××の心〇〇知らず

トリップしてきた頃、私にとってこの世界はモノクロの印刷物でしかなかった。
地に足をつけて立っても、そこにある酸素を体内に取り込んでも、現実味が感じられない嘘っぱちの世界だったのだ。
この世界を現実のものとして認めることが出来なくて、お母さんがいてお父さんがいて、大好きだったあの人が抱きしめてくれる世界が恋しくて仕方なかった。
毎晩床について瞳を閉じるたび、次に目が覚めたとき視界に映るのは見慣れた自室の天井かもしれないなんて夢想をしていた……それなのに、今ヒソカの腕に抱かれて瞳を閉じる私の胸の中には住み慣れたあの世界への未練なんて殆どない。
今の私は、このまま眠りについてしまうことが少し恐ろしい。
目が覚めたら私の体はここにはないんじゃないか、なんて思うから。
元の世界に帰りたいという気持ちがないわけじゃない。
私はお母さんを、お父さんを愛している。
だけど……私は元の世界にいた私よりも、今の私の方が好きだ。
汗だくになりながら修練をして、自分の能力を発現させるためにあれやこれやと考えを巡らせる……何かに情熱をかたむけられる今の自分が好きだ。
だからまだ帰れない。
この世界で何もなしていないから帰れない、元の世界じゃきっと輝けないから帰れない。
私はもう、この世界の一部になっている。



*****


「久しいな」
「……どうも」

気が付くと真っ白な部屋で椅子に腰掛けていた。
どうやら眠ってしまったらしい。
私の向かい側でソファに腰掛ける男は私の顔をじっと見つめながらぽつりと、

「……大きくなったな」

そんなことを呟いた。

「……」

いやいや、むしろ小さくなってるんですけど!
何故だか酔いどれのようにとろんとした表情を浮かべた彼は更に続ける。

「だけどやっぱりいつまで経っても子供だな」
「いや……あと10年も経たない内に成人しますけど」
「俺から見りゃいつまでも子供だ」
「……酔っているんですか」

酒の匂いがするわけでもないけど、この人の言葉はあまりにも要領を得ない。

「酔ってねえよ」
「素面なら私の質問に答えてください」

私がヒソカのマンションで初めて眠ったあの日以来、この人は私の元へ姿を見せなかった。
自分のおかれている状況について分からないことの多すぎる私はそれが歯痒くて仕方がなかったのだ。

「あなたはどうして私をこの世界に送ったんですか」

責めているわけじゃなかった。
むしろ感謝しているくらいだ、いずれは故郷に帰るにしてもこの世界で経験したことはきっと私の力になる。
ただの好奇心からの質問だった。

「……俺は、お前に選択肢を与えたかったんだ」
「選択?」
「ああ、お前には双方の世界を知り、自分の住まう世界を選ぶ権利があった」
「……よく分かりませんけど」
「それから、」

彼は渋い表情を浮かべる私を放っておいて、

「1人きりにしておくのは不憫に思えたんだ」

ぽつりと呟く。
その瞬間、私の意識はその場から遠ざかっていった。
1人きりだったのは誰?
せめてそれ位は確認したかったのにもう声も出ない。
次に会えるのはいつになるのかも分からないのに。



****

ヒソカについて訪れた旅団のアジトは想像よりもずっと綺麗な場所だった。
ヨークシンのときに使っていたものとは違うらしい。
風呂はないが各団員が眠る簡素な個室も用意されているという。

「ヒソカ、その子供はなんだ」

ヒソカの後ろに隠れて恐る恐る辺りを見渡す私を指さしてそんなことを言ったのは黒髪の美青年だ。恐らくこの男が蜘蛛の頭、クロロ・ルシルフルなのだろう。
今回の仕事で集められたメンバーはヒソカを除けば全部で五人。五人ともヒソカが子供をつれているという状況には不信感を覚えているようで、クロロの質問に答えようとするヒソカを食い入るように見つめていた。

「ああ、この子はボクの娘だよ。ボクに似て可愛いだろ」

……なに言ってんだこいつ。馬鹿だよ、馬鹿過ぎるよ。そんなの信じるやついるわけないじゃん。

「ほう、いくつのときの子供なんだ」

信じるのか……そして関心点はそこなのか。ん、ヒソカって何歳なのかな?

「十代の時の子供だよ」

答えになってないし。あれ、私なに考えてたんだっけ。ああ、そうだ、ヒソカの年齢。想像もつかないなあ、化粧濃いから肌の質感もわかんないし。

「そうか。それで結局なんなんだ」

あ、やっぱり信じてなかったのか。そりゃそうだよね。

「キミはボクの何なんだい?」
「へっ」

ヒソカは私を見下ろしながら問いかけた。唐突に話を振られて驚いた結果間抜けな声を出した私の元に他の旅団員の視線が集まる。

「私は……あなたの、」
「うん」
「あなたの……肉便器、です」

私はヒソカの肉便器だ、性奴隷だ、最初はそういう約束で傍に置いてもらったんだから間違ってはいない。私の言葉を聞いた団員たちは皆一様にうわぁ……という表情を浮かべてヒソカと私から一歩距離を置いた。ヒソカは私の髪の毛をくしゃりと撫でながら、キミは強情だねと言って笑う。

「そうか、所有物の一つなら仕方ないな」

クロロはポーカーフェイスでそう言ってその場を去っていった。その場に残されたヒソカは私の手を取って歩き始める。私はそれに抵抗する理由も無いので無言のままヒソカについていった。


