裸足で過去を踏む 人にだっこされるのなんて何年ぶりだろう? 体が今ぐらいの大きさだった小学校卒業前でも今みたいに子供抱きをされたりはしていなかったと思う。 「寝たのか」 「寝てません」 呟きながら瞳を開く。その拍子にすうっと息を吸うと嗅ぎ慣れない大人の匂いが鼻腔を満たした。決して嫌な匂いじゃない。それなのに居心地の悪さを感じさせる匂いだ。ヒソカのそれとは全然違う。首をひねりながら視線を上向かせると所々雲の浮かんだ夕焼け色が視界を満たす。いつの間にアジトの外に出てたんだろう? クロロの歩き方はびっくりする位に丁寧で、瞳を閉じてしまうと前に進んでいるというのを殆ど感じさせなかった。 「ここら辺には何もないんですね」 「ああ、盗賊のアジトだからな。賑やかな場所に建ってるのも変だろ」 「それもそうですね」 「今は寂れて人もいない道が続いてるが、しばらく歩くと繁華街に出る」 「どこに行くんですか?」 「さっきも言っただろ? お前の好きな場所に連れていってやる。新しい洋服でも買ってやろうか」 「……それはとても魅力的なお誘いなんですが」 ヒソカに買ってもらった三枚程度の洋服を延々着回している私にとって、クロロの申し出は尻尾を振って飛び付きたくなるくらいに嬉しいものだった。だけど今は洋服のレパートリーの少なさよりももっと深刻な悩みを抱えているからひとまずは断る。 「あの……その……私、」 「どうした?」 「お風呂に入りたいんですけど」 蜘蛛のアジトには浴室がない。正確に言うと、アジトには私に使える浴室はないという言い方になる。なにせアジトにある唯一の浴室はクロロの自室にあるものなのだ。気軽なノリで使えるはずがない。 「……お前、一週間も体を洗っていないのか」 「変な匂いしますか」 「いや、その心配はないな」 「一応毎日濡れタオルで体を拭いてはいるんです。髪だって水道で……」 「本物の貧乏みたいだな」 「……本物の貧乏ですから」 憐れに思うのなら今度のアジトは風呂付きの個室がある場所にしてほしい。あー……でも今度のアジトってあれか、ヨークシンか。風呂どころか個室もなさそうだったなあ。 「そうだな、家族風呂のある温泉にでも行くか」 「近所にあるんですか」 「……郊外だからラブホならいくらでもあるだろ」 「……家族風呂は」 「同じようなものだろ」 「まあ恋人同士で行けば家族風呂もラブホも一緒か……って、それマナー違反ですから」 「物乞いだったくせにマナーに気を遣うのか」 物乞いだったとは一度も言ってないんだけどな。基本的に話聞かないよね……この人。 「……とにかくあなたと二人でラブホ行くなんて絶対無理ですから。私、あの人に心配かけるの嫌なんです」 「心配? あいつがそんな人間らしい心を持ち合わせているとは思えないな」 「……それは、そうかもしれませんけど」 「俺は子供に手を出すような趣味はない」 「どうだか。……だいたい子供連れてラブホテルなんて入れませんから」 ……入れない、よね? もしも入れてしまうとしたら元いた世界で私が培った一般常識はこちらの世界では役に立たないものだということになってしまう。 「……俺の部屋で入るか」 あ、やっぱ入れないんだ。よかった、よかったけど……クロロの部屋かあ。 「ここまで連れてきてもらった意味なかったですね」 「いい散歩にはなっただろ」 「……私、歩いてませんけど」 「可愛げがない子供だ」 「血の繋がりもない可愛げのない子供を抱き上げるなんて物好きなんですね」 「それはヒソカも一緒だろ」 「あの人は物好きなのとは違います」 耳元でクロロが笑うのが分かる。失礼だと言ってむくれたら更に笑みを深められた。私を抱いて歩くクロロの進行方向はいつの間にか変わってしまっている。強引に連れ出したくせにこんなに簡単に引き返すんだ……つくづく身勝手な人。うっすらと夜の色のひかれ始めた空を眺めながら溜め息をつく私は、そういえばヒソカにはこんな風に抱き上げられたことはないなあ……なんて、どうでもいいことを考えていた。 ***** 「いい湯でしたー」 「よかったな」 クロロの自室の浴室は思っていたよりも広くて、思っていたよりも……いや、新築みたいに綺麗だった。そこでクロロの使っているシャンプーやリンス、ボディーソープを使った今の私からは、きっとクロロと同じ匂いがするに違いない。そんなことを思うとどこか落ち着かない。 「どうして入る前に着ていた服を着て出てこなかった?」 水の拭い切れていない薄っぺらい体に、バスタオルを一枚巻いただけの私を見つめながら、クロロが呆れたように言う。 「……せっかく体を綺麗にしたのに朝からずっと着ていた服なんて着れませんよ」 「その格好で部屋に戻るつもりか」 「なにか問題でも?」 「部屋を出る瞬間を他の団員に見られたら俺が変態だと思われる」 「いいじゃないですか。犯罪組織の頭なんてどっかおかしくないと出来ませんよ」 「性犯罪の組織だと思われるのはごめんだな」 「誰も思いませんよ、あなたが子供相手に起つような変態だとは」 ……たぶん。もしも私が同じ状況を目撃したら絶対に勘違いするけど。ここの団員は皆クロロのことを信頼しているみたいだから、そんな心配は必要ないだろう。 「よく舌の回る子供だな」 「私、見た目ほど子供じゃありませんから」 「男を知ったら大人になれるわけじゃないぞ」 「……はあ」 案外下卑たことを言う人なんだなあ。漫画読んだときはめっちゃカッコいい! って憧れたのに。ヒソカなんかよりずっと好きだったのに。 「お前、初めての男はヒソカなのか」 「答えたくありません」 「隠すほど恥ずかしいプレイだったのか」 「……あの人じゃありません。ついでにアブノーマルなプレイでもありませんでしたから」 ……本格的におかしいんじゃないかな、この人。こんなワケ分かんない男をあんだけ信頼してる蜘蛛のメンバーも、こんなワケ分かんない変態じみた男と戦うために躍起になるヒソカも、みんなみんなおかしいと思う。 「ヒソカじゃないなら、」 「あの人と出会う前に付き合っていた恋人です」 言い切った瞬間、元の世界に残してきた彼の存在を完全に過去のものとしてしまったことに気が付いて愕然とする。ロリコン(不確定)に乗せられてとんでもないことを言ってしまった。 「その恋人とはいつ別れたんだ?」 「わか……れてません」 「さっきは過去形で話してただろ」 「それは……うっかり、」 「酷い女だな」 「……っ」 「否定しないのか」 「否定なんか……出来るはずないじゃないですか」 私は言ってはいけないことを言ってしまったんだ。この世界に、ヒソカへの情に流されて、彼を裏切った。始めの頃みたいな、生きて帰るためだなんて言い訳はもう効かない。今の私は彼のいる世界に帰るために生き延びようとしてるんじゃないから。 ***** 「いつもと違う薫りがするね」 微かな血のにおいを身にまとって帰ってきたヒソカは、ベッドに横たわっていた私の首元に顔を埋めてそんなことを言った。 「……ん、団長さんの部屋でお風呂を借りたんです」 「クロロと親しくなったんだ、それはイイね」 「いいんですか」 「素晴らしいよ」 ……どうして私とクロロが親しくなると素晴らしいんだろう。私とクロロが親しくなったところでヒソカにメリットなんてないと思うんだけど。 「よく分かんないです」 「……きっと近いうちに分かるよ」 「……そうですか」 「クロロはキミを気に入ってるみたいだ」 「オモチャにされてるだけですよ」 「キミも彼のことが嫌いじゃあないだろ」 ヒソカの言うとおりだ。クロロのことは嫌いじゃない。それは間違いない。だけど好きなわけでもない。一緒にいて退屈だと感じることはないけどそれまでだ、ヒソカの傍にいるときみたいな安心感を得ることは出来ないんだから。 「今日、」 「ん?」 「団長さんが抱っこしてくれたんです。私、人に抱っこされたのなんかすっごく久しぶりだったから、」 「だったから、なんだい?」 「……なんなんでしょうね? 分かんなくなっちゃいました」 あはは……なんて、渇いた笑い声をあげてヒソカを振り切るように寝返りを打つ。久しぶりに抱っこされたのが意外に嬉しかったなんて言えるわけがない。だってそんなこと言ったらヒソカはきっと私が抱っこをせがんでるんだって、そう思う……私のことを子供だって思うに違いない。 「……カナタ」 「ヒソカさん、今……私の名前」 一度も名乗ったことなんてないのに、どうして……どうして私の名前を知っているんだろう? 「キミだって今ボクの名前を呼んだだろ?」 「それは……団長さんとの会話で、」 「ボクもそうだよ」 「そう、ですか」 ……そうだよね。それ以外の理由なんてありえない、あるはずがない。 「ヒソカさんも団長さんと話したりするんですね」 「業務連絡だよ」 「業務連絡で私の名前が出るんですか」 「それじゃあ、業務連絡とキミの話」 「……私の話なんかしないで下さい。団長さん、あなたのことをロリコンの変態野郎だっていつも言ってますよ」 今のは少し誇張した表現だったけど。 「彼はボクにも同じようなことを言うよ。失礼だよね、ボクはロリコンじゃなくてシスコンなのに」 「私、あなたの妹じゃありません」 「……似たようなものだよ」 自分より年下の女の子を、働かせるでもなく、抱くわけでもなく無償で傍に置いて寝食の面倒みてる状況……たしかに私たちが兄妹ならしっくりくるのかもしれない。 「これからはキミのことを人に紹介するとき妹だって言うことにしようかな」 「それで私があなたをお兄ちゃんって呼ぶんですか?」 「それ、すごくイイね」 「お兄ちゃん……少しもよくないです、かゆい」 僅かにとはいえ好意を持った相手をお兄ちゃん呼ばわりする私も、血の繋がりのない子供にお兄ちゃんなんて呼ばれて喜ぶヒソカも……全部まとめてかゆすぎる、ありえない。 「大体顔が全然似てないじゃないですか。無理があります」 「そうかな?」 「そうですよ」 「……カナタは父親似なのかな」 「は?」 「なんでもないよ、気にしないで」 「私父親には全然似てないですよ、母親にもあまり似てませんけど」 「……それは、そうだろうね」 「どういう意味ですか」 「なんでもないよ、気にしないで」 「……それ、数行前とまったく同じ台詞なんですけど」 ……気にしたら負けなのかも。どうせ私がどんなに追及したってヒソカは何も教えてくれないんだから。 「キミは何も知らなくていいんだ」 ぐずる子供を宥めるような口調でヒソカは言う。ここは何も知らずに生きていけるような生易しい世界じゃないのに。 「……だけど私、知りたいことだらけなんです」 「…………」 「あなたが、どうして私に優しくしてくれるのかとか」 「それはボクがシスコンだから」 「それじゃ答えになってません。私が知りたいのは、あなたがどうして私を、役立たずの私を、妹みたいに扱うのかって……そういうことなのに」 「キミは、」 そこまで言って黙り込んだヒソカは私の額を撫でた。洗いたてで柔らかい私の髪の毛を指で梳く。 「理由なんて知らなくてもいいだろ」 「……どうして」 「だってキミ、今すごく幸せそうにしてるよ」 ……ヒソカの言うとおり、今この瞬間の私は幸せだ、満たされてる。だけど、だからこそ……ヒソカの考えてることを知りたいと思う。 「……やっぱり、ヒソカさんは何も分かってません」 [*prev] | [next#] 戻る |