッグの中に収めた虫除けスプレーを掴み取る。振り返って相手の顔をろくに確認もせず投げ渡してから、口を開いた。
「捕まえないよ。カエル嫌いだし」
「はあ、カエル」
 侑士は、あの頃は彼の裸眼をいつでも遮っていた伊達眼鏡のレンズの向こう側ですっと目を細めた。笑っていないと不機嫌そうに見えるのは、今も昔も変わらない。それでもお姉さんと同じく顔がきれいなのには間違いなくて、私がぼうっとしていると、隣にしゃがみ込んだ。
「なんや、おたまじゃくしやん」
「なんだと思ったの」
「ニジマスかアマゴあたりの稚魚やな。もう少し登ったところに養殖の生簀があった」夕飯は川魚だろうか。母はその手の、彼女が田舎らしいと定めた食材が大嫌いだったので、私は黙り込んだ。「そのへん泳いどってもおかしないやろ」
 おかしいかどうかの判別もつかぬままに頷いた拍子に、麦わら帽子が頭から落ちた。
「あっ」
 水面に落ちるすんでのところで、侑士の長い指がそれを掴んだ。
「頭の大きさに合ってないんやな。自分小顔やし」
 すぽん、と小気味のいい音を立てて頭に帽子が戻ってきた。
「次は小さいのを買ってもらうよ」
 性懲りも無く頷いて、帽子が揺らぐのを侑士はあの鋭い瞳で見つめていた。視線がかち合うと、川のせせらぐ音や、蝉の声が世界から消えた。
「新しいのがくるまでは、きちんと押さえときや」
 小石の上に投げ出していた私の手の甲を撫でた指は冷たかった。

 せっかく三枚におろしてもらった鯛の身をアクアパッツァにすることを私が宣言すると、侑士は呆れた目を向けながらも部屋着から着替えて外に出ていった。パンとワインを調達しにいったのだろう。彼が至らなかったことはない。
 ミニトマトのヘタを外して、アンチョビを刻み、ケッパーの瓶に小さな匙を突き入れる。材料の全てを投じてしまえばもうやるべきことはない。ステンレスのボウルに避けられたアラ、それに付随するカブト。所在なさげに収まった暗い色をした目玉とかち合うと、初めて出会った日に二人で見に行ったニジマスのぎゅうぎゅうに詰まった生簀を思い出す。彼らをギャラリーに、初めて一目惚れをした男に捧げた告白ショーの末路を。出会ったばかりで、どこの誰かも分からないのに「好きです」なんてバカみたい。
「堪忍な」と侑士は言った。どこで調達したのか、茹でうどんの端切れを生簀に放って、わらわらと集まってくるニジマスたちの頭を見つめながら「俺、女の子はあかんかもしれん」と青かった私の心を砕いた。そのくせキスは許してくれた。成人して以降は受け身のセックスも。
 侑士はいつも矛盾でいっぱいだった。女の子はあかんのに、誰よりも女の子に優しくて、どんなことだって人並み以上にこなすのに、時に自分に自信のない素振りを見せた。そうしてそういった揺らぎの全てを自身の持つ魅力として体の内側に飼い慣らしていた。
 バゲットとワインを手に戻ってきた侑士は、私の束ねてやった髪をほどいてソファに背を預けた。隣にかけて肩に頭を預けると、近頃別れたばかりの男の話を披露してくれる。歳上の、救急救命士、救急車にのせて運んだ消防士と良い仲になり、侑士のもとを去っていった。「熱い男が好みだったんじゃない?」「火事場で自分のために命を張ってくれそうな」「顔とか性格なんて二の次でさ」
 フライパンから白い湯気が伸びるのを見つめながら好き勝手に言葉を並べる。
「俺もあいつのためやったら命くらいかけられたわ」
「ふぅん」
 恋愛が絡むと少し頭の足りなくなる侑士の唇に自分のそれを押しつけて、ベルトのバックルを緩めてやる。
「今日はあかんわ」
 言葉とは裏腹に、侑士は私の頭を押した。退けるためではなく、気持ち良くしてもらうために。くち、と訊くと耳たぶに指を絡めてくる。「私は侑士のためならなんでも出来るよ」
「なんでもって大袈裟やな」
 下着ごとジーンズを引き摺り下ろして、足の間に体を収める。先っぽに息を吹きかけてから一息に吐き出した。
「だって顔が好きだもん」
「他にないんかい」
「ない」本当はたくさんある。だけどそれらを上手く伝える言葉を私は持たなかった。ぱくん、と咥えると侑士の下腹が揺らぐ。じゅうって吸い上げて、亀頭を舌先で辿った。
「関わる相手によって形を変える内面と違って、顔はいつでもおおむね同じ状態で外に曝け出してるでしょ。それより確かなものってないじゃん」
 愛撫の合間に私が展開させた馬鹿馬鹿しい持論に耳を傾ける余裕が侑士にはない。眼鏡がなくなっても、髪型が変わっても好きだよ、と続ける私の口の中に、張り詰めた熱を押し込んで、苦しそうに揺さぶる。
「あかんわ」あかんなら、拒めばいいのに。
 とろとろ舌を動かすと、あかん、あかんの合間の吐息が色を持ち始める。視線を下ろすと、紺色の靴下に包まれた足の指先が伸びていた。情けない、愛おしい。心ごと全て飲み込んでやりなくなる。ちゅぱん、て唇を離したら寂しげな目。
「その髪型、ヘンだけど好き」
 受け身の男にお似合いだから、と続けると、後ろ頭を撫でられた。
「完全に自分の主観やん」と侑士は言ったけど、それより大切なものがこの世にあるとは思えなかった。



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