*****


「キミはボクのことが嫌いなのかい?」

大人一人が眠るのにちょうどいい程度の広さの個室に私を押し込めたヒソカは壁際にあるベッドに私を座らせるとそんなことを言った。

「私はあなたが好きですよ。前にもそう言ったじゃないですか」

静かな声音で、薄ら笑いを浮かべながら言う。しばらく前にもヒソカに同じことを言った。だけど今の私はあのときの私と違って滑稽だ。こんな変態のことを少なからず想ってしまっている自分を否定することが出来ないのだから。

「そうは思えないね」

珍しく気のないそぶりで言ったヒソカは、どこからか取り出した日めくりカレンダーを壁に貼りつけると、小さく息をついて私の隣に腰掛けた。
そのカレンダーは私がトリップしてきて以来毎朝めくっていたものだ。ヒソカに毎日の日付を気にするようなマメさがあるとは思えない私は、彼がそのカレンダーをわざわざこんなところにまで持ってきたことを意外に思った。

「どうしてわざわざカレンダーを持ってきたりしたんです?」
「キミはこれをめくるのが好きだろ?」
「小さな頃は好きでしたけど」
「今は好きじゃないのかい?」
「そうですね、」

どうなんだろう? 少なくともあれをめくることに倦怠感を覚えたりはしないけど。

「ボクは今のキミが何を好きなのかは分からないんだ」
「今の私?」
「……いや、ボクはキミのことなんて殆ど知らない。キミは自分の話をしないから」

……ヒソカは、私のことをもっとよく知りたいと思っているのだろうか。そうだとしたら少し嬉しい。私もヒソカのことがもっと知りたいから。漫画では知りえなかっヒソカのことが知りたい。どんな子供だったのかだとか、どんな場所で育ったのだとか、そんな他愛もない話を聞きたいのだ。

「……私の話をしましょうか」
「キミの話?」
「子供だった頃の話です」
「今も子供じゃない」
「もっともっと小さかった頃の話です。聞きたくありませんか」

私が上目遣いで見つめると、隣のヒソカは、そんなことはないよ、なんて言いながら私の太ももを撫でた。その手つきからいやらしさは感じられない。それなのに私は頬に熱が集まるのを感じた。

「それじゃあ、」

そう言って話し始めようとするものの上手く言葉が出てこない。幼い頃の話をするとは言ったものの、どんな話をするのかまでは考えていなかったのだ。

「うーん……」

唸りながら思考を巡らせていると、不意に幼かった自分の小さな手の甲が脳裏によぎった。それをきっかけにずるずると記憶が手繰り寄せられていく。

「昔はカレンダーをめくるのが好きだったんです」
「そう言っていたね」
「本当に大好きで、それなのにある日カレンダーをめくろうとしたら家族の誰かにめくられてしまっていたことがあったんです」
「へえ……」

ヒソカのおかしな色をした唇がひくりと歪むのが分かった。私は今の言葉のどこかにヒソカの機嫌を損ねるようなものがあったのだろうかと思い、一瞬身構えたがヒソカが話の続きを急いたので再び口を開いた。

「そのとき家にあったカレンダーは月めくりのものだったから一度めくり逃すとひと月はめくることが出来なかったんです。幼かった私は泣きに泣いて家族を困らせました」
「それで?」
「泣いて泣いて、泣きつかれて眠って、次に起きたときには壁に新しいカレンダーがさげてありました。それは日めくりカレンダーで、家のゴミ箱にはその日の日付までのカレンダーの紙がたくさん入っていて、カレンダーを毎日めくれるようになった私はお礼を……あれ?」
「どうかしたのかい?」
「……今の、違ったんです」
「違った?」
「……ええ」

今の話は私が創りだした夢か妄想だ。だっておかしい、よくよく考えれば私の家には一度だって日めくりカレンダーなんてかけられていなかった。だからさっきした話はまるっきりのつくり話なのだ。それを自分の体験談だと思い込み、あたかも自分の経験した話のように話してしまったのだ。

「すみません。私勘違いしていたみたいです……私の家には日めくりのカレンダーなんてありませんでした」
「そうかい。そんな勘違いをするくらいだ。キミは疲れているんじゃないかい?」
「……そうなんでしょうか?」
「家からここまでは長い道のりだったからね。今日は早く眠るといいよ。ほら、そこに横になって」
「でも、私まだ……」

眠たくないんです。

言い切る前に私をベッドに横たわらせたヒソカはその場にあった薄っぺらい掛け布団私の半身にかけ、指の先でそれの質感を確認しながら、新しい布団も買ってこないといけないね……なんて言って部屋を出ていった。
残された私はやることもないので仕方なく瞳を閉じて先ほどのカレンダーの話のことを考える。どうしてあんな勘違いをしてしまったのだろうか。……そういえば最近はずっと発を完成させるために根を詰めていたから少し頭が混乱してしまっていたのかもしれない。

「……ヒソカの言う通り疲れてるのかな」

そうして体から力を抜いていくと緩慢な眠気が体を包み始める。
ヒソカは布団を買いに行ったのだろうか。そうだとしたら少し笑える。だって、布団を抱えるピエロなんて滅多に見れるものじゃないから。ああ、ついていけばよかったなあ……なんて、そんなことを考えているうちに私は眠りについてしまっていた。

そして今夜もまた夢を見る。





[*prev] | [next#]

戻る
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -